長岡亮介のよもやま話355「『難易度が高い』!?言葉は正確に使いたい!」

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 今回は、私達がなぜ言葉を正確に使わなければいけないか、という当たり前と思われている問題について、考えてみたいと思います。言葉を正確に使わないといけないというのは、その言葉を通して伝えたいと思うことが、相手に正確に伝わらない。誤解されてしまう。そういう危険性を最小限にして、自分の伝えたいことを最も能率的に相手に伝える。できれば、相手に対して心を揺さぶるような言葉をかけたい。そのためにも、言葉は正確に使わなければいけないということなんだと思うんです。

 人間の言葉というのはいろいろな意味で、コンピューター言語と違って、言ってみれば、言葉を支えている基本的な文法は必ずしもしっかりしていないわけですね。特に厳密な言語と世間で思われている数学的な言語、それでさえ、私達はかなり自由自在に、いい加減に使っている。本当に杓子定規に定義に当てはまるとするとなかなか厄介というような場面で、私達は適当に手抜きをしながらも、自分の表現したい数理世界を、相手に正確に伝えるために数学的な言語を用いているんですが、これがコンピューター言語と同じような厳密性を持っているかってというと、実は全くそうじゃない。

 コンピューターの使う言語というのは、コンピューターでも理解することができるという意味で厳密に正確な言語でありますが、私達人間から見れば、そんなことは阿吽の呼吸でわかってほしいと思うようなこと、例えば「括弧が一つ足りない」、そんなのは括弧を補って理解してほしいと思いますけれども、コンピュータはいわば杓子定規であるわけですね。つまり私が申し上げたいのは、言葉を正確に使うといっても、杓子定規な正確さというのが必要なわけではない。ただ、機械に正確に情報を伝える、機械に機械的な処理を精密に正しく行わせるために必要な厳密さを情報伝達として確保するためには、本当に杓子定規な厳密さが必要であるわけです。

 人間と人間とのコミュニケーションにおいては、実は人間と機械がコミュニケーションするような杓子定規さではなくて、言ってみれば、ある種の曖昧さ、ある種の厳密性の欠如、正確に言えば、「暗黙の前提」tacit assumptionsと私がしばしば呼ぶところのものでありますが、日本の昔からの言葉で言えば、「阿吽の呼吸」、お互いにわかり合っているということを前提にして、多少曖昧であっても正確な情報の伝達を確保しているということだと思うんです。

 しかしながら、その「阿吽の呼吸」、あるいは情報伝達における人間的な寛容性を許したコミュニケーション、その通信を支えている言語の使い方に関して、あまりにも最近いい加減ではないかと思うものがもう目に余りますね。私が最もひどいと思うのは、「頭がいい」とか「頭が悪い」という表現です。「運動神経が良い」「運動神経が悪い」というのも、かなりひどい表現であると思います。それが困ったことには、大雑把には当てはまるっていうことですね。「頭が良い」「頭が悪い」というのも、大雑把には当てはまる。しかし、「運動神経がいい」っていうのと同じように、そもそも運動神経っていうのは生理学的にどのようなものなんでしょうか。あるいは、解剖学的にどういうものなんでしょうか。全く運動神経っていうのは世の中にないもんだと思いますが、同じように「頭の良さ・悪さ」というのもナンセンスであります。

 実際、ある分野において冴え渡った才能を発揮する天才的な人が、別の分野において全くボンクラである。よく学者バカというふうに世間では、専門的な学者のことを揶揄する風潮がありますけれども、そういう学者の先生方の中に世知に疎いことはあっても、本当にその世知を超越した深い叡智の人であることはいっぱいあるわけです。世知に長けた人が頭が良いことであるとすれば、学者の多くは確かにバカなのかもしれません。しかし、「世知に長けている」ということは、言ってみれば世の中で経験を積んでこずるくなっているということであって、人間として立派なことはとても私は思えない。私自身はですね。「世知に長ける」ということも大切だという教えもあるかもしれませんが、私はそれには賛成できない。ということです。

