長岡亮介のよもやま話357「守らなければいけない深い真実」(TALK2/23)

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 最近目にしたニュースの中で心に留まったことで、特に日本の若い人々に伝えたいと思うことがあって、私としてはこのよもやま話は朝目覚めたときに眠い目を擦りながら録音するのが普通なのですが、今日は珍しく夜に目が冴え冴えとして、幾分酩酊してお話させていただきます。

 というのは、夜に静かに考えていると、この世の中にあまりにも多く出回る不正、特に権力による不正に対して、若い人々がもっともっと敏感でいてほしいと願うからです。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」という言葉、これは既に私が申し上げていると思いますが、ロシアにおいて、今の政治権力者が自分に不都合な人間を抹殺する。高い確率でそれが間違ってないという証拠が、何と驚いたことに、「刑務所に収容されていた原因不明で亡くなったはずの死体を、その遺族に返すことができないという通知をした」という報道を聞いて、本当にこの数日ずっと暗い気持ちで、そのことを考えておりました。いわば、毒殺の証拠が完全に消えるまでは返せない、というあまりにも露骨な、誰が見ても明らかな無理を通すような腐敗した政権に対して、その遺族の一人が、「ロシア人が決してそうなのではない。ロシア全体がプーチンなのではない」ということを、国際的な会議の場で証言したことは、私にとって大きな激励となり、このお話をさせていただくことにいたしました。

 実は日本においてさえ、これは言ってはいけないというようなタブーがいっぱいあり、そのタブーに触れた途端にほとんど暴力によって抹殺されるという現状が今も続いています。権力というのは、軍隊とか警察という「暴力装置」、これは私が作った言葉ではなくマックスウェーバーという有名な学者の言葉でありますけれども、その言葉を語っただけで、「これは自衛隊に対して自衛隊に対する冒涜である」と。こういう馬鹿な話が出て、マックスウェーバーの言葉を引用しただけなのに、それをマックスウェーバーも読んだことのない人たちに対して引用したといううかつ者。周りの人間が自分と同じ程度の教養を持っているというふうに油断してしまった昔の政治家の、私から見れば馬鹿馬鹿しい事件でありますけれども、マックスウェーバーも読んだことがない人々が、政治家だけじゃなくてジャーナリズムの中にもいるというのは、驚くべきことだと思います。

 しかしながら、現代日本ではそういうことを言ったらもう抹殺される。それも、自衛隊や警察によって抹殺されるのではなく、ジャーナリズムによって抹殺される。マスコミと言われる、本当にマスコミかどうかよくわかりませんが、そういうジャーナリズムの武器を利用して自分を売り込もうとしている。自分の利益を稼ごうとしている。庶民の味方をするということによって、pretendですね、そういうふりをすることによって自分の収入を得ている人々が声高に叫ぶ、正義をかざした非難の声の合唱によって抹殺されていく人々がいるんだと思います。

 多くの人々、良識ある人々が、自分の良識ある判断を、そういう恐ろしい声を聞いたような気がして、「今はこんなことは言えない」というふうに自粛してしまっている。それは言論弾圧そのものであって、言論弾圧という暴力装置を介した弾圧ではなく、自分の内からなる心でもって自分の言論を弾圧しているとすれば、それは本当に恐ろしいことではないでしょうか。「こんなことを言ったら、今は終わりだけどね。」「これは今言ったらアウトだけどね。」そういうことを平気で人々が言っている。これは戦時中の日本の「非国民」と言っているのと、決して変わらないのではないでしょうか。私は、自分の家族、最愛の家族を失った女性が、「ロシアはみんなプーチンのようではない」という発言をした勇気に勇気づけられて、このお話をぜひ若い人にしたいと思いました。

 皆さんの思想や考え、あるいは感情、感動、それが周囲の人とうまくなれ合っていく。「空気を読む」という言葉がありますが、そんな周りの雰囲気に押されて、自分たちの考えを押し殺すというようなことがあったならば、もはやそれは人間の名に値しない、尊厳のない人生であると私は申し上げたい、と思います。「ご飯を食べるためだから仕方がない。生きるためだから仕方がない」というならば、サバンナに生きる野生の動物の方がよほどすっきりしているんではないでしょうか。少なくとも、彼らは思想や言論を持ちませんから。しかし、私達は「言論という道具」を持ち、「思想という重要な能力」を持っている。にもかかわらず、「それを押し込めることが自分の生きる術である」と思っているんだとすれば、それはとんでもない誤りである。私はそう思います。

 若い人に伝えたいこと、私の言う細かな事柄に関して賛同していただかなくても結構ですが、最も根本的なこと、それは「思想・信条の自由」ということです。私の考えと正反対の意見であったとしても、それが理路整然としていて、深い人間性に根ざしているのであれば、私は耳を傾けなければいけないと思います。しかし、それが利害打算に基づいているもの、最も人間の醜い側面に依拠しているもの。もしそういうものであるならば、私は剛然とそれを無視したいと思っています。私はそれができないかもしれない弱い人間でしょう。しかし、私はできるならば、そういうものと戦える強い人間でありたいと願っています。

 若い人々に、若い人々のそういう願いが堂々と実現できる未来を、少しでも可能性多く残したいと、心より願っています。少し酩酊して、いつもより強い調子でお喋りさせていただきました。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    長岡先生に嫌われる覚悟で、コメントをしたいと思います。

    例えば、女性や幼い子供が、肉体的にアドバンテージを有する男に暴力を振るわれている瞬間を目撃したらば、僕は迷わずにその男を肉体的な暴力で徹底的に攻撃します。
    その際には、筆では戦いません。
    言葉を用いた説得もしません。
    たとえ返り討ちにあったとしても、構いません。
    死んでも構いません。
    姑息で卑劣な輩には、おそらくは、拳で説得を試みます。
    僕は、女性と子供のために戦います。
    僕は、父から、そのように教わった。
    そして、僕は父を心から尊敬しています。

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