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今回は、数学というものについての誤解がここまで普及してしまったかと、私が感じている事柄があるのですが、多くの数学関係者がそう思っているはずだと思いますが、それの根拠について考えてみたいと思います。
多くの人は、数学というと、おそらく「問題を解く」ということを連想するんだと思うんです。数学と問題解決あるいは問題解法、英語ではよくProgram solvingっていう言い方がありますが、深く結びついているわけですね。しかし、問題とか問題解法、問題解決というふうに一般的に考えてみると、それは決して数学だけの問題ではないわけですね。例えば、校内におけるいじめ問題を解決する。あるいは学校に来ない子どもたちがいると、不登校生徒の問題を解決する。こんなことが日夜、学校や教育委員会で話題となっているのではないでしょうか。
私は前から言っていますように、不登校ということを決めている生徒に登校を命令することなど全く意味がないし、そもそも学校に行く必要はない。学校に行く権利を若い子どもたちに与えているところは大事なことですが、みんな学校に行かなければいけないというほど、今の学校は立派なところではないように思うんです。それはそれは私が子どもの頃は学校が好きで好きで、とにかく学校に行くということを毎日楽しみにしていました。日曜日とか私にとって退屈な日でした。学校の方が遥かに楽しかったからですね。日曜日は授業がないので遊びだけに集中できるという良さはあるのですけれども、やはり学校に行って学校の友達と、短い時間かもしれないけど、それで遊ぶということが大好きで、そして学校が終わった後、また遊ぶ。でもその間に学校生活があって、私は勉強をしたという記憶はあまりないのですが、今でも足し算とか引き算とか掛け算、割り算の関係が明白にわかっている。計算の仕方の根拠がわかっている。こういうことを教えてくれた小学校の先生に私は深く感謝しています。私がどうしてそんなことを理解できたのか、自分でもよくわからないんですが、学校のおかげであったと思います。そういう学校を通じて友達と交わったこと、勉強と遊びが一体となって共存していたこと。これが私にとって本当に懐かしく楽しい思い出です。
しかし、もし学校に行くのが楽しくないなら、学校に行く必要は全くありませんよね。そして、学校に行ったのと同じくらい勉強がしっかりとできるのであれば、学校に行く必要なんかサラサラない。そんなふうに思っているわけで、不登校問題について、本当に眉をしかめて議論している先生方あるいは教育委員会の人々のことを想像すると、全く馬鹿げたことをやっているなと感じます。学校を魅力的にすることが大切なのに、ますます学校つまらないものにしている。そんなことにつまらない議論に没頭している自分たち自身の姿がいかに子どもたちに魅力的に映っていないのか、その現実を直視すべきだそんなふうに思ったりもするわけです。
そんなわけで、問題と言っても、この深い問題について、それを解決するための方法はいろいろあると思うんですが、その問題をしっかりと捉えていないから、解決の方法も見えないんだと思うんですね。国際情勢の問題。本当に今深刻な問題があります。しかしその深刻な問題を問題としてきちっと定式化することができない。とりあえず子どもたちの命を救わなければいけないという緊急事態。だから今さらその問題の本質とかっていうのを議論している場合じゃない。とりあえず助けなければいけない、そういう緊急性があるんだということ。それは十二分に承知しているつもりですが、そういう場合でさえ、「どのように助けなければいけないか。どのように私達が行動すべきか」ということについては、きちっと考えなければいけない。国連が「一部の活動が不適切である」ということが指摘されて、国連に対する寄付をする国が寄付を拒否するという事態が生まれている。それは要するに、国連の緊急援助というのが、その緊急援助という重要性の高い問題に対して、それに携わる人々がその重要性を本当に理解しているわけではないということを明らかにしているんだと思うんです。
「問題を解くということは、数学に限らない」ということが、まず今日お話ししたい第1点です。問題を解決する。問題を解く。英語では問題解法のことをSolutionといいます。Solutionっていうのは、solveというと数学で言えば問題を解くっていう意味なんですが、溶液に何か薬を溶くとか、そういうときの溶くという言葉にも使えるわけで、問題をといて氷解するという日本語がありますが、そういうふうにして今まで問題としてあったもの、ザラザラとした存在でそれをすっきりとしたものにする、それがソリュSolutionであるわけです。
