長岡亮介のよもやま話346「子供のためというならば、してはいけないこと、しなければならないこと」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 今日は最近の我が国の一般的な社会風潮について、私が感じていることについてお話したいと思います。それは一言で言えば、日本全体が全部幼稚化しているということです。小さな子供の笑顔は何物にも代えがたい美しさですね。少年や少女の喜びのはちきれる笑顔、これほど美しいものはないと私は思います。また、まだ言葉が喋れない子供が片言の日本語を喋りだす。この瞬間も本当に素晴らしいものですね。そういう子供たちに合わせて、子供言葉で子供に語りかける。「ワンワンが来たね」「にゃにゃがいるね」と大人が言います。大人が子供に合わせているわけですね。本当は大人が、子供がワンワンって言ったときに、「犬がいるね」と言い直してやれば、子供の言語習得が速くなるのか、あるいは遅くなるのか、私はそういう教育学的な実験実証には興味がありませんけれど、おそらく言葉を学習するときには模倣から始まるので、大人が模範を示すのが本当は一番いいんだと思うんです。

 残念ながら今の日本では、大人が子供に合わせている。子供が喜ぶ顔が見たいという大人の気持ちは私もよくわかりますけれど、その喜ぶ顔を見たいがゆえに子供たちに合わせている。これは子供に対する侮辱、あるいは子供の成長を阻む原因になりかねないことであって、やはり子供にはできるだけ早く大人の世界に接近する努力をさせてやりたいと思うんですね。その大人に接近する努力の中で、子供たち同士の人間関係、いじめとか、遊びとか、そういうものが非常に重要な役割を果たすに違いないと思うんです。

 「子供は子供たちから学ぶ」というのは、昔からよく言われている。言ってみれば、子育ての鉄則でありまして、大人がいくらやってもできないことを、子供は他の子供から見て学ぶ。こういうことが得意なんですね。これは人間の子供だけじゃなくて、類人猿でも見られることのようです。幼い生命が持っている適応能力はすごいもので、これは動物に限らず、植物に関しても言えることですね。言ってみれば、子供の頃、本当に幼い命がさらされている環境、それに応じて生命はその環境に打ち勝つ力というのを、自分のうちに形成するんですね。誠に不思議と言う他ありません。

 ですから植物でいうと、“実生”つまり種から育った植物、木というのは、ものすごく丈夫なんですね。すくすくと大きくなる。それを盆栽仕立てのようにしたとしても、すごく力強い盆栽に育つ。それに対して、実生ではなく、例えば“接木”というような形で作った植物、これは人間が大量生産するために身につけた方法ではありますけれども、実生ほど強くない。おそらく、本当に誕生してくる最初の段階において、環境にさらされ、その厳しい環境の中でどのように成長していくべきかということを身に付けるんだと思います。

 そういう意味で、人間の子供も子供のうちが、幼いうちがとても大切だと思うんですけれど、その幼い子供の笑顔を見たさに、子供たちに妥協する。遊園地に連れて行って、子供が喜ぶ姿を見たいと思う。私は、ジェットコースターのようなものが大変苦手で、もしかしたら私が乗ったときに限って、万一の事態が起こるかもしれない。私はそういう設計をしている友人をたくさん知っていますので、「あ、間違えていた」「あ、考え忘れていた」というようなことがいくらでもありうる。自分の経験からいってもそうだと思うんです。ですから、ジェットコースターのような危ない乗り物に乗ったりするのが好きでありませんから、子供たちがそこに連れて行ってくれと、私にせがまなかったのは大変幸いなことでありました。

 しかし、遊園地のようなものが、子供たちが喜ぶからといって、そこで子供たちの大人への成長があるかというと、そうではない。それは子供たちを喜ばすために大人が仕組んでいる工夫にすぎないと思うんです。子供たちにはできたら、できるだけ本物を見せたい。例えば、美術館に連れて行くとか、博物館に連れて行くとか、そういうものであっても構わないと思うんですね。あるいは図書館に連れて行くというのもとても良い教育だと思います。私自身は実践しておりませんが、そういう経験を通じて子供たちは成長していく。だから旅行もとても良いものだと思いますね。

 最近の親は、わざわざ子供たちのために子供たちのための何か大人たちが用意した催し物、何とかフェスティバルのようなものに連れて行く。そしてそれが一生の記念になる。そういうふうに考えて写真を撮ることを趣味としています。しかしそれは子育てとは正反対のもので、子供が成長するのを阻害する。つまり大人たちが子供たちを喜ばそうとしているビジネスに、子供たちを巻き込んでいることに過ぎないと思うんです。例えばいわゆる幼児番組と言われているもの、私が子供の頃はなかなかレベルが高い作品でした。ぜひ再放送してほしいと願っておりますが、“チロリン村とくるみの木”を始めとする多くのNHKの実験放送の段階の子供番組。それは今から想像しても、とても面白いものでありますね。“人形劇三国志”なんかもう本当に心を打つものでありました。これは実験放送の段階ではなく、もう本放送の段階かと思います。つまり、そういうものが楽しいのは、それが子供相手ではないからですね。いわば大人相手に、子供でもわかるように、巧みに作っていたわけです。

