長岡亮介のよもやま話349「嘘だらけの学校数学」

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 どうやら数学の話をした方が私自身も楽ですし、聞いている皆さんも楽しいようでありますので、今日は数学の話をさせていただきます。といっても数学の技術的な話ではありません。数学っていうのは、普通に勉強すると、わけのわからないものになるんじゃないかというお話です。数学の中に使われている言葉は、「よく定義されていて、正しく定義されていて、厳密な論理によって運ばれる」と、学校の先生は言ってくれますが、私に言わせると「言ってくれちゃいますが」という気分です。本当に教科書などに載っている数学の言葉や記号、それは本当に厳密に使われているでしょうか。私に言わせれば、もう全てが誤っているというくらい、至るところにほころびがあるんですね。

 例えば“円”とは何ですか。「円とは、定点から等距離にある点の軌跡です。」このような言い方が、何年生で出てくるのか知りませんけど、「一点を中心として、コンパスで円を書く。」それが正確な円だというふうに信じていて、学校の教卓にまでコンパスのお化けみたいなものを持ってくる先生がいらっしゃいますね。私の子供の頃もそうでした。「円とは、コンパスの針を打つ中心、そのコンパスの針から等しい距離にある点全体の集合である。」もし、この定義が本当に正しいならば、点の集合なんですから、点の集合というのは大きさがないわけですから、目に見えないですよね。先生が黒板に定規を使って書くときには、チョークを使って書いているんですから、円でも何でもない。えらい図太い、白墨の汚れですよね。円じゃない。それを私達は理念的に考えて、先生が書いているのは太い線だけど、本当に先生がお書きになりたいのは無限に細い線である、そういうふうに理解しているんだと思うんですね。それは子供たちがそのように理解しているんだからいい。だから、円は無限に細い線なんですね。子供たちの理解は極めて正統的ですね。

 もし、その無限に細い線でもって円を表しているんだとすれば、「円の面積は何か」という問題を考えることがおかしいですよね。だって円は無限に細い線なんですから、円の面積はゼロのはずです。もし言うならば、「円という曲線で囲まれた図形の面積」あるいは「円盤の面積」。そう言えばいいのに、そのように言っている本は、私の知る限り1冊もないと思います。同様に、三角形にいたっては三角形の定義もありませんね。3点ABCを結ぶ線分、3つの線分の集まりのことなのか。もし集まり、集合のように考えるならば、線分の並び順序はどうでもいいはずであります。であるのに、「三角形ABCと三角形DEFが合同とかっていうときは、合同な順に対応する順序をつけなければいけない。」そんなふうに指導する先生が結構いますね。もし三角形ABCというときにABCに順序が付けられるんだとすれば、その順序はいわば円順列なんだと思いますが、円順列であるにもかかわらず、合同条件を述べるときには円順列はなくて、不思議な順列として、いわば普通の縦1列に並ぶ順列として表現しなければならない。その順列として表現するのは「三角形ABCとは3頂点ABCのこと」なのかと思うと、そうではないんですね。3辺含んでいて、しかも三角形の面積という言葉もあるわけですから、どうやら三角形で囲まれた図形のことも三角形と呼んでいるということですね。

 このように、円とか三角形とかっていう小学校で学ぶ数学の段階から、言葉遣いはかなりいい加減であるわけです。最もいい加減なのは高等学校に入ってからでありまして、高等学校に入ってからの数学というのは論理的に証明する。証明のない回答は回答とは認めない。とこういう立派なことが、授業でも試験の後でも言われるわけでありますが、よく考えてみると、例えば、「順列・組み合わせ」が登場する「場合の数」って言うんですけど、「A地点からB地点に行く行き方の数は何通りあるでしょう」というような問題があるのですけど、A地点からB地点に行くっていう行き方って言ったって、途中でいろいろ寄り道をする人もいますね。寄り道をするような行き方をすると数数えられなくなるから、「ただし途中で寄り道はしないものとします」というふうに、他のところに寄り道をしないとしても、必ず一定速度で運動するとは限りませんね。プランプランプランプラン遊びながら行く人もいるし、勤勉に走っていく人もいるでしょう。そういうものは無視するということです。「必ず等速で運動するものとします」というような断り書きを書くこともしていますが、道で曲がるわけですから、そこでは直線運動が例えば90度回転する。こういう運動をするとすると、加速度は無限大になるはずなんですね。加速度が無限大になったら体を壊れてしまう。肉体は直ちに消滅してしまう。だけど、「曲がるとき時間はかからないとして、カクカクと等速運動するものとします。」そういうのは小学校の話としては面白いですけど、物理まで勉強している高校生がやったらおかしいですよね。

 あるいは「学級委員の選び方は何通りありますか。」こういうのもよくあります。学級委員の選び方っていろいろありますよね。一番クラスの中で嫌われている奴から順番に選ぶ選び方もあるでしょうし、学校の先生の手先になっている奴。それをみんなから代表選手として選ぶ選び方もあるでしょう。選ぶときにそもそも一番嫌いな奴、次に二番目に嫌いな奴、それを2名連記して、その2名連記の札を集めて、その投票をするというような仕方もあるでしょう。とにかく選び方っていうのは無限にありうるわけですね。その選び方っていうのを、例えば、今時1クラス40人だとすると、40人の中から正委員と副委員というのを選ぶとして、$_{40} P_2$とかっていうふうにして選ぶ。馬鹿げていますね。それは選ばれ方であって選び方ではありませんね。選ばれた結果は、それだけしかない。だけど、選び方っていうのは無限にたくさんあるわけです。そんなことをからして、もう言葉遣いがでたらめだということがおわかりになるでしょうか。

 そして、その選ばれ方という結果だけに注目するということで言えば、数学的にはもう少し単純な言い方があるということなんですが、その数学的に単純な言い方は高校生には難しいということで、避けられているということです。実は、$_{40} P_2$というのは、普通は、1と2という二つの要素からなる集合から、40人のクラスのメンバー全員からなる集合への単射、一対一の写像、一対一対応でありませんよ。一対一の写像、一つの要素に対して一つのものが対応するという写像だというふうに考えればいいだけの話なんですね。でも、写像というのは、高等学校では勉強しない。その考え方は難しいということでやらないんですが、一番の人二番の人として選ぶというふうに考えれば、別に選び方というから難しいだけであって、一番の人二番の人っていうのの決め方というふうにすれば、全然難しくも何でもないということになります。そうではないでしょうか。つまり、学校数学には嘘が多すぎるということですね。

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