長岡亮介のよもやま話343「受験勉強についての深刻な誤解」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 今日はたまたま、テレビドラマで見た1シーンに触発されて、日本らしい風景だと思い、それを主題に取り上げてみたいと思います。中学受験を目前にした母と子の会話なんですが、母親は重い病気を患っていて、一刻も早く手術を受けなければならない。しかし、娘の受験が目前に迫っていて、母親は娘の受験のために家庭教師的な仕事が最も大切であるから、自分の治療なんかしていられない。そういう差し迫った状況下にあって、医師たちがどういうアドバイスをするかという話なんですけれど、その話自身は実にたわいないものなのですが、その中で交わされる会話の中に、いかにも日本的な風景だと思ったところがあるので、それを取り上げてみたいと思っています。

 それは「今受験直前で、とても大切な時期である。受験の合否を決める最も決定的な時期である。だから、過去問の繰り返しを通して、実力を磨かなければいけない」というセリフなのですけれど、しかし、受験の直前になって、にわか勉強をして、それで身につけた言葉が受験に意味を持っているという信仰。これは信仰というしか仕方ない。全く事実に反しているとしか言いようがないものだと思うのですけれど、それがあまねく人々の間に普及してしまっている。この状況がおかしいなと感じるわけです。受験に向けて最後の追い込みで記憶に磨きをかけるということが大切だと。最後の瞬間まで記憶を正確に保つということが大切だと思われているんですが、全く意味のない事柄、例えば、子供たちにとって、関ヶ原の決戦あるいは関ヶ原の合戦と言ったからといって、それを生々しく思い描くことは、なかなか難しい。歴史を小学生が勉強するっていうこと自身に、私は少し否定的なのですが、自分がわずか10年とか11年とか、それしか生きていない。そういう中にあって、「過去300年あるいは400年あるいは1000年を遡った事実、それを現代に蘇らせる。そして、その現代的な意味を考察する」というようなことが、子供たちの思索にとって決定的に重要であるとは私はどうしても思えない。子供たちは、そういう少年少女時代には、いわば歴史的な物語を全く昔の絵巻を見るように、事件をストーリー性を持たせた単純な物語として覚える。そんなことくらいしかできないと私は思うんですね。

 歴史というのは書かれたものでありますから、当然書いた人がいるわけで、書いた人というのはある意図を持って書いているわけですから、歴史として残っているもの、これをそのまま受け入れてしまったら、書いた人の思い通りになってしまう。歴史の中に隠された真実、書かれたものの紙背を徹して読む。それが歴史の面白さだと思うのですけれど、そんなことを小学生に理解しろと言われたって、全く意味がないと思うんですね。「鳴くよウグイス平安京」、こういうのを機械的に覚える。それによって歴史を理解したことになる。そういうふうにむしろ思っているんだとすれば、実に馬鹿げたことでありますね。そのような断片的な知識をそれいくら集めても、それでは歴史になりっこないわけであります。過去の物語について、実はこうこうこういうことがあったんだよというようなことがわかって、歴史に肉づけがされたときに初めて面白い歴史の意味が立ち現れるわけです。かつて「歴女」という言葉が流行ったそうですが、歴史に関心を寄せる女性たちということですが、おそらく歴女ブームっていうのを作ったものは、公共放送などで放映される大河ドラマと題する歴史物語、その歴史物語を通じて、自分としては全く意味を感じなかった歴史の事件の中に人間的な様々な活動が隠されていたっていうことを、大河ドラマを通じて理解した人たちが、過去の歴史に思いをはせるという。それがブームとなったっていうことだと思いますが、いかに小学校あるいは中学校のときの歴史の勉強が空疎なものであったのか、ということを逆に物語っているんだと思うんですね。

 このような脚本家の手によって書かれた歴史に興味を示すということは、小学生が歴史の勉強をするということに比べれば、遥かに有意味なことでありますが、それぞれ歴史になったわけではない。これは歴史小説とでも言うべきもので、それ自身が歴史学としての学理性を持っているとは必ずしも言えないわけですね。歴史学としての学理性というのは、書かれたものを中心として、しかし、その書かれたもの中に、わざと書き落とされていたもの、抜かされていた記実で、そういうものをまた別の歴史書の中で発見して、歴史の全体像を浮かび上がらせるということ。このことは非常におもしろいことであると思いますが、いわゆる学校の歴史、学校歴史というんでしょうか、そういうものとしてはあまり意味がないですね。