ですから、ちょっと150年くらい前の数学では「不連続点」という、数学的に言うと関数の振る舞いの中で、ちょっといやらしいやつ、困った存在。その困った存在を解消する。連続的なものにする。それを不連続性のSolutionと言っていたわけです。不連続性という問題を解くわけじゃない。不連続性という問題をなかったことにする。それをSolutionって言いました。問題解決っていうのは、そのように本当に広い概念で、私達にとって厄介な問題を何とかして解決する。その問題がなかったことにする。なかったことにするっていうのは、目をつぶるという意味ではないですよ。問題そのものを、それが存在しないようにする。これが問題解決であり、その問題解決のためには、問題が何なのかということを、しっかりと理解することが必要である。
多くのジャーナリズムのように、何か事件を報道して騒ぎ立てればいい。あるいは短期的な予想を、括弧つき「専門家」をスタジオに招いて、そこでうんちくをたれてもらえば、それでわかったような気になる。こういうことでは全くないわけですね。ですから、問題解決っていうのは数学に限らない。しっかりと問題を捉えるということが問題解決のための、何よりも大切なステップである、ということです。
その上で、ではなぜ数学で問題解決あるいは問題解法というのが、強調されるのか。これは別に現代に始まった話ではない。私が見るところ、全ての古代文化圏の中に、数学的な問題に対して格闘した記録が残されている。その問題を見ると、数学的に非常に深遠な問題に取り組んでいるということもないわけではありませんが、大体はただのパズルのような問題なんですね。これが「当時の人々が生きていく上で、問題を解決することが、もう是が非でも必要だ」という問題としてあったんではなくて、おそらくはそのような問題を解決する能力を見るための試験であったに違いないと私は思うんです。どういう試験かっていうと、官僚であるとか、あるいは僧侶であるとか、医師であるとか、社会にとって重要な役割を果たす人々を教育し鍛える。そのためにその候補生を選ぶときに、数学の問題を課して、それが解決できる程度の知能がないと話にならない、ということであったのではないかと想像するのです。
そういうふうにして数学の問題が使われたということは、私は極めて深い叡智が働いていたと思うんですね。なぜならば、例えば人々が争っているときに、その争いの問題を解決するというためには、双方の話をよく聞き、争いに至る歴史を深く知り、争いをなくすための段階的な行動計画っていうのを作らなければならない。難しすぎるわけです。それに対して数学の問題は、とりわけ初等的なレベルの数学の問題は、問題を設定するのも簡単だし、それに解答を作るのも簡単。つまり数学では問題が簡単に作れる。そして、その問題の意味がわかれば、誰でもがその問題に対して合理的な解法を見つけることができる。そういう問題と問題解決というのに向いた分野であるわけです。もちろん数学の中には、非常に深い問題がありまして、その問題は、問題の意味を理解することでさえ容易でない。そういう問題がいっぱいあります。というより、数学の問題はほとんど全てがそうなんですね。
ただ、学校で教える数学の範囲に関して言えば、小学校・中学校・高校あるいは大学初年級までの数学というのはいわゆるお勉強ということで、基礎的な学問への道をたどれる人としてしっかりと成長するということ。そのために課されている問題でありますから、数学的に見れば、あるいは学問的に見れば、たわいのない簡単な問題なんですね。解けて当たり前という問題なんです。でも、小学校1年生にとっては難しい。あるいは中学校1年生にとっては難しい。あるいは高校3年生にとっては難しい。そういう問題だと思っていただければいいと思います。大人がやればできるに決まっている。そんなものに夢中になる価値がないというくらい、簡単な問題なんですね。
でも、多くの人は数学の勉強を学校段階で終えてしまっていますから、学校段階での数学体験が多くの場合、その人の人生の数学体験の全てになってしまっている。ですから、例えば、中学校で数学の勉強を終えた人は中学校の数学の思い出が人生における数学の思い出の全てになっている。高校で数学の勉強やめた人も同様、大学まで行っても数学科に進まなかった人にとっては大学せいぜい1年生のときの勉強が数学の最後の勉強。こういうふうになってしまっている。これが、「数学というのは問題を解くことで、問題を解くことは難しい」ということを、頭の中に深く刻み込んでしまっている理由ではないかと思うんです。その最終学年で体験したような数学というのは、結局のところその人たちがその最終学年において期待されていた数学の勉強の最終ゴールでありますから、その段階では難しいに決まっている。そしてその頃であれば、その問題を解けたっていうことでもって、よくできたっていうふうに褒められるということですね。
