長岡亮介のよもやま話356「私がWebBrowserをあまり使わなくなった理由」

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 私はインターネットの日本の創始期からのユーザーの1人でありまして、大学と大学の間を専用回線、といっても64kbpsというようなスピードでありましたが、それで繋いだ時代からですから、本当に今の人には想像もできないほど前からインターネットを使ってきました。いわゆるWebというもの、WWWと最近省略されていますが、World Wide Web世界に広がった雲の網目のように繋がったいわば情報データベース、分散型情報データベースと言っていいと思いますが、それが、MITによって最初にそのひな型が開発されたMosaic、これも未来に非常に明るいものを感じたものであります。

 そして、そのようなものがPCでさえ実現できるということ。TCP/IPという通信プロトコルを音声回線昔のアナログ回線、電話回線を通じてさえ実現できるテクノロジーで、それが各社から発売されたときに、当初無料のソフトウェアもいっぱいありました。しかし、それによって世の中が変わるんだということを強く実感したのは、1995年にMicrosoft CorporationがWindows95とか言って、Windowsをインストールすれば自動的にその機能が内蔵されている。それを売り物にしたときに人々がそれに熱狂したことでした。

 しかしながら、世界はとっくの昔にそのレベルにいっていたわけで、アメリカでは、私はその数年前にアメリカ90年代の初期でありますが、“The Internet For Dummies”、言ってみれば、日本的に直訳すれば“阿保のためのインターネット”っていう本ですね。Dummiesシリーズ、日本では最近「よくわかる」とか「すぐわかる」っていうのが表紙につくわけですが、その「よくわかる」とか「すぐわかる」とかって綺麗な言葉じゃない。もう「ど素人のためのインターネット」、その本が北米大陸だけで、つまりアメリカとカナダで、主にそれだけで2,000万部売れているとかっていうのをカリフォルニア見つけたときにはもうびっくりして、すぐ買いました。漫画入りで簡単にTCP/IPの話を説明している本なんですが、アメリカではその頃、日本でその後普及することになるPPP(Point to Point Protocol)というのではなくて、SLIP(Serial Line Internet Protocol)というもので、インターネットにアナログ回線を利用してインターネットのデジタル回線に接続するというものです。それが大変に普及していたわけですね。日本ではPPPを通して、それが普及していきました。

 そういうことは各社とも敏感で、自分のところで発売するオペレーティングシステムに、そういうSLIPとかPPPとかがうまく載るように各社ともそれをやっていましたけれども、Windowsの世界、あるいは昔のDOSと言われるものの世界の延長上ではちょっとそのインストールに手間がかかる。それを有料ソフトで買えば、アプリケーションソフトをインストールするっていう手間だけでそれができますから、Apple社は、自分自身がローカルトークっていうネットワークを持っていたので、TCP/IPに対しては否定的でありましたから、Mac TCPっていうのを当時1万円か2万円で売ったんじゃないでしょうか。IBMは、OS/2というMicrosoftのDOSをIBMは大いに持ち上げたんですがDOSでは何もできないだろうということで、最初からマルチタスクができるオペレーティングシステムとしてOS/2っていうのを開発しましたから、そのOS/2上では、TCP/IPが標準的にバンドルされていました。ですからOS/2を日本人が少しでも知っていれば、もっと早くからWindows 95なんかという遥かに前から、インターネットなんかできたんですけれども、日本のユーザーはOS/2のことを知りませんでしたので、それをやらなかったんでしょう。一部のマックファンは、Mac TCPを1万円だか2万円出して買ってやっていたんだと思います。

