長岡亮介のよもやま話402「民主的な数学に横柄な暴力的発言が蔓延するのは、とても悲しく許せないことです」

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 今回はちょっと聞く方によっては、非常に嫌味に聞こえてしまうかもしれない話題をあえて取り上げたいと思います。というのも、このよもやま話を続けていると、現場の先生方の中から、本当に悲痛と言っていいような嘆きの声が聞こえてくるからです。私としてはそういう嘆きの声に、私自身はむしろ深い共感を持つ人間として、そういう嘆きの声に、そういう先生方が沈み込まないように元気づけたい。そういう気持ちでお話をしたいと思っています。

 現場の先生から聞こえてくる嘆きの声というのは、もっぱら同僚の反応に対する嘆きの声です。つまり、自分が、頑張ってやっている子供たちがそれなりに努力して新しい数学の境地を開いてほしい、と思って作る問題あるいはプリントが、同僚の先生から、「これはうちの子供たちには難しすぎる」とか「この問題は答えがない」と、そういう言葉で一蹴されてしまうという悩みです。私自身は、「この問題はうちの生徒には難しすぎる」という言い方は、「この問題は、自分には難しすぎてどう指導していいかわからない」という言葉の別表現に過ぎなくて、私自身がもしその場にいれば、「それはあなたがわからないだけでしょ。これがわかるための基礎を教えてあげます。」そう言ってあげたいところですが、やはり現場という世界では、先生たちは皆平等だということ、これをうたい文句にしているでしょうから、なかなかそういうことが言い出せない。言い出すと角が立つ。日本的な社会ですね。アメリカであれば、教師であっても間違ったことを言えば、たかが学生であっても「先生それは間違っている」と言って、その学生が教室からパージされるというようなことはあり得ない。「これは優秀ななかなか見所のある学生だ」と褒められるところでありますが、日本社会というのはなかなかそういうふうにできていない。そういうところが残念ながら学校数学の範囲ではありますね。

 大学に行くと、特に数学科に行くとそういうのが全く無くなりまして、偉い先生と全くあほな学生とが同等に喋ることができる。私にとって思い出深いのは、数学科に進んだときには、数学科の数学会議っていうのは毎月一遍開かれる。そのときに議長を選出するんですが、その議長はみんなが1票持っているので、先生ではなくて学生から議長が選出されることもあり、私が議長になったこともあって、先生たちからブーイングが出ましたけれど、とても懐かしい思い出です。そういうときに、私がいた数学科ではとても民主的で、誰の名前を呼ぶときも、「さん付け」とか、「くん付け」で呼ぶんですね。オフィシャルにはさん付けで呼ぶ。だから私は長岡という名前ですけど、教室会議なんかで先生たちが私を呼ぶときは、「長岡さんはこう言ったけれども」と、言ってくれるわけです。それに対して、私は偉い先生、例えば小平邦彦先生に、「小平さんはこうおっしゃっておりますけれど」っていうふうに言ったりする。みんな「さん付け」というのは、何となく昔の高等学校の時代、旧制高校の時代、誰でも「くん付け」で呼んだ流れだと思うんですね。ときには先生が「くん」っていうふうに、親しく呼ぶこともありましたし、それでも学生の方は先生の方を「さん」というふうに呼んでいました。

 私自身はだんだん先生を「さん」と呼ぶのが何となく恥ずかしくなって、先生に対しては「先生」っていう敬称をつけて、だからといって特に尊敬しているというのではない人に対してまで、「先生」っていう名前をつけて呼ぶことが習慣づきました。特に教員になってからは、教員同士が学生の前で「さん付け」で呼び合うっていうのが、なかなか東大以外ではない文化でありまして、私立大学に行きますと、やはり学生の前で先生たち同士が先生を呼ぶことに「先生」っていう名称を使う。ちょうど病院で医者同士が患者の前で「先生」っていうふうに呼ぶのと同じように、いやらしい世界といえばいやらしい世界なのですが、いちいち敬称を考えるのが面倒くさい。そういうことがあって「さん付け」で呼ぶということが、一般的でありました。先生っていうふうに呼ぶようになったことも事実で、現実の世界として日本社会ではあるということですね。