わかりやすく言えば、例えば中学校1年生の子どもであれば、正の数・負の数っていうのを勉強して、負の数についての四則、足し算・引き算・掛け算・割り算、これが自由自在にできるようになるということは、中学校1年生にとっては難しいことだと思うんですね。特に負の数と負の数をかけると正の数になるという規則、覚えてしまえば何でもないことですが、これを心の底から深く納得する。どういうふうにすれば納得できるか。「納得させ方はありますか」と、よく中学校の先生に質問を受けることがあるんですが、納得のさせ方ってというのがあるわけでは、僕はないと思うんです。なぜならば、中学校の数学っていうのは中学生用に作られているわけですから、学問的な数学のレベルで作られているわけではありませんから、学問的なレベルから見て中学校の数学はこのようにすべきであると、こんなこととても言えません。そんなことを子どもたちにわかるはずがない。そんなことを子どもたちに要求しているんではない。中学生は中学生なりに理解すればよいわけですね。
そして、その中学生には中学生なりの理解の仕方があって、その理解が本当は非常に軽薄な数学的にはとても筋の悪いものである。例えば負の数と負の数の掛け算が、高等学校に行って複素数まで勉強すると、負の数と負の数の掛け算が正の数になると約束してきたことが極めて合理的なことであったっていうことが、複素数の石の幾何学的な意味を理解した人にとっては馬鹿みたいな話としてわかるわけですね。でも中学校1年生に複素数の話をすることなんかできるはずがありません。ですから中学校の1年生は中学校1年生なりに理解すればそれでいいんだと思うんです。その理解が、たとえ貧弱で、空虚で、虚偽に満ちているものがあったとしても、それなりに子どもたちの頭で心で納得する。そういうことができればいい。
納得のさせ方にハウツーというメソッドがあるというふうに考える人が多いのですが、私は必ずしもそう思いません。子どもたちの生きてきた人生のあらゆる経験を総動員して、新しい認識へと子どもたちが立ち向かうときに、その立ち向かい方が一通りでは決してないんだと思うんですね。そういうときに、それを子どもたちの人生のそれまでの全ての経験を総動員できるように、手を変え品を変えして先生たちが工夫して、子どもたちを指導するということが、とても大切だと思うんです。
数学の問題には一つの解答がある。こういうことを信じている人がいて、その信心が教え方にも正しい教え方がある。そういう信心にまでなっちゃっている。もうほとんどこれは新興宗教でありますね。新興宗教は全て悪いわけではないと私は思っておりますが、邪悪な新興宗教、そういうふうに言ってもいいんじゃないかと思います。しかも、宗教の仮面をかぶっていない。数学の仮面をかぶっているから、そういう意味で私は邪悪だったと言うわけですね。人間の心を霊的な深い世界へといざなうのではなくて、ものすごく卑しい心情へといざなっている。「物事にはわかり方があるんだ。その理解の仕方を俺が教えてやるんだ。俺に付いてくれば君たちの世界は明るいんだ。」これは、邪悪な新興宗教以外の何物でもない、と言っていいのではないでしょうか。
子どもたちには子どもたちなりの納得がある。それができればいい。それができれば合格なんですね。そこに達するまでは大変なんだと思うんです。大人になってみれば、なんであんなものが難しかったんだろうと思うかもしれない。でも、子どもにとっては大変なもんなんですね。正比例・反比例、こんな初歩的な関数関係を理解することでさえ、なかなか難しいことであると思うんです。特に私は子どもにとって難しいのは、変数っていう考え方ですね。値をとって変わっていく変数、xとかyとかって文字で表す。これは慣れた人にとっては何でもない話だと思います。でも私にとってみれば、その変数、子どもたちが習っている変数の概念っていうのは、教科書の記述を私が大人の立場で読むと、ほとんど嘘だらけで、矛盾だらけで、よくこんなことで理解できるなって思うくらいであります。でも、それでも私は中1だったらそれでもいいじゃないか、あるいは高校3年だったらそれでもいいじゃないか、と思うんです。あるいは大学初年級だったらそれでもいいじゃないか。
まず、本当に大切なのは、数学がわかるということの経験を積むこと。そして、そのわかるためには大変な努力が要るということ。大変な努力があるんだけれども、そのわかったという瞬間に訪れる大きな喜び、何ものにも代えがたい喜びがあるということ。そういうことを教えるのが教育だと思うんですね。その教育のプロセスにおいて、問題を解くということがわかったということの一つの証明になりますから、数学では、他の科目もそうかもしれませんけど、問題を解くということが非常に大事なことになるわけです。
