長岡亮介のよもやま話398「数学的に考えるとおかしい日常妖狐」

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 今回は、「世の中でありふれていることを数学的に見ると」という話です。本当に正しい意味で数学的にというよりは、数学的に考えることによって、世の中にある常識な事柄の嘘を暴こうという、ちょっとした遊びです。

 例えば、道路交通法などで、「横断歩道の手前で車は停車しなければならない」というようなことが決まっていると思うんです。ところが、横断歩道というのはしばしば、点線で描かれているわけですけれど、その「歩道のどこからどこまでが横断歩道であるのか」という定義が曖昧でありまして、表示されているところの間あるいは表示されているものの一番広い範囲と考えるんだと思いますけれども、例えば、「横断歩道というのが、仮に直線で描かれている」と仮定して、その直線、普通は横断歩道を表すのは2直線ということになるでしょうから、その2直線の間が横断歩道ということになるんでしょう。

 その「横断歩道のヘリの線は横断歩道であるのかどうか」というと、もし警察官にこの質問を発したなら、多分質問の意味がわからないと思うんですね。高校生で数学を勉強している人ならば、これは大いに受ける話ではないかと思うんです。つまり、横断歩道という線は直線であるとして、「その直線上の点は含むのか含まないのか」という、高校数学によくある話と繋がるからです。逆に言うと、世の中で出回っている言葉で、その線上の点というような言葉は、数学的に厳密な意味では使われていないということですね。実際上横断歩道に2センチかかっている。あるいは2センチ手前である。こういうような言い方がまかり通っている状況、一時停止の線にいたっては、本当にかなりいい加減に使われているんではないかと思いますけれども、それを法律なら法律という形で文書できちっと規定しようとすると、現場の警察官が、その法律にのっとって取り締まることがそもそもできなくなる。そういう概念であるということです。

 たまたま今、横断歩道とか、一時停止線という言葉を使いましたけれども、線を使っている日常語はいっぱいありまして、例えば、ガイドラインという言葉がありますね。そのガイドラインにのっとって行動するならば正しい。ガイドラインに反すると、あるいは逸脱すると、それは誤っている。こういう意味で、ガイドラインという言葉が使われるんですが、明らかにそのときのラインというのは、かなり緩い線でありまして、幅を持っている。その幅を持っているものを線というふうに私達は実用的な意味で使っておりますが、では、幅を持っている線の幅のギリギリのところには何があるのか。つまり、幅を持った帯状の図形、その帯状の図形を定義するために、帯のヘリに相当する線、すなわち幅のない線が必要なわけですね。高等学校で数学を勉強した人であるならば、まさに私達が目にするものはみな幅のある線なんだけれども、つまり帯なんだけれども、帯というものを緻密に論理的に定義しようとすると、そこに問題が発生してくるということです。ガイドラインに沿っている、あるいはガイドラインに沿っていないと、人を弁護したり非難したりするときに使うガイドラインという言葉も、それが当てはまる。ガイドラインのギリギリのところについては、ガイドラインは何も語っていない、あるいは語り得ないということですね。それくらい曖昧なものでしかないのに、それを金科玉条のごとく尊重する今の風潮は、少しおかしいのではないかと思います。

 最もおかしいのは、医療におけるガイドラインでありまして、町のお医者さんたちは、偉い先生たちが集まる委員会で決められた学会のガイドラインを守っていれば、生活が保障されますが、そのガイドラインを違反すると、もはや生活の基盤を失う。例えば認定医とか、専門医という資格を失うというわけですね。しかしながら、ガイドラインスレスレのところで、危ないことをやっているお医者さんたちも少なくないわけです。その人たちのことを取り締まることができないのは、ガイドラインに沿うということが法律的には結構ややこしいものを含んでいる、ということではないかと私は想像しています。そしてその背景には、直線というものを持つ難しさ、あるいは直線と直線で挟まれた幅、帯を定義する際に、どうしても必要な帯のヘリにある直線を定義することの難しさがあるのではないか、ということです。

 世の中には、数学的に考えると馬鹿馬鹿しいことになるということで、最初から数学的な精密さを犠牲にしている世界があります。例えば、陸上競技で、走り幅跳びのときに、線を踏み出すか踏み出さないかということ、これは非常に重要なところですね。最後のステップを踏むギリギリの線のことです。実際にはそれは目であるいはカメラで判定しているわけですから、実際上できないということであって、正式な競技ではカメラ判定の結果でもって、「違反している、あるいは違反してない」ということを判定しているようでありますが、あまり本当に意味のあることであるかどうか、観客の1人として、おかしいと思うことがあります。

 その点、私は相撲は大変に面白いと思うんですね。つまりビデオ判定のようなものを導入しながらも、力士が“同体”であると見て、取り直しをするというルールを決めていることです。つまり、見た目に全く同時についているように見えたとしたら、それは「勝負を、そのどちらが地面に先に着いたかということで判定するのは馬鹿馬鹿しい。むしろ相撲としては同体であった」と判定する。そういう知恵が働いているということですね。数学的に厳密なことよりも、「相撲の内容に即した判断の方が合理的である」ということを示しているという点で、私は大変知恵のある解決方法である、と感心しています。

 ちょっと日常生活に関係する話題で、数学の立場からちょっとおちょくるような面白い話をしてみたいと思って、このお話を取り上げました。

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