 今は大人たちが自分たちの金儲けのために、子供たちをだしに使っていろんな仕事をしている。例えば、子供番組というふうに思われている映画なんかでも、本当に子供相手に作るえらく強い映像刺激、そういう映像刺激を受けて、子供たちの知的な成長が本当に早まるのでしょうか。あるいは子供たちはテレビが好きだって言います。テレビで子供用の番組を見ていれば、子供たちがそれで静かにするかならというんですが、これは親のさぼりとしては当然あってしかるべき戦略の一つではありますけど、そのテレビジョンの子供番組っていうのは典型的な子育てロボットでありまして、子供たちをそれに釘付けにして、その間親が自由になる。そのことが子供たちの成長に繋がると素朴に信じている親たちがいるんですが、その子供番組の中に、どれほど多くの想像力を刺激し、子供たちを大人へと誘う要素が含まれているか、と考えてみたことはあるでしょうか。

 私は今の子供たちの見ている番組を見ると、気持ち悪くなります。大人たちの最も醜い側面、つまり金が儲かればそれでいいというような下衆な考え方、それを子供たちに押し売りしている。そういうものを見て、子供たちが本当に心豊かな大人として成長するということを、もし大人たちが考えているんだとすれば、本当に問題なのはその大人たちであると私は思います。子供たちには責任はない。子供たちを相手にビジネスを展開している、そういう非常にえげつない大人たちの犠牲になっているという面に、心をたまには配ってほしいと思うんですね。最近は、「売れれば良い。儲かれば良い」という考え方が子供たちの中にも浸透していると聞きますが、本当に恐ろしいことです。人生において一番大切なことは、「人生において大切なものは一体何かということを理解すること」ではないかと私は考えています。大切でないものを大切だと誤解したまま人生を終えることは、人生の失敗です。子供たちにそのような人生を歩ませてはいけないでしょう。子供たちが何よりも大切だと思うならば、子供たちのために豊かな未来社会を残すことは大人の義務です。

 それであるのに、今の世の中ではどうでしょう。国債を増発して、それによって国民にお金をばらまく。そして、貧しい人々を救っているんだという行政がまかり通っています。しかし、そのツケは子供たちの世代に必ず受け継がれるわけです。その自明なことわりを理解しながら、国債を増発したお金で、自分たちにわずかなお金が恵んでもらえる。増税が延期されるということ。それに気をよくしている大人たちは、本当に子供たちのことを考えているんでしょうか。もし、私は、もう一度子育てをすることができるんだとしたら、子供たちがどのように成長していくか、何をもって子供たちの成長の転機になるのか、そういうことをよくよく観察したいと願っておりますけれども、きっと子供たちは大人の姿を見て成長するんだと思うんです。だから、私達は子供たちをかわいいと思えば思うほど、子供たちに大人が合わせるのではなく、大人に子供が合っても構わない。そういう模範的な生き方をできるだけ子供たちに見せていくべきではないか、と私は思うんです。

 もし、子供たちに勉強が好きだという大人にしたいと願っているならば、大人たちが朝から晩まで勉強している姿を子供たちに見せるべきだと思うんです。そして朝から晩まで勉強するということがどれほど楽しいか、勉強というのは必ずしも学校の勉強に限ったことではありません。ビジネスマンになるにしろ、エンジニアになるにしろ、毎日毎日に工夫がいつも求められるわけです。その工夫のために、自らが昨日の自分よりも大きな自分にならなければならない。より普遍的な自分にならなければならないという努力を日々研鑽しなければならないわけですね。そういう姿を子供たちに見せることを通じて、子供たちは勉強がそんなに楽しいことなのかと思うに違いない、と思います。

 大人たちが、国債を増発して、それでお金を自分のところに還流させる。それで税金を少しでも減らす。そんなことが良いと思っている。そういう姿を子供たちに、できれば見せたくないですね。減税対策という言葉が流行るような世の中を子供たちに見せたくない。税金を払うことは、お金を稼いだ人の当然の義務であり、そして喜びであるということ。日本では、慈善事業というと非常にいやらしい響きがあります。これは翻訳が悪いんだと思いますが、慈善活動ということが、人間として最もなすべき基本的な義務であり、誇りであるという社会になってほしい。それを子供たちに日々教えたいと私は願っているのですが、そういうふうに言ったら、皆さんもきっと賛同してくださるのではないかと期待しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました