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私達は言葉を使って思考し、言葉を使って人に自分の考えたことを伝達するということを、私達の知的な活動の基本にしているわけですから、言葉に対して敏感でなければならないという話をしてまいりました。そして、その際に誤った言葉の使い方に対しても敏感でありたいという話をしてきたわけです。しかし、そのようなことを若い生徒に教える立場にある先生方の中に、どうも言葉を誤って使っているのはないかという事例が散見され、前にはその先生たちを行政的にリードする文教行政のトップが、間違った言葉遣いをしているということについて、お話しました。私は、今回はもっと生々しいというか、教育現場で頻繁に使われている言葉の誤用についてお話したいと思います。
それはまず「難易度」という言葉ですね。「難しい・易しい、その度合い」ということで「難易度」という言葉が最近よく使われているようなんですが、この奇妙な表現がいつから日本語として定着したのか。私は調べてないのでわかりません。少なくともこんな表現は明治時代にはなかったんではないかと思うのです。おそらく教育業界での造語だと思うんですが、「難度が高い」というのは難しい度合いが高いということで、難しいということですね。難しいと言えば済むことを「難度が高い」というふうに、わざと難しく表現するのもいかがなものかと思いますけれども、一応難度が高いと言われれば、意味は通じます。同様に「易度が高い」と言ったら易しいということでしょう。それも意味は通じますね。あんまり言葉として意味がないかもしれませんが、意味が通じる。しかし、「難易度が高い」というのは、何が高いのかよくわからない。要するに難しいことなのか易しいことなのか、意味が不明であると思うんです。
「難易度」という言葉でもって、おそらく多くの先生方は難度を示しているんではないかと思うんです。それを言いたいんではないかと思うんですけれど、そもそも問題について、「この問題は難しい。簡単だ」というふうに言えば済むことを、「難度が高い、あるいは難易度が高い」と言うことにどれだけ意味があるんでしょう。それはまるで問題について「難易度」という指標が客観的に存在するというふうに信じ込んでいることの告白でしかないと私は思うんです。問題について客観的な難易度というものがあるわけではないということ、これは意外に知られてないことだと思うんですが、問題を作った人から見れば、問題の解答についてのアイディアは極めて簡単にわかるわけで、何も難しくないし、数学をやっている人間であれば、子供相手の数学の問題など考えればできるに決まっていますから、難度が高いということはあり得ない。面倒くさい問題というのはありますね。計算しなきゃいけない。計算をし終わってみなければわからない。そういう問題はややこしい問題ということになりますが、数学者はややこしい問題は、その場合によってはコンピュータで計算させればできるということになるわけで、それが絶対的な意味で「難易度は意味を持っている」ということには、首をかしげざるをえない。
つまり、問題の難しさ易しさは、誰にとっての難しさ易しさなのか。どういう勉強のキャリアを持っている人にとって、難しい易しいというのか。だいぶ違うと思うんです。客観的なものだというふうに誤解していることが一番深刻な問題で、問題の難度・易度は人によって違うんだという当たり前のことを、まず確認しなければいけない。問題そのもの性質として、「難易度」という概念でラベル付けをすることができるわけではないということ。この常識が常識として共有されてないことが、ちょっと残念だと思うことですね。
「難易度」という言葉については、このいい加減さが理解されれば、もう誰もが使わなくなるということでいいと思うんですが、もっと訳のわからない言葉を使う先生が多い。それは「関係性」という言葉ですね。「その関係性が問題である」とか。日本語はドイツ語と同じように抽象名詞を作る能力がある言語でありまして、「性」という言葉をつけると、言葉がその抽象名詞として成立する。例えば抽象的という形容詞、あるいは形容動詞というかもしれませんが、抽象的なという形容動詞がありますが、それを抽象性という言葉によって、抽象的という性質をより抽象的にまとめることができる。反対に具象的であるということを、具象性という言葉で抽象名詞にすることができる。そういうことはありますね。これ日本語の特徴です。