しかしながら、子どもたちが解いている問題っていうのは、大人から見れば解けて当たり前の問題なんですね。それは、難問と言われるような問題でさえ、出題者から見れば解けて当たり前の問題なんです。東京大学のような一流難関大と言われるところの問題でさえ、出題者が苦労しているのは、いかにして見かけの新しい問題を、つまり受験生にとって「ああ、これ知ってる、知ってる」って、最近は解かれてしまうわけですね。ですから、見かけをちょっと新しくして、その本質をすぐには見破れないようにして出す。しかし、本当に難しい問題を出したら解ける人がほとんどいないわけですから、問題として意味がないわけですね。東大に来てほしい学力を持っている学生は、きっと解けるだろう。そういう問題を出すわけです。
ごく最近聞いた話ですが、今年の国立大学の入試問題の特徴は。一言で言えば、各大学で数学の問題が易しくなっている。そういう話でした。この傾向を見抜いた先生は非常に鋭いと私は思います。なぜならば、もう全ての大学において、特に地方の大学においては、かつては名門と言われた大学でさえ、学生の定員を埋めるのに苦労している。そういう状況があるわけであります。中央都心部にある大学、倍率30倍とか言われている大学でさえ、倍率が大きくなっているのは、1人の学生が大げさに言えば30校も受験するからでありまして、そうなれば定員通り大学が学生を用意していても、表面上の倍率は30倍になる。30倍というのは大げさであっても、1人が10校受ければ倍率は10倍になってしまうわけです。今や大学の定員は、おそらく受験者の総数よりも多いはずですから、本当は倍率で1を割っているんですね。そのことはもう前から言われていることなんですが、残念ながら全国的に平均してばらまかれていないので、一部のところで倍率が厳しいという状況が生まれているんです。その難関大と言われているところ、あるいは難関学部と言われているところでさえ、いかに学力が低下しているかということは、大学の入試に携わる人にとっては頭の痛い問題で、実際問題として非常に苦労して出した問題で合否の差がつけられるという状況ではもはやない。そういう現実があるということを、人々はもっと知るべきであるわけです。
数学の問題を解くということは、難しいクイズの問題を解くということは違う。クイズは頭を苦しめる問題で、そのクイズの中には本当に厄介な問題があります。本当に頭を悩ます問題。でも、数学の問題はクイズじゃない。そのクイズに素早く回答をする。これも一つの能力かもしれませんが、クイズに答える能力を学問で必要とされているわけではない。むしろ、研究というのは非常に地味なものであり、その地味な研究を継続するための非常に気の長い思考というか、息の長い思考、それをし続ける知的な体力というのが本当に必要であるわけですね。瞬発力ではないわけです。
しかし、大学入試は日本では短期間に採点して発表しなければいけない。そういう圧力もあり、しかもその採点が公表されたときに、絶対公平であるということが誰の目から見ても妥当なところであると、そういう合意が得られるような採点でなければならないという社会的な風潮がある。アメリカのように、1人の先生が、「この学生は未来が開けている。だから取るべきだ。」こういうふうに判断して、その学生を取るということができるわけではない。日本はそういうところで、例えば大学入試一つとっても、あんなに複雑なシステムを作りながら、したがって全く公平でない。そういう試験制度を作りながら、しかし弾力性に欠ける非常に硬直した入学試験をやっている。その入学試験の思い出が、数学における問題解決というものとして、生涯の思い出として定着してしまっている。これが私はとても残念なことだと思います。
問題を解いたときに、嬉しいという感動、これは本当に良い問題を解いたときに受ける感動であって、それは自分で作った問題に解答したときの喜びなんですね。でも多くの人は問題を作る喜びというのを、ほとんどの人が知らない。問題は解くこと、与えられた問題を解くことではなく、自分で問題を作ること。これが最も楽しい。そして多くの自然科学、社会科学、人文科学における問題というのは、自分で出した問題に対して解答をつけている、ということなんです。そのことが忘れられていて、入学試験のような問題を解くということが、勉強の最終ゴールであると思ってしまっている人が多い。これはとても残念なことです。
