長岡亮介のよもやま話384「初等数学の花形と言われることの多い微積分について思うこと」

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 数学においてシグマ記号とか積分のインテグラルと呼ばれる記号の持つ深遠な魅力について、それに魅了される人々とそれに蹴落とされる人々とに分かれてしまう現象が見られることは、私は残念に思っています。なぜかというと、シグマ記号にしても、インテグラルの記号にしても、英語で言えば、SAMつまり加法における和という記号、その言葉の頭文字Sに相当するもので、シグマ記号の方は、ギリシャ語のSに相当するものであります。

 例えばギリシャ人の哲学者Socratesの最初はシグマ記号で始まるわけです。ソフィストというギリシャ哲学において重要な役割を果たしてきた人々の頭文字もシグマで始まる。シグマというのはSに過ぎない。同じように、インテグラルという記号も和をとるということのSumあるいはSummationという言葉の頭文字Sに由来して発明されたものにすぎないわけです。シグマ記号というのは、いわば有限のあるいは無限の和を求めるという単純な記号ですが、インテグラルの記号の方は、単には和を取るというのではなく、1個1個の和をとる要素は無限小である。無限小のものを無限個集めることによって有限のあるものを表すというのが、アイディアの非常に面白い点でありまして、単純化して考えれば、シグマ記号とインテグラルっていう記号は両方とも同じものであるといっても差し支えない代物なんですね。

 そのような記号を持っている根本的な意味がわかってしまえば何てことはない話なんですが、その何てことないという話が何てことないとわかるためには、ちょっと平凡でない努力を必要とするということですね。多くの人は平凡でないことの意味を理解するということをさぼって、その記号の使い方をマスターすれば、見よう見まねで使えるようになればそれでいいと、いわば目標を下げてしまうというふうになりがちでありまして、積分というのは、微分と含めて微積分ということもありますが、これは高等学校以下の数学において「最高峰の水準」と思われていますが、数学の中では、私の見る限りは高等学校1年生で勉強する論理、例えば必要条件とか十分条件というような論理の基本と比べると、マスターすることが遥かに簡単な計算的な手順に過ぎない。実際、英語では微積分の入門編のことをcalculusと言います。計算術なわけですね。計算術であるという以上、それは言ってみればその計算の術Ars(アルス)、英語にすればArtですね。そのArtをマスターすればどうってことないわけです。Artというのも、その芸を極めるということはそれなりに難しいことであるということも間違いないことでありますが、Artは所詮Artにすぎないわけですね。現代ではアーティストっていう言葉が尊敬語として使われる風潮がありますけれども、Ars(アルス)という言葉の語源にさかのぼって考えてみれば、Ars(アルス)、技芸というものの本当の背景を究めるためには、アカデミアを探求するための学術の世界を極めることが必須なわけですが、その学術のような永遠不滅の究理の世界を置いておいても、とりあえず役に立つことを極めようと、これがArs(アルス)あるいはArtの世界であるのだと思います。

 そういう意味で数学においては、Artはそんなに大事ではないのですが、微積分においては、とりわけその技芸の部分が大きな役割を占めているわけで、その意味で高等学校までの数学の中で、微積分は最もやさしいものであると言ってもいいくらいであるわけです。これがなぜ「高級な数学」と誤解されるかというと、高等学校における微積分が、17世紀にライプニッツやニュートンによって作られた時代の精神を体現しているというよりは、むしろ18世紀19世紀を経て、そのいわば微積分という計算方法の中に潜んでいた論理的に怪しい部分をすっかり究明し終えて、極限という概念に基づく理論的な学問として再構成された姿、それが19世紀以降の微積分の姿なんですが、それを部分的に反映して、いわば厳密な学問としての微積分という体裁を、一部分とっているからなんですね。

 微積分の学問としての難しい部分を極めるのは、今は大学の数学の領域に入るわけですが、かなり難しいことではあります。しかし、大学の難しい数学を理解してないと高等学校の微積分がわからないかというと、そんなことは全くない。よく大学の先生が教えている学生を「うちの学生は全然出来が悪いんだ。微分や積分の定義を知らない。微分積分の計算しかできない。」と嘆く風潮がありますけれど、微分とか積分の定義は、ニュートンやライプニッツだってなかったわけです。持っていなかったわけですね。関数の定義さえなかった。ですから、大学の先生が嘆くのは全くナンセンスでありまして、ニュートンやライプニッツのような偉大な数学者でさえ、基礎概念の理論的な解明という点では全く不足していたわけです。そのような全く不足していたニュートンやライプニッツでさえ切り開くことができた奥深い応用の世界、これがあるわけでありまして、まさにニュートンは微積分的な手法を物理に応用して、惑星の運動を解明した。