ドイツ語や英語にも、例えば皆さんがよく知っている英語だったらnessという接尾語が日本語の「性」という言葉に似ている。形容詞を抽象名詞にする。例えばhappyという形容詞に対してHappiness幸福という抽象名詞を作る。ドイツ語でもkeitという言葉がありまして、これで抽象名詞を作る。heitと言葉はとても便利な言葉ですね。日本語やドイツ語にはそういう造語能力というのが非常に豊かにあるわけです。フランス語など他の言語にも似たようなところはあるのですが、ドイツ語や日本語ほど自由自在というわけにはいかないと思います。
「関係」というのは元々Relationという名詞でありますが、「関係がある」ということでもって、AとBとの間には関係がある。どういう関係かと言われたらいろんな関係があるわけですね。親子関係であるとか、人間関係であるとか、社会関係であるとか、上下関係であるとか、そういういろんな様々な関係を抽象して、一般に「関係」と言うわけです。関係があるということを言うときにはもちろん、その話の脈絡の中でどういう関係があるかということが暗黙の前提というか、お互いの共通の了解として、例えば、事件が起こったときに、「AはBという事件に対して関係が疑われている」と言ったときには、A がBという事件に対して何らかの関わりを持っていた。犯人であるとか、犯人の黒幕であるとか、そういうことが言外に了解されていて、「関係がある」ということがそれだけを言っても、無意味なはずのその表現が意味を持つわけですね。つまり「関係」という言葉は、どういう関係かということがあらかじめ暗黙の前提としてあるということが、言葉を使うための前提条件であるということです。
数学的には関係という概念も、実は集合を用いて定義することができるという話がありますが、例えば等しいという関係とか、不等式という関係、大なりという関係あるいは小なるという関係、それはその集合として捉えることができるということですね。関係というのはそのように非常に抽象的なものでありながら、ある前提のもとで、お互いに意味を持っているものとして使うことができる、そういうことだと思うんですね。
それに対して「関係性」というのは一体何なんでしょうね。「関係」自身が非常に抽象的な名詞なのに、それに「性」をつける。抽象名詞に抽象名詞をつける。訳のわかんない表現ですね。こういう言葉を語る人は、そもそも「関係がある」ということがどういうふうに定義されるのかということに、関心を払ったことがない人たちだと私は思うんです。
しかし、数学では皆さん「イコールという関係」、よく使いますね。「相等性という関係」あるいは「不等式という関係」、よく使います。そのように相当性とか大小関係とか、そういうように「関係」をよく使いますから、その「関係」というものを考えるときに、相等性と大小関係ではえらい違いですから、それをきちっと区別して、「この関係はどういう関係である」ときちっと定義するわけです。三角関係というのも一つの関係ですね。
そういうわけで、「関係」という言葉が抽象的にあるのに、その抽象名詞に対して「性」をつける。そしてさらに抽象度を上げる。これは自分の言っていることをわざと難しく表現するという意図があるとしか思えない。悪意はないのかもしれませんが、悪意を疑ってもおかしくないような、わけのわからない表現だと私は思うんです。皆さんはいかがお考えになりますか。
こんなつまらないことにいちいち付き合うのは、やはり言葉というのはとても大切なもので、きちっと意味をわかって使わなければいけないと思うからです。最近の日本人の日常会話の中に出てくる訳のわかんない表現、わざと曖昧にしている。自分の意見をあえて隠すような表現、いやいやいやいや、何を言ってんだかよくわかんない。子供がいやいやする。それは拒否しているということですが、最近の日本人が、いい大人が使ういやいやいやいや、いやいやを繰り返す。いやいやも既に繰り返しなんですが、それを2回ではなくて3回も4回も5回も繰り返す。これは何ともおかしな話だと思いますが、こういう日常会話のおかしさについては、文化全体が持っている軽薄な傾向を反映しているんだと思うんですけど、先ほど言ったような文章語の中で出てくる奇妙な表現、これは本人は悪意はないとしても、悪意を疑われても仕方ない。わざと難しく高級そうに表現している意味のない表現であると私は思います。今日はちょっと愚痴のような話をいたしました。
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