 なぜ賛成できないか。一言で言えば世知に長けた人で立派な人に出会ったことがない、ということに尽きます。他方学者バカと言われる人の中で、学問的にもバカな人がいますけれども、学問的に立派な方っていうのは本当に多くいらっしゃいまして、その深い叡智には、本当に頭が下がる。私が尊敬するある立派な数学者が、ある有名な数学者に関して、国際的に有名な数学者でありますが、「歴史的に有名な人がいます。その方は私達の100倍も1000倍も頭がいいのに、私達より100倍も1000倍も努力している。だから私達も100倍も1000倍も努力しなければいけません」という言葉を私が聞いたときには、その先生は私より100倍も1000倍も頭がいい。そして私より100倍も1000倍も努力しているんだから、その先生が言っていらっしゃる方は、私より1002倍から1000倍頭がいい人が100倍から1000倍も努力している。これはかなうはずがないなと思いしたけれども、やはり学問的に立派な方っていうのは本当にいるわけです。

 他方日本の中で、科学や技術の世界で活躍した天才的な人と言われる人の中で、天才という名には全くふさわしくないと私が思う人がいっぱいいます。特に日本の「少年少女の偉大な科学者物語」というのはほとんどがでっち上げだと言ってもいいくらいでありましょう。私はGalileo Galileiのことを大変尊敬していますが、日本における少年少女のGalileo Galilei物語は、ほとんどが間違っていると言ってもいいくらい、だと思います。ある意味で少年少女の読む偉人伝のようなものは別に間違っていても、それで勉強に意欲を燃やす少年がいれば、それはそれでいいのかもしれません。「やる気スイッチオン」という言葉を聞いたことがありますが、そんなスイッチをオン・オフするくらいで人間が変わるくらいだったら、簡単なものでありますね。

 運動神経オンとか、頭脳神経オンとか、そんなことができるはずがない。やはり私達が生まれつき持っている限界、そして生まれつき持っている眠っている可能性、その中で、限界を少しでも遠くまで広げ、眠っている可能性を少しでも多く開発する。この事がとても大切で、最初から頭が悪いとか、最初から運動神経が悪い、そういうふうに諦めてしまってはいけないと思います。しかし運動が不得意な人に、「運動が不得意な人間は生きる価値がない。だからお前たちは早く死ぬべきだ」という人がいたらとんでもないですよね。それと同じように、漢字を覚えるのが苦手、計算を正確に遂行するのは苦手。私の子供のときのような少年だと思いますが、私は未だに苦手でありますから少年のことはバカに言えませんが、私自身もそういうものが素早い少年では決してありませんでした。

 ともかくそういうものが苦手だからといって、人間的に劣っているかのごとく言うのは全く馬鹿げていますね。しかもそれが「頭がいい」とか「頭が悪い」、そういうふうに大雑把に括るのは異常なことですね。今をときめくプロ野球大リーガーの日本人選手、私も誇らしく思っておりますが、彼が何といっても素晴らしいのは、自分の努力を開花させるために自分自身で計画を立てて目標を立て、それをコツコツとこなしたということでありまして、すごいことだなと思います。そしてそれを彼は今も続けているんだと思います。成功したから人生の勝利者だって言うんではなくて、いつか自分自身を開花させるためにコツコツと努力している。それはありとあらゆる分野の方に言えることでありまして、そういう努力を継続することが人生の意味そのものであると思うんです。そういうコツコツとした努力、それをコストパフォーマンスが悪いとか、タイムパフォーマンスが悪いとかと言って馬鹿にする人こそ、実は残念ながら自分のうちに持っている、もしかして眠っている本当は存在するかも知れない才能を掘り起こすチャンスを失っている気の毒な人である。そういうふうに、思うわけです。つまり、私達は頭がいいとか、運動神経がいいとか、すごいとかすごくないとか、そういう言葉を平凡に使うべきでない。素晴らしい人に出会ったときに、その素晴らしさの根本がどこにあるのかということを、「感動した」とか「素晴らしい」とか、そういう言葉で終わらせたくない。深く深く理解する。言葉を安直に使って満足しない。このことが大切だと私は思うんですね。

 そして、最初の原点に戻りましょう。「言葉を正確に使うということ。」これはとても大切なことだと思うのですが、最近その言葉がすごく薄っぺたく使われていることの事例として、「頭がいい」とか「運動神経がいい」とかということを言いました。私は薄っぺたい表現の代表として、最近教育関係者からよく聞く、あるいはそれに限らないかもしれませんが、「難易度が高い」っていう言葉ですね。“難易”は、難しいということと易しいということ。それを気楽に使う人が、学校関係者の中にはすごくいますね。「この問題は難しい。この問題は易しい。」簡単に難易っていうのを語ること自身が、私はナンセンスだと思うんです。多くの人が解ける問題を「易しい」といい、誰でもが解けるわけではない問題を「難しい」と、教育関係者の人は言うのですが、誰もが解けたと思っていたことの中に難しい問題があることを発見するということこそが、実は本当に頭がいいっていうか、本当に難しいことでありまして、多くの人が、難しいと思っていることは、しばしば極めて易しい。

 学校の先生が難しい問題というのは「見たことない問題」、易しい問題というのは「やったことのある問題。」そういうことに過ぎないんですね。つまり、誰でもが知っている問題は、易しい問題。知っている人がほとんどいない問題は難しい問題。こういうふうに言っているんだと思います。仮にそれが正しいとしても、これがひどい間違いだってことは繰り返しいろんなところでお話してきておりますが、だからここでは省きますが、仮に、「難易」っていうのが問題ごとにあるとして、「難易度」っていうのは難しさと易しさの程度というのを1次元的な尺度で測れる、これもひどい幻想ですが、学校関係者の中にはそれが根強くありますから、保護者の中にもきっとあるでしょうし、子供たちの中にも、親たちがあるいは先生たちがそう言うから、「難しい・簡単」っていうのを気楽に語る風潮が今あるでしょう。

 だからそれを仮に認めたとして、「1次元的な尺度として難易がある」として、では、「難易度」っていう言葉は意味があるんでしょうか。「難度」という言葉には意味があるかもしれない。「易度」っていう言葉にも意味があるかもしれない。つまり、「難しさ・優易しさの度合い」ということですね。しかし、「難易度」っていうふうに、難しいものから簡単なものまで、「度」っていう言葉をつけて、いわばそれが数理的な、あるいは数学的な尺度であるかのように言葉を使い、その「難易度が高い」っていうのは、「難度」が高いんでしょうか、「易度」が高いんでしょうか。意味が通じない表現だと、私は思うんです。そういう意味の通じない表現を、その意味が通じないということを理解せずに使っている人たちが、「難易度」っていう言葉を普及させている。

 問題には「難易」という度合いがあって、難度の高い問題を解けるようにすることが、あたかも教育の目標、あるいは人生の目標であると思っている。私に言わせれば、これは典型的な間違い、典型的な誤解。そして、その典型的な誤解につけこむ詐欺の典型的手段だと私は思うんです。ですから、このような曖昧な定義され得ない言葉について敏感になるということが、人々がこの世知辛い世の中の風潮に騙されないための最小限の自己防衛の手段。これこそが安全保障だと思うんですね。相手に攻め込まれないための武装をする。これが安全保障の要である。そういうふうに言っている勇ましい意見がありますが、本当に大切なのは、自分自身が曖昧な言葉に騙されないように、日常的に気をつける。そのためにも、「自分自身が使う言葉に対して、敏感になる」ということが、重要ではないかという趣旨で、ちょっと幾分脱線しながらお話しいたしました。

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