長岡亮介のよもやま話379「学校教育の無駄ー高校数学版」

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 今日は、ちょっと学校数学について、テクニカルな話をさせていただきましょう。というのは、私はしばしばこのような話題をするときに、小中学生のレベルの話で、あまりにも無意味ではないかとそういうことを取り上げてきました。まさに私自身の経験から、大化の改新とか、聖徳太子とか、中大兄皇子とか、小野妹子とか、会ったことのない人の言葉、会ったことのない人のこと、その有名な人らしいのですが、そんな人の名前を覚えて、年号を覚えて、それによって討たれた人 蘇我入鹿、私自身は本当にあほな少年でありましたから、イルカっていうのは水族館にいるようなものしか知りませんでしたし、子という名前がつくのは女子だけだと思っていたほどですから、全く、そんなことを勉強することに価値がなかったわけです。そういう誰にとっても価値がないっていうふうに思っていただける話、それを例にとっていいまして、一方で、皆さんが役に立たないと思っている小学校算数の中でしか意味の持っていない、そういうものを未だに教えているのかという批判に対して、それは素朴すぎるという話をいたしました。

 それを受けて、今回お話しようと思うのは、実は学校というところは、ちょっと油断すると、本当につまらないことをさも意味のあるかのごとく教えるような場所であって、アインシュタインではないけれど、実は学校時代のことは全て忘れ去ったときにやっと意味が見えてくる、そういう世界であるという話を具体的にしたいと思うのです。それは何かというと、高校数学の中で、学ぶのに一番実用的な意味から価値があるのは三角関数なんだと思いますが、三角関数が一番身近なものであるということは、ほとんどの人にとっては理解できないことでしょうから、その身近な、毎日の日常生活の中で三角関数が使われているとは夢にも考えないと思うんですね。それは、高等学校における三角関数が実にくだらない、終わってしまった三角関数の理論、あるいは学校数学のための学校数学の話題、それに終始しているからです。

 典型的なのは、三角関数に関する問題で皆さんが覚えているのは、sin の値が2分の1となる角、それは何なのかと。360度法でいえば30°とか150°とかそういうところでしょう。ラジアンという単位を知っているならば、π/6とか5π/6、それに一般に1周分、2π、それの整数倍をかけた2nπを加えた形で一般解が表されるというのは、sinx = 1/2 という方程式の解であるというつまらないこと習っているんですね。その問題がほんのちょっと変わったら、もう解けない。例えば、sinx=1/3 となるxは何ですか。多くの人はわからないって答えるんじゃないでしょうか。sinx=1/4  となったら、ますますわからないと答えるのではないでしょうか。たまたま2分の1という場合だけ答えることができる、そんな問題を解くことにどんな意味があるのでしょう。2分の1という値が、厳密値ではなくて、ほんのわずかにずれただけでも、もうできないんですよ。sinx = 1.1 /2  分母は2ですけど分子が 1.1 になってしまった。わずか0.1 ちがいを2で割っていますから、全体で言えば、どのくらいの違いと言ったらいいんでしょうか、それともやっぱり10%の違いっていうふうに言うんでしょうか。とにかくそのように微細な変化をしただけで、もっと微細でもいいです。sinx = 2分の分子が 1.01  こういうふうに変わるだけで、もう解けないわけです。

π/6とか5π/6とか、そんなふうに覚えて、それを学校数学の中では有名角っていうんだそうですね。π/6とかπ/4とかπ/3とか。本当に馬鹿げていると思います。

 三角関数に関する方程式っていうものをもし問題とするんだったらsinx = a、a は与えられた定数で、例えば0と1の間とするとします。そのときにsinx = aというのを満たすxを求めるにはどうしたらいいでしょう。このときに、もし必要だったならば、sinα= a となる、そういうαが存在するということは使ってもかまいません。ただしαはπ/2とπ/4の間にあります。例えばそんな問題を作ったら、日本でそれが解ける人は、もう下手すると1割もいないのではないでしょうか。実は今の問題は、数学わかっている人から見れば、馬鹿みたいな問題でありまして、実は考える必要さえない。sinx = a それを満足するx の値を求めるのに sinx = a  を満たすような x の例が一つαっていうふうに見つかっていると一般の角は  x =α+2nπ  とか、π-α+2nπ、こういうふうに表されるわけです。

 それが三角関数の周期性という非常に三角関数の持っている重要な性質、周期的なものというのは、自然界においていっぱいあるわけで、私達の体の中でも心臓の拍動のように、周期的に繰り返している。そういう現象が、もう私達の体の中に見られるわけですね。そういう周期を持った現象、それを解析するために、三角関数というのは強力な武器になっていて、今皆さんは若いから、あまりお医者さんに行かないかもしれませんが、例えば健康診断なんかで心電図をとったりするときには昔は心電図を取るっていうと、ベッドに10分以上寝かされたと思います。10分間分の心電図を取っていたわけですね。ところが今は違います。わずか1分くらいで終わります。1分間くらいの心電図の波形、それをコンピュータが処理して、重要な医学的な情報として意味のある、形の心電図に加工して、パタパタって打ち出してくれるんですね。心電図を読めなかったドクターであっても、その心電図から出てきたこのアラート、この人にはこういう心疾患がある可能性がありますというのを見れば、それで判定できるというふうに、いわば医療機器の方が、医療以上に進んでいるわけです。今、多くの人は医学が進歩したというふうに言いますけど、かなり間違っていて、医学は依然として進歩していない。しかし医療を巡る技術は、本当にびっくりするほど進歩しました。そして、医学に関して言えば、医学の基礎部門に関しては基礎医学という領域に関しては、それはそれは驚くほど大きな発展を遂げました。医学という臨床に関して言えば、エビデンスということが重要視されるようになってから、比較対象という疫学的な、あるいは統計学的な処理、これが導入されてから大きな進歩を遂げました。それまでの常識が、本当に180度といっていいくらい正反対に、変更されるということがこの30年間の間に、至るところで起こってきているわけです。そのくらいでありますから、医学においても進歩があるわけですが、大きな進歩があったのは、医学そのものというよりは、医療機器を巡るサイエンスandテクノロジーの分野、そして、薬を巡る化学的なあるいは生化学的な学理の進歩、これについては、本当に目を見張るばかり大きな進歩でありますけれども、そのことに気づいている人は意外に少ないですね。要するに学校での勉強が、ちゃんとしてなかったからなのです。

 高等学校までの勉強において、そもそも学問というのはどういうことをすることなのかということをきちっと教えてくれていれば、日本人の教養ももっと上がったに違いないと私は思いますけれど、その例として、例えば三角関数に関して、今、学校数学の教えられていることは、私から言えば大げさに言えばですよ、全部無駄、全部陳腐、そういうものではないかと思うんです。もちろんこれは大げさな話であって、その中には非常に重要なものがある。しかし、その重要なものが隠れてしまうくらい重要でないもの、非本質的なもの、それが表面に出てしまっている、ということですね。本当はそういう目立つものの陰にひっそりと隠れている重要なものに眼差しが向かうような知的な雰囲気が、学校に溢れているということを私は期待しているのですが、残念ながら今は教科書まで含めてですね、規範となるもの模範となるものそれが、規範的でない模範的でないように私は思うんです。

 ですから、昔は数学ができる人は頭がいいというふうに言われた時代がありまして、私は随分それでおもはゆい思いをすると同時に、得しているなという思いもありましたが、全然そうではない。数学という問題を解くという技術に長けているだけ。それは実に人間として言えば、いわゆる軍曹として優れているというだけであって、参謀として優れているというわけではない。難しい問題があったときに、その難局を打開するための戦略、それを練ることができる。そういう創造的な力、それは必要とされていないわけですね。その場その場で決まりきったルーティンを決まりきったルーティンに従ってやればいい。言ってみれば、従順な兵隊教育にすぎないということです。中等教育がこのような一般の兵隊教育というか、今で言えば工場労働者教育というのでしょうか、もう工場には労働者がいませんから、これは言ってみればサラリーマン教育というのでしょうか、そのようなものに堕落してしまったのは、特にこの30年間でありますけれども、なぜそうであるかという話はまた別の、いずれ別の機会にするとして、そこまで堕落しきってしまった学校にわざわざ行って、時間とお金を使うということにメリットがないっていうことになぜ多くの人が気づかないのでしょうか。日本は学歴社会でないという話は、もう既にいたしました。大学受験というものが既に崩壊しているということもだいぶ前からお話して参りました。そういう現実がありながら、人々はこの現実の状況を判断することができないでいる。そして、これからの学校教育は、学級全体がみんなで話し合って、民主的に結論を出す、そういうプロセスを学ぶのが新しい学校の学びのスタイル、こういう馬鹿げたキャッチフレーズ、こんなものがマスコミで堂々と言われ、誰もそれに対して反対しない、殆ど信じられないほどの馬鹿げた状況が進行しているということです。そして、学校というのは、そのようにつまらないことをつまらなく、教えるんだったらまだいいのにつまらないことをさも大切かのように人生を決める切り札であるかのように装って、もっと正確に言えば、それを詐称して、教えている、そういうところではないかということです。

 私がこういうふうに言ったからといって、学校制度っていうものを否定しているというわけでは全然ありません。学校において、いろいろな学友と交わること。これは、とても大切な人生の経験だと思います。できれば、そのような学友との交わりが、知的な交わりであるということを私は期待しているわけで、その知的な交わりを刺激する。それを実現させるために、まず教育の内容がもっと知的にならなければならないなと思います。その典型が、多くの人が勉強して嫌だったという記憶しか残らない三角関数の勉強だと思いますが、その三角関数が、皆さんが毎日電車に乗っても手放せない携帯電話、その一番重要な基本的なテクノロジーであるということ、あるいは皆さんが前にし、それなしでは生きていくことができないとさえ思っている。電気を支えているテクノロジー、そのテクノロジーを支える学問的な理論であるということ、そのことに気づいている人は本当に少数ではないかと思います。それくらい学校教育は、意味のないことばかり教えているということです。dLとかヘクタールに腹を立てているような軽薄なことであってはならないと私は思います。

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