私達の身の回りは問題だらけでありまして、その問題だらけの中で私達がやるべきことは、その問題を問題だとして騒ぎ立てるのではなく、その問題の中でその問題を解決するためには、どんな問題をまず解決すべきか。自分だったらばそれを解決できる形に問題を定式化することができるか。そしてその問題を定式化したときに、他の人も納得できるような解答を自分が作ることができるかどうか。そういうことは考えるということが、問題を解くということの真の意味であるわけですが、残念ながら、特に我が国では、試験などで与えられた問題を与えられた短い時間の中で正解を出すということ、それだけが問題を解くということのイメージとして、本当に固定化してしまっている。このことはとても残念なことですね。
皆さんにわかりやすい問題、皆さんでも必ず考えなければいけない問題として、一つ問題を出しましょう。こういう問題は、問題を出されたからといってすぐ答えられるわけではないからです。それは、「今日、自分はどういうふうに生きるべきか」という問題。あるいは「明日、自分はどういう人生を生きるべきか」、あるいは「自分が死ぬまでにどういう人生を生きるべきか」という問題。こんな問題出されてもすぐに回答できないですよね。まずはその問題の前に、私達が問題を解くために、まず生きてなければならないよね。でも生きているということはそもそもどういうことか。そういうふうにして問題そのものをいろいろと考え、問題のためにその問題を作り変えなければならない。そういう作業をからスタートしなければならないということを考えていただくと、問題を立てるということの方が、問題を解くということよりも難しいことだということがわかるでしょう。
実際、今日はどう生きていくか。例えば「今日はあんぱんを食べる日」だとか、「今日はステーキを食べる日」だとか、「今日はフレンチに行って豪勢に食事を楽しみたい。」そういうことしか考えない人も世の中にはきっといるでしょう。単純素朴でいいですね。そういう動物的な欲望だけで生きていける。これはある意味で純粋な動物って言えるかもしれません。純血種ですね。サラブレッドと言ってもいいかもしれません。
でも、人間だったならばそんな動物的な要求だけでは満足することができるはずがない。営業マンであれば、成績を上げたい。「今日の目標は会社で一番になることだ。そのためにどの顧客にどの時間に接して、どういうふうに話を持っていくべきか」、そういうふうに考えるかもしれません。しかしながら、そのような目的が、実際は何を達成するためのものであるか。その目的がそもそもどういう目的を達成するためのものであるか、目的を達成する目的ですね。そして、目的を達成する目的を達成するための目的。そういうふうに遡っていけば、もう立派な哲学者になるということです。
自然科学あるいは数学は、それをあくまでもできるだけ論理的に詰めるということ。数学の場合は特にそうですが、問題をできるだけ一般化して、個別の具体例にだけ当てはまるのではなく、できるだけ多くの場合について当てはまるような問題にまで抽象化・一般化して、それを解く。そして、その問題を解けば、あらゆる問題が解けたことになる。そういうふうに考えるところが、他の分野と大きく違うところでありますね。生物学とか医学のようにいわゆる実際の生活に密着した世界、それは役に立つということ。それが非常に大切な価値を持ちますから、工学何かと同じですね。エンジニアリングと同じ。役に立ってなんぼっていうことがありますから、数学のように自分の興味・関心だけで問題を考えていくということ。それは馬鹿げているかもしれません。
そういう分野においてさえ、単に役に立つっていうことを目指していったら本当につまらない研究しかできないということ。それをやはり特に若い人たちには送りたいと思いますね。コスパとかタイパとか言うそうですが、そんなことを考えている人にはとても良い研究はできるはずはない。そしてその人たちは、決して良い技術、良い医療、そういう分野においても仕事をすることは決してできないと思うんですね。その人たちができることはせいぜいお金を稼ぐというだけの話で、お金を稼ぐのにコストパフォーマンスを最もよくするというのは、最も短い時間で最も大きなお金を稼ぐということですね。そのために何をすべきか。私は、それを良くするためには人生を短くするということが一番良い。そういうふうに思うんですけれど、その結論がいかに馬鹿げているかということは明らかだと思います。それは問題そのものが、あるいは問題設定そのものに誤りがあったということを示唆しているということであると思います。というわけで、長くなりましたが、今日は「問題を解くということが、なぜ大切なのか。なぜ大切だと思われているのか」ということについて、いろんな側面からお話させていただきました。
コメント
先ほど、2024.東大理系を解いたのですが、第6問以外は大量の計算問題でした。
(これは私の個人の感想です。)
計算が早い人なら、満点を獲得する事も容易いと感じました。
(私は120分で5問しか解けませんでしたが。)