 数学の世界というのは、本来は本当に民主的であって、数学的な思索において議論するというときには、どんな人も身分の分け隔てがないという言い方が正確だと言ってもいい。特に私のいた大学では、できる学生はもう学生時代から「そいつは特別だ」と先生たちが別格扱いをする。私のことではありませんよ。決して私のようなボンクラではありませんけど、本当によくできる学生は、先生たちも一目も二目も置いているというくらい尊敬していて、大事に扱われていました。数学っていうのはそういう世界なんですね。

 しかしながら、数学以外の世界では、何か毅然とした身分の差というものがあって、身分の低い者が身分の高い者に対して意見をするとんでもないという風潮がある。その風潮が一番激しく数学の世界でさえあるのは、高等学校以下の数学教育の世界で、私に言わせれば、高校生になったならば、あるいは中学生になったならば、よくできる生徒は先生よりも数学がよくできるということがあっても何の不思議もない。小学生の場合でさえそうであると私は思うんですね。私の友人の中に、小学校6年生のランドセルの中に、高木貞治先生の解析概論をランドセルの中に背負っていたという猛者がいましたので、本当によくできる人の方は本当に果てしないなと思いますけれど、本当にできる子供はいくらでもいる。だから、先生たちは本当に謙虚にならなければいけない。

 自分の教えている生徒ができない子たちばっかりであるとすれば、それはたまたまできない子たちばかりの世界にぶつかってしまったという不運か、あるいは幸運か、どちらであるか。よく考えるとわからないところですよね。自分より良くできる子供たちが存在するクラスにぶつかった先生、それはものすごく厳しい職業じゃないでしょうか。もう天才的なバッターあるいは天才的な相撲取りを弟子に持った親方のつらさっていうのは大変なものだと私は思いますけれども、数学なんかで言えば才能がきらめく世界でありますから、自分の持っているクラスの中でそういう飛び抜けた子供たちがいたら、子供たちって複数形で言いましたけど子供単数でもいいですね、1人でもいたら、それは大変に恐ろしいことで、その子供にどういう指導をしたらいいか、朝から晩まで悩み抜くそういうところですね。

 もし幸いなこととして、自分の教えることすらわからないボンクラな子供たちだけが集まっているクラスに割り当てられているとしたら、それはある意味でラッキーなわけですね。その人の才能のわりにラッキーなわけです。その人がもし本当に豊かな才能を持っているならば、そういうボンクラ学生たちの中にきらめく才能を見いだして、それを育み育てることができるはずなんですが、それができない。できない子供たちをできないままに扱っている。これは典型的なボンクラ教師のよくある有様で、自分の今ある数学の学力が最高地点だと思っている。それは私から見れば、ほとんど最低地点と言っていいものなのですが、自分の立っているところより高いところが見えない。これは、人間は誰しも持っている限界でありまして、自分より高いものは見えない。私達はそういういわば絶対的な限界を持っているからこそ、少しでも高いものを見るために努力する。そのために常に謙虚である。少しでも高いものを見るために努力する。そういう日々の努力が必要なのですが、自分たちより低いものを見て、それを馬鹿にするということでもって、自分たちの日々の日常の平安を保っている。これは精神的な堕落以外の何物でもないと私は思うのですが、ちょっと激しすぎる言い方でしょうか。

 本当は教師たるもの、子供たちの中にどんなに発見の難しい才能が無眠っているか、わからない。そういう謙虚さを持って日々の授業に臨んでほしい。そして、そういう子供たちでさえ夢中にするような題材を何とか与えてやりたい、と思って授業に臨む。これが教師として当たり前の義務だと思うのですが、教科書にあることを教科書にある通り教える。私は何回も申し上げているけど、それは死んだ数学で、くだらない数学で、意味のない数学、いわば数学ごっこであって、それをいかに基盤として生きた数学にするかっていうところで教師の腕が試されるというところであるのに、言ってみれば教科書という最低限を保障するところのものが、最高目標になってしまっている。

 そして中には、難しい入試問題を解く。それが最高目標になっているという人さえいる。馬鹿げた話だと思いますが、入試のために出す問題っていうのは、入試で合否を判定するために出すわけですから、できる人ができ、できない人ができない、そういうふうに作っているわけですね。入試問題ですから、出題者が失敗して、あまりにも多くの人が出来すぎてしまうということもあれば、あんまりほとんどの人ができないという問題もできてしまうことがあります。そういう問題を出題してしまうこともあります。しかし、そういうときには採点において、みんなができているときには厳しく採点するわけですね。多くの学生が9割5分取れたと思っているところは、その人たちは0.5分しか取れてないということはいくらでもあるわけです。厳密な数学者の眼差しで見れば、高校生が満点の10番だと思っている答案は、ほとんどボロボロと言っていいわけです。

 しかしながら、高校生が本当に自分としては基礎的なアイディアしか書くことができなかったという、本当に残念に思っている、全然できなかったと思うその答案のアイディアの中にきらめくものがあって、他の人たちが出鱈目なことを書いてごまかしを平気で書いているというときに、誠実なきらめく答案を見たら、その答案の中に輝くダイヤモンドの石があるということを、その原石を優秀な数学者は決して見過ごしたりしないわけです。試験の答案の採点というのは、そのように学理に基づいて行われる。

 これは予備校がやっている模擬試験なんかとは全然意味が違うということを、世の中の人は知らなければいけないのですが、学校の先生たちが結局のところ大学を出た後、大学の数学を勉強してない。あるいは大学院の数学を勉強してない。あるいは大学院後の数学を勉強してない。大学院後の数学を勉強しているといっても、専門知識をひけらかすということしかわかっていない。専門知識といっても、専門知識としてもう確立したものは、それは死んだ数学なんですね。出来上がった数学、専門知識を今の数学にどのように生かすか。今の科学にどのように生かすか。これがすごく面白い問題であるのに、残念ながら本当の意味でそのように生きた数学を実践している現場の先生は、現場の先生は忙しいということもあって、到底そんなことやっている暇がないということはよくわかります。でも大事なことは、自分たちが最高の地点にいるのではない。だから、子供たちの中に何らかの数学的なスピリット、フランス語でエスプリって言います。エスプリっていう方がかっこよくて僕は好きなんですが、そのエスプリを呼び起こす。呼び覚ます。眠っているエスプリ、それを呼び覚ます努力を日々行うということがとても大切なことであると思うんですね。

 もしそのような試験によって、100人中99人が全員白紙で出した。しかし1人がその答案に対して、100点満点の回答を書いていたとする。それは普通試験として好ましくない結果になるかもしれません。しかし、1人の若者の才能を見出したということは、先生としてものすごく大きな業績を残したことになりますね。その子供を別に100点だっていうふうに答案として評価するという必要は必ずしもありません。「君は他の人が誰もできない問題を解くことができたんだ。素晴らしいじゃないか」と言ってやるだけでいいんですね。そして、他のよくある問題をちまちまちまちまする仕方で解いた、それで点数をかき集めた。そういう子供たちに対して、「君よく努力したね。」「君はちまちま点数を集めるのが得意だね。」「君は受験の経済学においてエキスパートだ。」そういうふうに褒めてやる。あるいは激励してやる。あるいは馬鹿にしてやる。そういうことが教師の仕事であって、「平均点が50点で正規分布するような試験問題を作る」というようなことが先生に求められていると思ったら、それだけで大間違いであるということです。

 子供たちの才能は、学力試験でよく言われるように、「成績の良いものから悪いものまで、正規分布で近似することができる」というわけでは全くない。そういう統計学の常識を踏まえない数学の先生がいらっしゃるということは、私はとても残念に思います。しかも、それを「自分の学力のせいではなく、自分の生徒たちはできない」と、生徒のせいにするというのは、私は言語道断であると考えております。ちょっと過激な発言になってしまいました。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    “みんなができているときには厳しく採点する”
    試験の答案の採点というのは、そのように学理に基づいて行われる。

    これは本当ですか。

    みんなが解けなかった問題も、みんなが解けた問題も、平等に厳しく採点するのがマトモだと思いました。

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