 Microsoft社が、無料で「Windows95を買えばインターネットに接続できますよ」っていうコマーシャル戦略を打ったときに、それが成功した最大の秘密は、言ってみれば「全くの素人の人でもインターネットに接続することが簡単にできるっていうことをうたい文句にした」ということの他に、やはりいわゆるパワーユーザーと言われるDOSとかOS/2とかを使ってきた人々が、Apple社よりもMicrosoft社の方が中が見える、ブラックボックスでないということでもって、Microsoftの側に立って、「素人の人がやるんだったらMicrosoftがいいんじゃないですか」と応援したことが大きかったんじゃないかと、今から見れば思います。そして、Apple社にとって不幸だったのは、Mac TCPを有料で売り続けたことでありますね。今はもちろんMacintoshは、もうiPhoneでさえそれが自由自在にできるようになっていますし、そもそも携帯電話は元々デジタル信号を用いた通信ですから、そんなことはできて当たり前ということでありましょう。しかし、歴史を振り返ればそのような最初の時期の決定的な誤りが後々まで尾を引くことになるわけでありますが、iPadあるいはiPod touchの開発を機に、Apple社の大攻勢が始まり、今やApple社は全世界の携帯電話で大きなシェアを占める。そういうところまで大成功を収めていることは、皆さんもご存知の通りであります。

 私がこういう長い話をしたのは、インターネットに関しても日本でも30年ほどの間見てきましたけど、当初こそWorld Wide Webに対して非常に興味を持っていた私でありましたけれど、特にWorld Wide WebでMITが最初に提唱したもの、それはそこで数学的な式をも表現することのできる機能をどのように持たせるか、ということでありました。今では、主要なWebブラウザは、そのような数式を表現する機能を標準的に持っておりますが、それはその数式を表現するための標準的な機能の国際的なプロトコル、規約、条約、それが決まったからでありますね。そしてそれは私達数学屋が昔から使ってきたTeXあるいはLaTeXと言われる国際的な標準的なツール、American Mathematical Societyまで標準的に支援している偉大なツールが基本になっているわけであります。そのように、World Wide Webと数学というのは、長い間緊密な連携を模索してきているんですが、私がこの15年くらいすっかりWorld Wide Webから関心を失ってしまったというのは、いわゆるWebツールって言うんですが、Webアプリケーションっていうふうに言われるかもしれません、ブラウザ上で全ての入力をするというようなことが標準的になり、ゲームやソフトウェアを使うのもブラウザ上でやる。これが便利な面があるということを私は百も承知ですが、不便な面もあるということは千も承知であるわけです。

 しかし多くの人々がそれに慣れていくということに対して、私は文化の未来に対して悲観的にならざるを得ないという思いを持っておりました。結局のところ、コンピュータを使うというのは、人間の創造性を補助する、あるいはサポートする、援助するためであって、コンピューターが、人間がやりたいことをコンピュータの中で一生懸命探さなければいけない。グラフィカルユーザーインターフェースでそういう時代は、私にとって人間に幸せをもたらすとは限らないと思っておりました。しかしながら、Webブラウザの凄さは、誰でもがブラウザを使うことによって、その情報提供、分散型データベースの威力の恩恵に預かることができるということでありまして、チャットGTPに代表される本当に創造的なことを、自分にできるかと言われれば自信がないという人に対してまで一人前の意見を自動的に生成してくれるようなもの。そういうような情報提供サービスまでできるようになってきているわけです。

 世の中では「ググる」っていう言葉が流行っているそうですが、Googleが果たした検索エンジンというものが人々の生活の隅々まで入り込んできた。人々がちょっとわからないことがあると、「Google先生に聞く」というふうになってきた。ある意味で世界に分散された知識データベース、これはきちっとしたデータベースの設計をすることなく、完全に分散してバラバラに存在しているにもかかわらず、「人々がたくさん検索するサイトの情報はきっと良いものに違いない」という検索頻度を、Google社は自動的にといっても本当に自動ではなくて、Google社のものすごい莫大な数の検索エンジンに向けた情報サイトの情報のやり取りを、計算している莫大な数のコンピュータがあるわけです。Google社の本当にすごいところです。私が昔熱心だった頃、私もウェブサーバーを管理しておりましたが、もう本当にGoogleがしょっちゅう来ている。そして、どういう情報が必要とされているかっていうのを全部拾い集めていく。その有様を見て、あきれ果てておりました。こんなものがビジネスになるということに本当に目覚めたGoogle社の創業者たちは偉いですね、私はそれを見て、ご苦労なこったとしてしか思っておりませんでした。

 本当に必要な情報はその情報を集めるということが、言ってみれば、学問をやることのための最初に必要なことであって、例えば検索エンジンの冒頭に出てくる情報が正しい情報とは限らない。ということは私の世界では常識なんですが、人々はその上に出てくる情報しか見なくなってきた。そうなると、上に出てくるために何をしなければいけないか、広告宣伝が始まるわけですね。そして、皆さんもよくご存知の通り、Google社では、お金を払えば多くのヒットをしていない広告であっても上の方に持ってくる。さすがにそれを黙ってやるのはフェアでないということでもって、アメリカの公正取引委員会などの指導もあり、お金を払って上の方に持ってきた広告に対してはPRって言う名前が小さく載るというふうになりましたけれども、しかし世の中もう広告、広告、広告。これが私は大嫌いで、広告ほど偽情報が平気で流される物はないと私は思っております。「広告宣伝に騙されるな。」これは私の子供の頃からの、言ってみればキーフレーズのように、親や先生に教えられたものであります。一般世論に騙されるなっていう、これも戦後直後に育った私には、非常に重要な教えでした。ついこないだまで、戦争に反対する人のことを非国民とかって言っていた人々がいたんだということ。アメリカ軍が上陸してきたら竹槍で戦うんだ。そういうふうに教えていた人々がいたんだということも、親や先生たちから聞かされて育ちました。だから、周りの人の言っていることには本当に注意しなければいけないということ。私はすぐ騙される素朴な少年、ナイーブな少年でありましたので、そういうものに騙されるたびに親や先生から注意されたものであります。

 今やインターネットで何かを調べたりすると、その調べた情報に広告がうんざりするほど出てきて、その広告を見ないことには調べることさえできない、ということになっています。ですから私はもう日本のサイトにはほとんどアクセスしないということにしています。それは時間を無駄にしたくないという気持ちからです。インターネットがこのような広告産業に成り果ててしまった。しかし、純粋な広告産業になったことによって、今やテレビや新聞という従来広告で大きな収入を得ていた情報産業が、経営が苦しくなっている。そして、その経営が苦しいあまりに、情報を大衆化する方向に向けてますます広告を増やしている。露骨な広告を増やすことのできない公共放送は、自局の番組の広告を流して、それによって広告宣伝をしている。そういう情けない社会になってしまいました。

 そういう中にあって私ができることはインターネットからは、全ての広告を除去するブラウザを使うとか、広告を全てカットしたビデオを見るということによって、時間を節約するということでありますけれど、なかなか本当の意味で時事的な情報に接するには、残念ながら海外の新聞サイトに行って英語で新聞を読むという、ちょっとかったるい仕事をしなければならなくなったということですね。しかし、それくらい日本のマスメディアは苦戦している。本当に良い情報、本当に国民が知らなければならない情報を、誇りを持って、報道の自由という民主主義の一番の根幹をなす、言ってみれば原点的な権利、一番の出発点となる権利を誇りにして報道しているというものが、少なくなりました。

 前回、変な日本語という話をしたときに、「難易度」という言葉を取り上げましたが、最近「深堀り」っていう言葉もジャーナリズムで変に使われている言葉です。「深掘りする」って何なんでしょうね。表層でない表層の情報の垂れ流しでないということだと思いますが、本当に本質を洞察するということがどれほど難しいことなのか。それは決して他人が知らないことをちょっと聞いてきたこと、それを聞きかじって垂れ流すこととは全く違うことなんですね。私に言わせれば、報道は「裏を取る」ということ、根拠持つということがとても大切なことですが、その根拠は、誰それさんが言っていたという程度では裏を取ったことにならない。そんなものは大衆週刊誌がやることである。本当に大切なのは、歴史と哲学に学ぶことです。歴史と哲学に依拠しない現代分析など聞きたくもないくらい自明な話にすぎないということを最後に申し上げて、今日私がなぜインターネットを使わなくなってしまったのか、という話を締めたいと思います。

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