長岡亮介のよもやま話360「『金で買えないものはない』のはないでしょうか」

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 私はだいぶ前に、自分の感じる感情について、それを生理的な言葉で表現するということに対して、私達はもっともっと洗練さを心がけた方がいいというような話をした記憶があります。しかし、私自身がつい感じてしまう非常に下品な感情は、生理的な嫌悪感です。もうそれを見るだけで気持ち悪くなる。そういう感情はなかなか抑えることができません。電車の中で傍若無人に振る舞う人、満員電車の中に大きな荷物を平気で運び込む人、そういう人を見ると、私はつい本当に、「鬱陶しい。この場から逃げたい。このような人たちと空間をともにし、空気を吸い合うことをできたらやめたい」という感情を抑えることができません。自分が人間として修行が足りないなと思うところですが、このような、言ってみれば生理的な嫌悪感のようなものを、いかにして超越するか。私自身の日々の課題であります。

 人々が生理的な嫌悪感だけで生きるような社会、これはやはり貧困な世界だと思います。生理的な嫌悪感ではなく、むしろ生理的な快感。気持ち良さで生きる。もう感動したあまり、その感動の心が心の中だけではなくて、体の健康にまで及ぶような、そういう生活を何とかしたい。そして、そういう心の喜びが自分の健康にまで繋がるような、それまで二日酔いで頭がフラフラだった私が、その言葉に接しただけで、あるいはその光景に接しただけで、その二日酔いの頭痛が吹っ飛ぶような、そういう経験を私は何回もしています。人間は、そういうふうに、非常に不思議な高尚な動物だと思います。生理を超える人間的な精神の高尚さ、これは、私は人間にだけ持たせてもらった大変な才能だと思います。

 最近、「金で買えるものは全て買える」という発言に対して、「不遜である。金の亡者である」という非難を耳にしまして、この人は本当に馬鹿じゃないかと思いました。なぜならば、金で買えないものはない。資本主義の世の中にあって、金で買えないものはないわけですね。買えるものは全部金で買える。それに対して不遜であるというのは、金を稼ぐこともできないような愚かな人間だと思います。私は既に学生時代に、サラリーマンの収入くらいは自分の翻訳の力で稼いでおりました。私は、これはキャバレーの売れっ子と同じでありますが、翻訳の仕事だと業界が狭いので、私はすぐその業界の著名人となって、No.1のような生活をしていたわけです。馬鹿げた話ではあります。しかし私は、そのようなNo.1の世界には何も魅力を感じませんでした。それは私の翻訳としての能力を買ってくれただけで、私の創造性を買ってくれたわけではないからです。「金があれば女なんか自由になる」と豪語する人がいます。本当に愚かな人です。それは金を持っていれば、金になびくような女はどうでもなるというに過ぎません。金で自由にならない女性だっていっぱいいるんです。

 金があれば何でもできるわけではない。私にとってとても大切で、私がどうしてもできなかったことは、いくらお金をかけても、私の収入くらいではどうにも助けることができない。そういう悲しい現実に出会ったことです。死んだ人間を生き返らせることは、私達は金の力ではできない。でも、どんなにかその人が生きていたら幸せだっただろうと思うと、全財産を投げ打っても、その人の一言、最後の一言だけでも聞きたくて、生き返ってほしいと思います。しかし、金の力ではできません。私達が金でできることは、所詮金でできることでしかないわけです。それでなびく女がいたとしても、あるいはなびく男がいたとしても、だから何なんでしょう。それは金の力にすぎません。金で物欲を満足させるということはできるかもしれませんが、物欲には所詮限界があります。全て欲しいものを格納するようなでっかい家に住んでも、やがてその家は狭くなりますし、私達の記憶力は全て購入したものを覚えている、そんなことはできるはずもありません。ですから、お金は所詮お金でしかないわけです。

 私は最近、クレジットカードとか、いろんな電子マネーとか、ちょっと使い始めておりますが、それを使えば使うほど金というのは幻想の世界でしかない、とつくづく思います。そんなことでできることは、本当に私達のしたいことの一部でしかない。そのことに、多くの人が気づかないのは誠に不思議です。金さえ集めれば何とかなる。自分の人生は何とかなると思っている人は、もう既に人生の負け組です。自分のできることが、そんな矮小なことでしかない、そういう想像力しかない人間ほど、悲しい存在はありませんね。私は同情を感ずるだけです。

 私自身、実は貧しい人と付き合っていたことがあります。明日の食べ物にさえ困るであろう人が、私にこれから家に帰ったら食べるものはないんだろうって、うちのもの貧しいものだけど、せめてお腹をいっぱいにするには役に立つんだからどうか持っていってくれと持たせてくれた弁当。決して贅沢な弁当ではありませんでしたけど、そのご厚意に私は、この人を裏切ることは絶対にできない。そういうふうに、感謝の気持ちで、そのお弁当をいただいてまいりました。どんな高級なレストランの食事をいただくよりも、深く深く感謝しました。

 そして私自身はそのような恵まれた運命に恵まれてきたので、特に今の若い人たちが、そのような素晴らしい出会いを経験することができない今の世の中に、とても寂しく思っています。皆さんが現実に目にしている世の中は、実はもっともっと豊かな可能性に満ちている。ただ、皆さんが目を開くということをするだけである。マスコミのたれ流す嘘情報に流されない。それだけの決心があればいいということです。

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