 ニュートンは、惑星の運動を解明した“プリンキピア(Principia)”という有名な本の中で、微積分を使っているか、計算術としての微積分を使っているかというと、そうではないんですね。ニュートンは計算術としての微積分法ではなくて、いわば考え方としての微積分法を使っている。ですから、ニュートンの“プリンキピア”は、現代の読者が読んでも、ちんぷんかんぷんでさっぱりわからない。現代物理学で勉強した方がよほど簡単だ。そういう古典力学の世界においてさえ、非常に苦労をしていたわけです。その時代当然ニュートンは、微積分法という簡単な計算方法を開発しましたけど、それによって自然の運動を解明したわけではない。微積分の根底に横たわる考え方を応用して、自然の原理を数学的に解明することに成功していたわけです。

 そういうわけで、ニュートンでさえ、近代的な微積分を自然の究明に応用したわけでは決してないわけですね。そういうわけで、現在の数学の基本にある関数概念であるとか、極限の概念であるとか、そういった微積分の基本となる概念も、実はニュートンやライプニッツも持っていなかったということは、大変に印象的であるわけです。いわば高校生に微積分をマスターしろと言うときには、ニュートンやライプニッツ的におおらかに微積分に付き合うということが大切なことなんですが、高等学校の教科書には、偉そうに後世の浅知恵で、極限の話は最初に載っていて、その極限の話を浅知恵と言いましたのは、その時に出ているような極限の概念というのは、様々な歴史の中で否定されてきたものを多く含んでいる。したがって、論理的には極めて不完全であると言わざるをえない代物なんですが、それをあたかも歴史的に勝利した人たちの考え方であるかのように装って、歴史を隠蔽して教えている。だから簡単そうに見えるだけなんですね。

 でも、高等学校レベルまでの微積分というのは、そのような歴史を総括した深い理解を要求しているんではなく、あたかも17世紀の自然学を探求してきた人々が、数学を利用して、例えば自由落下の問題とか、あるいは太陽を焦点に持つライン軌道を描くような惑星の運動を説明することができれば十分だ。そういう立場で、微積分を構成しようとしているわけでありますから、その目標にかなえば、私自身は十分である。残念ながら、今の高等学校ではそのような物理学への応用さえ視野に入っていない程度の、ものすごく空疎な微積分しか教えていない。それが実情であると私は残念に思っておりますけれども、「それが論理的に厳密な基礎の上に打ち立てられたものである、というのは完全な誤解である」ということを、私は声を大にして申し上げたいと思うんです。

 つまり、学校数学における最終目標と言われてきた微積分でさえ、極めて素朴な、ナイーブな、本当によく言えば健全な、悪く言えば純粋無垢な、そして論理に関して基礎をきちっと疑うことを知らない、そういうレベルの非常に粗野な数学でしかない。それを理解してさえいればいいんだっていう立場で、教育され、それを学習することを求められているわけですから、大学の先生がうちの学生は微分の定義を知らないなどと嘆くのは全くおかしな話で、高等学校における微分の定義は、「与えられた関数に対しその導関数を求めることで」と定義しますが、導関数の定義をするときに極限を使った定義をするわけですが、極限の定義は高等学校では元々インチキであるわけです。そのインチキであるということが、もうニュートンやライプニッツの時代に指摘されていて、彼らはそういう定義を避けて微積分学を作っているのに関わらず、大学の先生方の方がその歴史を理解していない。これは情けないことであるし、それをまして学生に要求することはとんでもないことであると、思います。

 学校の先生は、高等学校の先生にしても、大学の先生にしても、また中学校や小学校の先生にしても、自分たちの教えている数学が最終形ではない。いわば発展途上・発達途上の子供たちが成長する過程で、自分たちがそれぞれの段階に応じて、その学生たちの発達に付き合っているんだ。そういう自覚を持つことが大事だと思うんですが、何か自分が上から目線で生徒を見る、あるいは学生を見る風潮が一般的であることは、私は大変残念なことであると思っております。皆さんはいかがお考えになるでしょうか。こういうことを言うと、学校の先生からは叱られるかもしれませんが、おそらく私は私が必ず存在するに違いないと思っている先生方の中で、多数ではないけれど、0.1%くらいかもしれないけど、本当に良識ある先生方は、私の意見に対し拍手喝采を送ってくださるんだと信じております。

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