長岡亮介のよもやま話335「中等教育の驚くほどの非論理性」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。是非ご感想を! ***

 以前、1人の女子中学生から突然いただいたEメールで、私はかなり深刻であるなと思った数学の話を今回はいたしましょう。今の学校数学の教育はひどく理論的な側面から見ると、中身のない形式に走っている。それでいて、何か論理性のようなものが時々強調される、というひどいアンバランスの中にあるということなのですが、そのことに、教えている先生も教わっている側の生徒もほとんど気づいていないのではないか、ということです。

 前にもちょっと触れたことなんですが、数の計算においては、交換することができる、例えばA×BとB×Aは同じである。A+BとB+Aは同じである。これが基本ですね。引き算、割り算に関しては交換ができないに決まっているのですが、それは逆の演算であるから当たり前の話で、足し算や掛け算に関しては交換の可能性がある。こういうことは実は、足し算や掛け算の持っている最も重要な性質で、誰でも知っている。実際、私自身もそうですが、九九を覚えるときに、3×6=18って、3の段は得意だったんですね。3×1=3、3×2=6、3×3=9、3×4=12と3の段は得意なんですが、6の段とか7の段というのはなかなかちょっと難しいんですね。7×3とか、7×6っていうのはなかなか面倒くさい。7×3っていうふうに言う代わりに3×7=21っていうふうに3×7の方を覚えておけば、自動的に7×3もわかるっていう、そういう小学校時代の一種のずるでありますけれども、そういうずるをすることで、交換ができるということは、子供にとっては当たり前のことでした。

 しかし、なぜ交換できるのかっていうと、3×7と7×3がなぜ等しいのかっていうと、両方計算して両方とも21だから、というような証明というか理屈を立てるのが子供たちでは当たり前ではないかと思うんです。そういう21っていう計算をすることなしに、3×7と7×3が等しい、ということに納得するには、縦に3個、横に7個石を並べて全体で個数は何個か、ということを考えるときに、その縦と横を変えて並べても同じだ、90度傾けてみれば縦横っていう言葉を逆転させるということに過ぎない、というふうに理解するというのは第2段階かもしれません。それは小学生の子供であれば、そこまでできれば十分と言ってもいいでしょう。

 交換法則というのは、このように人間の認識にとって極めて自然なものなんですけれども、実は、演算の法則の中で、分配法則という、ちょっと形が複雑なものがあって、A、B、Cと3つの数あるときに、AとBを足しておいてからCをかける。括弧などを使って書くと、(A+B)×Cというものと、それがAとC、BとCとを先にかけておいて、それから加えてもいいという。足してからかけるっていうのと、かけてから足すっていう、言葉を逆転させることができる。これも一種の言葉の交換法則でありますけれども、文字で表現すると、それが分配法則というものになる。この分配法則っていうのは形が難しいので、これがやたらに強調されるんですね。その分配法則っていうのを証明するときに、先ほど小学生が交換法則を証明したときのように、長方形上に数を並べる。1辺がA+B、横の方にA+B個の石を並べる。A個の石を並べさしてB個の石を並べ、縦にC個の石を並べ大きな長方形を作ったときにその長方形内に入っている石が、それぞれの横がA、Bである長方形で縦がCの2つの長方形、それと同じじゃないかって、こういう説明の仕方をする。学校の先生たちによっては、これを面積で説明する人がいますが、実は、面積とは何かという概念を定義するのに、論理的には難しさがありますから、それは趣味の悪い話でありまして、私が言ったように、石の個数で考えるならば、比較的小学生に対する説明としては、それでよかろう、というふうに思います。小学校の段階では面積といっても、いわゆる単位正方形の個数でありますから、石を並べることと実際上変わらないわけです。

 そういう意味では、小学生の段階では面積を使った議論、これもいいわけですが、中学生になると、辺の長さというのは、有理数あるいは実数で表現されるというものになるわけですから、実数に関してそのような規則が成り立つということは、これは数学で証明しようと思うと、容易ならぬ大変な問題をはらむ難問なのですね。その難問を仮定して、いわゆる式の展開は分配法則の応用である、こういうふうに高等学校の教科書でも書いている本があるのですね。それに関して、私のところに突然やってきた手紙の主の少女は、学校の先生は、(A+B)² 誰でも中学3年生くらいで、教科書の重要事項として丸暗記するのだと思います。学校によっては、もうクラス中でそれを唱和させて、記憶を確かめている、そういう教育実践もあるようですが、(A+B)²=A²+2AB+B² こういうふうに暗唱させる、馬鹿げたことだと思うんですね。それが分配法則の応用だって言うんです。分配法則の応用だっていうことが、本当に言えるかっていうと、実は分配法則だけでは、いまのことを導くことができないのです。

実は、言葉で説明するのはちょっと難しいのですが、結合法則というものもあり、結合法則っていうのは、例えば3つの数A、B、Cを加え合わせるっていうことですね。私達は小学校の頃、これは一種の寄せ算として考えますから、A、B、Cっていう3つの数に相当するリンゴ3個、リンゴ2個、リンゴ5個のもの、全部固めれば、全部でリンゴが集まったものとして数えられるだろう。そのときに、リンゴ2個と3個と5個だったら最初に3個と5個の方を集めておいて、そしてそれにリンゴ2個を加えても同じものになるに決まっている。結合法則というのは、小学生から見ると当たり前だから、それを改めて法則って言われても困るところがあるのですが、式で書くと(A+B)+Cそれと、A+(B+C)それが等しいということ。これを証明するのはやはり容易でないのですね。この結合法則がないと、そもそも先ほどの言ったような (A+B)² というような展開でさえできない。それどころか(A+B)(A+B)を展開すると、普通は結合法則と分配法則を仮定しても、正しい答えはA²+AB+BA+B² となるはずで、ABとBAというふうに2つ出てきたものが、それが等しく、2つまとめて2ABっていうふうに言えるためには、交換法則が必要なわけです。

 そして、交換法則が成り立つということは、小学生のときには当たり前ですが、中学生になったときには、文字式の計算ですから、文字に関して交換可能であるということは証明してないんですね。それは言ってみれば、天の声として、それはできて当たり前と先生たちは思っている。なぜABとBAは等しいとするかということは問題にしない。ひどい教科書なりますと、これが文部省、文部科学省の検定教科書ですよ、国が嘘を教えてるってことになりますが、文字式では、文字はアルファベット順に並べる、こんなことが堂々と教科書に書かれている。アルファベット順、これがわかることは大事なことだと思いますが、最近は電子辞書の開発でアルファベット順さえわからない、こういう中学生が出てきているという話ですが、アルファベット順、例えばA×B×CだったらABCの順に書かなければならない。A×B×Cも、B×A×C、C×A×B、A×C×Bも全部ABCとなる。「なんでそうなるんですか。」「なんでそんな規則を作っていいんですか。」そういうことが問われていない。実に馬鹿げた話です。

 小学校の算数に関して、主に結合性の問題に関して、どれが正しいかというような議論がインターネットを炎上させるという騒ぎになっていますが、実は馬鹿げた話でありまして、要するに、どういう約束のもとでどういう記号を使うかということを明確にしておけばいいだけの話なんですが、小学校時代はそういうものが全く明らかにされていない。そして、その延長で中学校の勉強も始まってしまうということが非常に厄介な点で、小学校のときには四則演算に関して、掛け算と割り算は足し算や引き算よりも、先駆けて計算するというようなことが、教科書の中でも明示的に書かれていたと思うんです。これは括弧を省略するための非常に便利な規則でありますが、そのように小学校のときに明示的に訓練された法則、これが論理的にどのように整理されるか、あるいは表現されるかということに関して、中学校の先生たちも、生徒たちも関心を持っていない。そのために、インターネットの炎上騒ぎという馬鹿げた話が起こるわけですが、しかし、要するに単なる記号の表記の約束で、どういう場合に括弧を省いて良いか、どういう場合には括弧を使わなければいけないか、ということを明白にすればいいだけの話なのです。

 しかしながら、そういうようなことに注意を向けられないのは、例えば式の展開というところでさえ、ABとBAという項が2つあったら、それを2ABとするのが当たり前、こういう言ってみれば、ノウハウだけを叩き込まれて、それでわかった気になる子供たちにも責任がありますが、そういう子供たちを生産している先生たちにも本当は責任がある。

 数学は論理的だというふうに言い張る先生が言いますけど、私から見れば、小学校の算数はもちろん、中学校の数学になると、論理性がひどく犠牲にされている。小学校のときには、算数のいわば生活世界のようなものに、しっかりとした基盤を置いていますから、いちいち明示的な言葉で論理的に話す必要がない、そうしなくてもお互いにわかるということが、前提条件としてあると思うんですが、中学校になると代数という非常に人工的な言語を操ることになるわけですから、その人工的な言語を操るに際して、文法というものをきちっと教えないといけないんですね。英語でさえ、文法を教えないという時代でありますから数学で文法を教えないのは当たり前、慣れればわかるようになるんだ、こういう考えが世の中を、一世を風靡しているのかもしれませんが、そんなことはありえない。特に自然言語はともかくとして、人工言語である数学に関して、文法的な説明が全く欠けている。文法的な説明という言い方の代わりに論理的な定義というふうに申し上げた方が正確だと思いますが、それが欠けているということに多くの人が気づいていないのは、誠に不思議です。少なくとも中等教育における数学は、大学における数学のように、論理性というものに依拠して理論を構築していく、というものには全くなっていないということに多くの人が気づいていない。

 中学校や高等学校レベルの数学ができる人が頭がいい、頭が悪いというふうに言うことがありますが、そもそも頭の良さというのは何で定義されるのかということも私は問題だと思いますが、私から見ると、中学校や高等学校で、数学について何の問題も感じずに、ただ与えられた問題だけが解けるようになっているという人は、頭がいいとか頭が悪いという以前に、思考力がない、あるいは批判的な精神がない、あるいは先生の言われることに対して obedient である、従順であるということ、その物差しにはなっていても、それが頭が良い悪いというふうな指標として語られるんだとすると、私はとんでもないことではないかと考えております。

コメント

タイトルとURLをコピーしました