長岡亮介のよもやま話392『数学って何をするものですか?』という率直な質問にお返事した話

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 長年ドイツで活躍していらっしゃったピアニストの奥様という老婦人と、ある会で同席いたしました。そのときに、彼女がピアノのプロフェッショナルの近傍で生きてきたという話から、「あなたは何をしているのか」と言われて私は困りながらも、「数学である」と答えたら、「すごい。数学なんて私は小学校の算数でそこで終わってしまって、それ以来何も知らない。」そうおっしゃって、「数学っていうのは一体何をやることなのか」と非常に率直にお尋ねになったんですね。海外生活が長い方であったならば、当然であろうその率直さに打たれて、私はできるだけ明快に、しかし単純なテーマで答えなければいけない、と考えて苦労して答えたものが次のようなものだったのです。

 それは、$2+3=5$ になるということ。この計算方法については、小学校で勉強しますよね。そしてみんなそれがわかったというと、それはそれで素晴らしいことなのですが、ところで、$2$ というのは一体何か。$3$ とは一体何か。それを「足す」というのはどういうことか。したがって、「 $2+3$ が $5$ に等しいとはどういうことか、ということを考えるのが数学なんです」と返事をいたしました。そうしたら、そのご婦人が、「まるで哲学みたいね」とおっしゃったのです。まさに数学は哲学で、数学の学位は未だにPh. D (Doctor of philosophy) と言うわけで、今でも国際的な場面で、自然科学やエンジニアリングも含めて、本物の学位はDoctor of philosophy 哲学博士と言うわけです。

 「哲学」という言葉が、日本ではかなり誤解されて使われている。哲学というと、何か七面倒くさいことを議論する特別の専門分野と思われているからだと思うんですが、実は数学にしても、日本の「数学」という言葉の翻訳が、私がいつも言うように間違っているので、mathematicsという言葉は、本来の意味では「勉強しなければならないもの」いわば「必須教科」という意味であったわけですね。そのmathematicsという必須教科の中に、昔の数学であるarismetic数論であるとか、geometry幾何であるとか、そういうものが入っていた時代に比べると、今はずいぶん数学の範囲も広がりまして、言ってみれば、芸術に近いような数学あるいは技術に近い数学もいっぱいあります。

 mathematicsの範囲が大変に広がっているので、「数学って一体何?」と言ったときにお答えすることが難しいわけなんですけれども、「私は小学校の数学は知っている。それで数学は全て終わっている」とそうおっしゃる謙虚なご婦人に、「数学的な思考とは何か」ということの一端を紹介しようと思ったんです。その際に利用しようと思ったのは、皆さんに既に前に紹介した話ですが、$2+3$ と $3+2$ が等しいということは、小学生でも知っている。そして小学生ならば、それが両方とも $5$ になる。だから等しいに決まっている。そういうふうに答えて、それで済むわけでありますが、それを一般化して、どんな自然数、例えば $m,n$ という $2$ 数についても、$m+n$ と反対に、$n+m$ 、$m,n$ の順序を変えたもんですね。それが等しいということを証明しろと言われたら、ちょっと困るわけです。なぜならば、$m+n$ も $n+m$ も計算することができない。それは概念として与えられているだけなんですね。数学の場合、数式の記号で表現されているものというのは、実際に具体的に計算するというものではないんだということ。そのことについてお話をしたんですが、みんなにそれが伝わったかどうか、私も自信が持てません。

 しかし、数学におけるいわば「思索性」、思索によって結論を得るということの素晴らしさ、それが数学の魅力だと思うのですが、数学においては、思索だけが武器になる。近代においてはその思索を助けるために、様々な記号法とか、便利な概念っていうのがたくさん発明されているわけです。そういった概念を使いこなすことによって、私達は思索を通して世界を解釈することができる。これが素晴らしいことなのですが、どうも実学の世界の人たちは、「計算して結果を出してなんぼだ」という発想からなかなか抜け出せない。それは当然のことでありまして、実学においては「役に立ってなんぼ」ということでありますね。

数学の場合も、数学は大いに役立つということを、もっともっと宣伝していいと私は思っております。数学を役立てることは、数学をマスターすることと同じくらい難しいことでありまして、純粋数学の難しさを語る人は、応用数学の方がやさしいと思う人がいるのですが、それは大間違いで、応用数学には応用数学の難しさ、深淵な難しさがあるんですね。本当に立派な応用数学を構築する人というのは、数学の中身がわかっているだけではなくて、純粋数学がしっかりとわかっているというだけではなく、その純粋数学の中に潜む応用可能性を洞察するすごさを持っているわけでありますから、18世紀19世紀の純粋数学の人々は、また応用数学においても立派な業績を残してきているわけであります。

 最近では、数学の分野も広がりまして、なかなか応用数学の方にまで、純粋数学の人の手が回らないという現実はありますけれども、実は純粋数学を応用数学に応用する場面は本当にいっぱいあるわけです。統計学はその代表的なものでありますが、古典的な応用でありますね。今しきりに言われている人工知能、AIと言っているものも、数学から見れば非常に簡単な応用に過ぎない。しかし、簡単にすぎないと言っても、その簡単にすぎないものを、実用に耐えうるレベルで実行できるためには、高速コンピューターしかも大容量のストレージハードディスク、そういうものを備えたものが必要になってくる。こういう現代なら初めて現実的に可能であるという側面もあり、そういう現代の時代性を利用して、数学を、例えば人工知能とか、生成AIとか、そういう新しい言葉に置き換えて、新しい流行を作っている人は、なかなか賢いなと思いますけれども、数学的にはずいぶん昔に研究されてきたものでありまして、もう70年くらいの歴史を持っている。IBMが大型コンピュータを作った時代から、現代の人工知能というのは、コンピュータサイエンティストの視野に入っていたわけです。

 そのように、応用数学は、応用数学を理論的に開発する場面あるいはそういうステージと、応用数学が実際的に応用できる現実的なステージ、それが時間的にずれていることがあり、これが技術というものを持っている必然的なくびき、制限であると私は思います。けれども、現在はそのようなくびきから解放されて、私達はコンピューターを本当に手軽に使うことができるようになってきている。そういう意味で、応用数学の世界も本当に広く広がっているわけです。しかし、その応用数学の中で使われている。数学は、言ってみれば中学校のレベルにちょっと毛の生えた程度の数学であるにすぎないのです。学校数学が残念ながら本当につまらない些細な勉強、いわゆる「お勉強」と私はあえて言うのですが、そういうものに限定されているために、あまりにも学校の勉強と応用数学の世界が切り離されて、遠く隔たったものとして皆さんの目に映ってしまっている。これを私は大変残念に思います。

 応用数学には応用数学ならではの面白さがあり、その応用数学を支えている数学は、既に出来上がっている純粋数学のほんの一部分の結果を利用しているに過ぎないということ、それをお話したいと思いました。

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