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「若い人の言葉遣いがおかしい」という指摘をする人が多いのですが、私のように「いい大人の言葉遣いがおかしい」ということを指摘する人は意外と少ないですね。私はここではビジネスマンに見られる言語感覚のおかしさについてお話したいと思います。
ビジネスマンの世界では、時々のはやり言葉が一斉に語られる。例えば、企業において業務を1人の人が抱え込むのではなくて、それをみんながどういう業務があるかっていうことを理解できるようにする。それを「業務の見える化」というふうに言うんですが、明らかにおかしな日本語ですよね。見えるっていう言葉、これ動詞だと思いますが、それに“化”、化けるという字を書く、こんな言葉をいい大人が、もうおじいさんになろうとしているような会社の管理職の人が平気で言ったりする。言語感覚に障害があるとしか思えない。それはその言葉によって、ある一定のビジネススタイルの変革を目指しているんだと思いますが、そうしたら自分自身でその言葉を自分なりに作ればいい。おかしな言葉ではなくて、流行り言葉ではなくて、自分の言葉でもって考えて作ればいいと思うんですが、“見える化”なんて言葉が流通しているということは、結局考えている人が少ない。自分で物事を考える人が少ない。どっかのコンサルタントとか広告代理店が言ったような言葉をそのまま使えば、時代の最先端に行っていると錯覚するんでしょうね。
この種の錯覚というのは若い人にありがちなんですが、実は若い人たちだけではなくて、十分年を取ってきて判断力が期待されるそういう年齢になっても、そして社会的にそれなりのステータスの職についている人でも、この程度の言語感覚であるっていう日本の現実を、私達は重く受け止めなければならないと思うんですね。流行り言葉に弱いのは、一番弱いのは、実は文部科学省ではないかと思いますが、かつては“グローバリゼイション”これがキーワードでしたね。それを持って学校をグローバリゼーションの荒波の中にさらけ出そうとしたわけです。私は、グローバリゼーションというのが金融ビッグバンとか言われていた時代から、恐ろしい時代がやってくるんだっていうふうに警鐘を鳴らしていたんですが。
今、教育において流行っている言葉は、驚くべきことに間違った日本語だと思いますが、「学び合い」って言うんですね。私は「何とかし合い」っていうのは、他動詞に対してつけるんだと。「助ける」っていう他動詞に対して「助け合い」っていう言葉がある。お互いに助けるってことですね。それはいい。だけど「学ぶ」っていうのは自動詞ですから、「学び合い」っていうのはありえない表現だと思うんですが、文科省が先頭に立って、この言葉を流行らそうとしている。そして学校の先生たちが、そういう流行に敏感な人たちが、その言葉を先取りして、先取りしてというより誰よりも早くその流行に乗って喋ればいいと思っている。
言語感覚がおかしい人に数学なんかわかるようになるはずがない、と私は思うんですね。なぜならば数学は、言葉であるからです。数学は単に自然科学のための言葉であるだけではなく、人間の理知的な活動のための全てに共通の言葉です。言葉を勉強するのは、国語だとか英語だとか、そういうふうに思っている人がいるかもしれませんが、国語とか英語っていうのは、例えば日本語とかあるいは米国語とかイギリス語とか、そういう地域に縛られた言語ですね。それに対して数学というのは、人類に普遍的な言語です。どの言語を使っていても、数学をするときには、それが普遍的な言語になるということですね。数学というのはそういう言語ですから、私は言葉の問題について言うのは、決して保守的に正しい日本語を喋りましょうっていうんではなくて、「言葉を、意味を考えて大切にする。そういう生活をしましょう」という趣旨です。
そういう趣旨でお話しているわけですが、例えば先ほどの「教え合い」というのは、正しい日本語だと思いますけど「学び合い」というのはおかしい。何でそんな変な日本語を使うのか。何でも共同でやればいい。クラスで一緒になって、友達と一緒になって活動する。そのことが大事だというふうに文教行政のトップの人たちが旗を振っている。その旗を振ると、みんなそこになびいていかなければいけないと、学校の先生たちも思う。異常な世界ですね。戦前の軍国主義教育と変わりない。みんなトップの人が右向け右って言ったら、みんなが右に向く。そういうのは異常であると思いませんか。
間違った日本語を行政トップが指導し、そしてそれに学校の先生が倣っていく。恐ろしいことですね。こういうものに対して、私達は鋭く批判の精神を持って対決しなければならないと思います。「学び合い」なんていう言葉はありえないっていうことですね。一緒に学ぶっていうのはいいですよ。でも、学ぶっていうのは孤独な作業ですから、決してそれをみんなワイワイガヤガヤして一緒になって話し合ってわかるようになるというわけでは決してない。“沈思黙考”という言葉がありますけど、「本当に難しいことは納得するまで時間がかかるもので、そのためには沈黙の時間が大切だ」という当たり前のことを、改めて確認しなければならないというのは、私としては大変残念なことです。
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