 意味がないと言えば、アメリカでは地理歴史っていうと、独立戦争の歴史、アメリカ西部開拓史の歴史、これが十分徹底して教えられるようですが、そういうところにアメリカの州ように、全く人工的に区割れをした州の名前を覚え、その首都の所在地を暗記する。こういうことにはほとんど意味がありませんね。でもアメリカの少年少女たちは小学校のときにこういった歴史と地理を勉強します。日本でも同じようなことが行われているんではないでしょうか。長野県の県庁所在地は長野ですとか、青森県の県庁所在地は青森です。福島県の県庁所在地は福島です。みんな県庁所在地と県の名前が一致しているわけでありますけれども、中には一致していない県がありますね。例えば愛媛県の県庁所在地・・・私はこういうとこで小学校の知識が怪しいことを暴露しているわけでありますが、愛知県の県庁所在地は名古屋であると。ちなみに愛知県という名前は、僕はずいぶん立派な名前だと思うんですけど、愛知っていうのは「知を愛する」っていうことでありますから、ギリシャ語に訳せば、φιλοσοφία(フィロソフィア)、σοφία(ソフィア)を愛する。φιλο(フィロー)ってのは愛するってことですから、その「愛知」というのをさすがに「愛知」って訳すのがちょっと抵抗があったのか、Sofia Universityっていうところは、上智大学、そういうふうに訳しました。さすがはイエズス会って思って感心いたします。「Sofiaを愛する」、それがphilosophyの語源となったギリシャ語である。愛知県っていうのは、文字通り漢字を読めば、まさに「地知を愛する県」、愛知県の県庁所在地は名古屋である。

こういうことを覚えることにどんな意味があるんでしょう。私は、極めてそういうものに対して懐疑的です。そのような試験の結果、成績上位であることによって、優秀であるとか優秀でないとかっていうのは判定されるんだとすれば、そんな判定をする学校はろくな先生がいないということでありますから、行っても意味がないということにどうして人々は気づかないのでしょうか。今、人口が急減してきて、学校は全員入れる。そういう状況になってきました。そして昔から東大に初めて合格した人たちが出てきた地方の学校の出身者は、「開闢会」っていうのを作っていました。学校が開闢以来初めて東大生を出したということですね。しかし、今の社会状況の中で、開闢会っていうのは、もういくらでも増えている。つまり、全国の名もない学校から東京大学に合格するっていう人がいくらでも出ている。そういう時代であるわけです。このことの持つ意味、これをしっかりと理解することはとても大切だと思いますが、一言で言えば、かつての入試というのが、もはや制度的に意味を失いつつあるということの証しに他ならないのですが、そのことに気づいている人は、残念ながら少ないですね。

 多くの人が、私の見たテレビドラマのように、「入試に向けて今とっても大切な時期なんだから、ママは入院なんかしていられないわ。手術なんか受けられない。そんなふうにして何とか子ちゃんを1人にしておくわけにはいかないわ」というようなセリフが、あたかも意味を持っているかのように語られている日本の学校教育の貧困さ、そしてそれを取り巻く保護者たちの関心の貧困さを、物語っているように見えて、これが常識として通用するようであっては、日本はなかなか大人の社会の仲間入りができないな、というふうに、感じざるを得ません。受験というのは、本当の持っている力を測定する。あるいは判定する。そういう試験であるというような当たり前のことが、当たり前に行われるような、そういう世の中にならなければならないのですが、残念ながら今は、中学入試あるいは小学校入試、そういう子供相手の部分で、入試にならない入試が行われている。そして、それ自身は学校の先生たちの持っている知的な限界であるとしても、その知的な限界に振り回されて、それが当たり前だと思っている人々がいるということが、私としては誠に情けないことである、と思う次第です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました