長岡亮介のよもやま話395「責任は負うべきもので、他者の責任追求は2次的であるはずではないか、という当たり前の原則について」

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 前回(よもやま話389「リスクを回避することの無責任に気づかない現代人の最近の風潮」)お話した内容を、今回は別の言葉で、もう少しわかりやすく端的にかつ簡潔に表現することを試みたいと思います。というのも、私の前回のような発言は多くの人の反発を買うに違いないから、それに対して私も少しあらかじめ抗弁しておきたいと思うからです。

 責任Responsibilityは非常に重要な問題で、責任を曖昧にするということは、あってはならないことでありますが、責任というのは、責任を取ることが大事で、責任を追及する、他人の責任を追及するというときには、自分が神様ではないのだから、同じ人間の立場に立って、他人の責任を追及するというのでなければならない。大事なのは責任を追及することではなくて、責任を果たすということです。自分が同じ立場に置かれていたら、自分だったら責任を取って何をしなければいけないか、ということを考える。責任に関して一番いけないのは、責任を逃れること。責任あることを適当な表面的な言い訳で、それでもって責任を果たしたことにすること。

 今の政治家の発言が、しばしば大変軽く、多くの人に重視されていない。それは、政治家の責任が、発言が責任を持って発せられていないと、多くの人が感じるからですね。責任に関して大事なことは、「責任を追及することではなく、責任を果たすことである」ということです。私達は常に責任を負っているんだということです。現在の社会において非常におかしいのは、責任問題というのが問われるときに、大体は他人の責任を追及している。自分は責任がないと思っている。つまり、無責任の人が、責任あるという人の責任を追及している。自分は無実だと思っている。私に言わせれば、それこそ無責任ですね。

 我々は全員が責任を負っている。全員が責任を負っている中にあって、では、究極的にはこれは一体何がいけなかったんだろう、あるいは何が幸いしたのだろうという、責任を追及するという面と、功績をたたえるという面と両方あると思いますが、それをきちっと明らかにすること。私達の国では、功名争うときには、「俺がやったんだ。俺がやったんだ」って自分を売り込む人が多い。だけど、失敗の責任を負うということになると、「それはあいつのせいだ。あるいは別のあいつのせいだ」と言って、自分たちがその責任を負わない。そういう体質がすっかり社会にあるいは組織に染み込んでいるんじゃないでしょうか。

 私に言わせると、いわゆる“長”というのがつく役職者の最大の仕事は、責任を取ること。部下の決心に対して、その決心でいこうと賛成したら、その賛成したことの責任を取る。これが上職の仕事であって、責任を取るのは上職の仕事なんですね。部下の仕事ではない。部下は新しい仕事を意欲的に提言する責任はありますけれども、その責任について失敗したときに、責任を取れと言うのはおかしい。部下は新しい仕事に挑戦しているわけですから、その仕事がうまくいかなくたって、それは当たり前。その当たり前のときに、あの部下がそういうことを敢えてやった。そのことについて承認をしたのは私の責任であると、上職というのはそういう仕事をしているんだと思うんですね。ゴーサインとか、あるいはnot Go,ネガティブ ゴーサイン、いずれかを送ることによって、そのプロジェクトを推進したり、あるいは阻止したり、阻害したりするわけであります。その責任というのは上職にある者に、永遠につきまとうわけですね。大事なのは、そういうときに責任を負うということで、責任を逃れる、「これは部下が言い出したことで私が承認したことではない」と言う上職がいたら、それこそクビですね。全く役に立たない上職と言わなければならない。

 残念ながら日本の組織は、まだまだそういう人たちが少なくないと思いますけれども、日本の戦後の経済成長期においても、日本の新しい産業を牽引してきたのは、そういった立派な責任者だったんだと思います。最近そういう立派な責任者が減っているということが、日本の産業ビジネスの全分野にわたって、日本の産業のいわば脆弱性というのを、象徴しているんではないかと思うんですね。

 責任は、取ることが大切であって、責任を追及することは大切ではない。責任をもし追求するならば、「自分自身が同じ立場で責任を追及される立場に、身を置いて考えてみろ」ということです。私達が同じ立場にあったときに、どのような判断をすることができたのだろうか。それと異なる判断をするために、私達にどのような教養が必要であったんだろうか。私達にどのような覚悟が必要であったんだろうか。あるいは私達にどのような未来予測に関する十分な情報が必要であったんだろうかということです。そういうことを無視して、「あれがいけない」「これがいけない」と、他人(ひと)の揚げ足を取るということは、責任追及という名の、自分の無責任の表明でしかないということです。

 民主主義社会というのは、個人が大事な社会、大事にされるべき社会ですけど、個人が大事にされるべき社会っていうのは、個人が1人1人が責任を持った存在として、活動をしなければならない社会です。個人が1人1人が責任を持つということは、個々人が他人の責任を追及して、それで良いことにする、という無責任社会であってはならない。自分も責任を同じく追及する側にいるということを常に意識しながら、他人の責任を考慮して、一歩一歩責任を持って進んでいけるかどうか、毎瞬毎瞬の決断が求められる社会であるということですね。そういうことを根本的に理解していないと、やはり責任を追及してばかりいる社会がおかしい、という私の発言の一面だけを捉えられてしまうと思いまして、あえて補わせていただきました。

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