長岡亮介のよもやま話336「食道狭窄で嚥下障害を確認して初めて気づくこと」(退院後)

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 私は数日前にようやく退院してきたのですが、退院してから手術した後の後遺症というのでしょうか、それはお医者さんからも何回も注意されていたことであるのですが、改めて自分自身の体にそのような現象が起こることを発見して、とても驚いています。それはどういうことかというと、“嚥下”という日本語ではちょっと難しい漢字を使って書きますが、飲み込むことですね。飲み込むということが、普段何でもなく行っている動作だと思いますが、それが極めて難しくなる。喉に何かつっかえた感じがあって、喉のつっかえが取れないと次のものを飲み込むことはできない。全く手に負えないわけです。

 「そんな飲み込むなんて簡単じゃん、“ごっくん”ってすればいいんだよ。」皆さんはそう言うと思いますが、実は“ごっくん”するということが、実に複雑なメカニズムの上で初めて成立しているんだということを、改めて実感するわけですね。飲み込んだものが途中に詰まっている。これを食道の狭窄というのですが、狭くなっているためにその部分に飲み物・食べ物がつっかえて、それ以上のつっかえが起きても、そのつっかえによって何ものを飲み込むことができない。そういう状況が生まれるわけです。呼吸ができないわけではありません。呼吸器の方は気管支の方に空気が入ってきますからできるわけですが、呼吸を止めて“ごっくん”する。ごく平凡なことである。赤ちゃんでもやっていることである。皆さんはお思いでしょうが、それがある障害を起こすとできなくなるということです。

 お年寄りの死因の第一に挙げられるのは“誤嚥性肺炎”というやつで、嚥下に失敗して食物を肺の中に入れてしまう。そういうことをすると、肺は消化器ではありませんから肺の中で食物が腐るわけでありまして、そしてそこに炎症つまり肺炎が起こる。高熱を出して、抗生剤も効かない場合には、そこで亡くなる。老人の死亡率のかなりの割合を占めている。それが嚥下障害であります。誤嚥というのは、普通はむせることによって誤嚥を防ぐという機能を人間は持っている。すごいですよね。誤嚥したときに誤嚥だと自分ではわからないんですが、体の方が理解して反射的に、その誤嚥しそうなときに、誤嚥を防ぐようにむせる。むせるということは誤嚥したからではなくて、誤嚥しそうになったときの体の防衛反応であるわけです。そのように誤嚥すると、誤嚥を防ぐための体の反応が自然に起こる。これも大変なことなんですが、私が今申し上げているのは、嚥下して食べ物を飲み込んでいる。ところが、食べ物が食道の狭窄部門つまり狭くなった部分に引っかかって、以後何とも飲み込むことができなくなる。どんなに飲み込んでもそこにガラガラとあぶくのようなつばが出るだけで、その唾液を飲み込むことさえできない。そういう状況になるわけです。

 そういう状況に追い詰められてみて初めて思うのは、人間は健康のときにそのような難しいことを難なくこなしているということですが、自分たちがその機能をこなしているというのではなく、その機能をこなさせていただいている。深い叡智によって生物の種が進化の過程で獲得した非常に素晴らしい能力だと思いますが、その進化の過程で獲得したと言うと、私達人類があるいは人という種がそのような能力を自分自身の力で獲得したと思いがちですが、実は私達の体の中で嚥下機能というのは何ものによって支えられているかということ、それについてはまだ十分にはわかっていないわけですね。わかっていないにもかかわらず、私達はそれをいとも容易に実行することができる。そういう能力を与えられている。

 私達はそういう能力を獲得したと生物学者は言うでしょうが、それは傲慢な話で、私達はそのような能力を獲得するように仕向けていただいた。そういうふうに言うべきであるということを、自分が病気になってみると、初めてわかります。私達が健康のときに、いかに不思議な奇跡的なメカニズムによって、私達の日常的な健康が維持されているのか。それは本当に手を合わせたくなるような素晴らしい機能です。そのような機能を私達は意識することなく使っている。でも私達は時々その機能を失うことによって、その機能が無意識に使われていたときの不思議さ、それに思いを馳せることができるのではないかと私は思います。つまり、私は今いわば機能障害者でありますが、機能障害者になってみて初めて、その機能がいかなる叡智によって与えられたものであるかということがよくわかるということです。

 人間健康のときには自分の健康を当たり前のものとして、それを謳歌する。言ってみれば、ずいぶん傲慢な態度で自分の体を酷使しているわけですけれど、実はそれが全く根拠のない非科学的な妄想に過ぎないということを、その機能を失った障害者になってみるとよくわかるということです。何でも経験してみなければわからないという素朴経験論に私は立つものでありませんけれども、私達は時々は自分の体が思い通りに動かないという経験をすることは、私達が普通何気なくやっていること、それにいかなる難しさがこめられているか。それを発見するという意味で、とても大切な人生経験ではないかと、私は思います。いろいろな障害があるわけですね。でも、どんな障害であっても全部を経験する必要はないと思いますが、たった一つのこと、それを失うだけで、私たちはものすごく苦労するということを経験するわけです。そしてその経験をすることによって、私たちの知性が私たちをコントロールしている大きな源である。そういうふうに思っていますけど、実は私達の知性が遠く及ばないところで私達が生かされているという現実にはたと気付くわけです。そういう意味で、障害を負うということは、人間の存在の本質について考えめぐらす機会を与えられるという意味で、とてもありがたいことではないかと思っています。

コメント

  1. shin より:

    長岡先生、ご退院おめでとうございます!!
    よかった、よかった、本当によかった。まずはほっとしました。「あなたにはまだ、この地で果たすべき使命がある」と神様は言っておられます。感謝です。

    聖書のマタイ福音書9章・マルコ福音書2章・ルカ福音書5章に、イエス様が体の麻痺した人を癒されたという話があります。そこでは、彼が癒されたのは、主がこの世で人を生かす権威(罪を赦す権威)を持っておられることを示すためだ、と言われています。この言葉のとおり、命の主は今まさに、障害を経験してこられた長岡先生を通してご自分を世に示しておられますね。

    先生、まだまだこの世で果たすべき務めはたくさんありそうですよ。少なくとも私は、線型代数の講義を受けていた頃と同じくらい、先生の日々の言葉から思索の機会をいただいています。これからも待っています。

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