長岡亮介のよもやま話318「数学は、記号や数式がわけがわからないという意見に」

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 数学が嫌いだという方、あるいは数学が苦手だという方の中に、その理由を尋ねると、「記号の意味が訳わからない」という返事がしばしばかえってきます。しかし、数学は数学的な記号、それは数式と呼ばれますが、そういう記号を使うことによって、複雑な概念を誤りなく他の人に適格に伝達することができるという意味で、非常に強力なしかも使いやすい言語であるのですが、言語あるいはその用語を使うのが嫌いだという人は、おそらく例えばギリシャ語をいきなり勉強させられるという羽目に陥ったときに、それがちんぷんかんぷんで何言っているかわからないというのに似た感覚なのかなと思います。

 英語には、ギリシャ語が苦手な人が多いのか、「 It’s all Greek to me.」「それは私にはギリシャ語だ」という表現が、「それはちんぷんかんぷんだ」ということを意味するイディオムみたいな慣用表現としてあるということを、私は中学生の頃勉強しました。ギリシャ語が全くちんぷんかんぷんだというのはアメリカの中では、やはり一般的な大衆レベルの話であって、アメリカでもいわゆるエリート校、有名な中学校高等学校そういうところに行く人たちは、少なくとも中学高校の6年間の間に、古典語と言われるラテン語とかギリシャ語を勉強することはほぼ必修と言っていいと思うんですね。しかもそれが日本で言えば、ちょうど数学に相当するように、それができる子供が勉強がよくできる子あるいは秀才と言われることがあり、ギリシャ語やラテン語ができない子供たちは頭が悪いと、そういうふうにみなされる風潮があると思います。

 大学においても、西欧古典っていうと、日本では文学部の1学科という感じにすぎない。文学部もない大学、あるいはまして西洋古典学を持たない大学も日本では最近少なくありませんが、しかしヨーロッパの大学、特にイギリス、あるいは北欧そして、アメリカのエリート学校では、西欧古典というのは言ってみれば、エリートとして知的なリーダーとして生きる人たちのための必須科目なんですね。ですから、「訳がわからん」というのを「ギリシャ語に例える」っていうのは、とんでもない話であるわけですが、一般の人々にとって訳のわからないギリシャ語でさえきちっと勉強すれば、なんときちっとした折り目正しい言語であるかということがわかる。英語のような、現代的な言語っていうのは、乱れきっていてどうしようもないということがよくわかる。そのどうしようもなく乱れた英語を、「話せるようになることが学校の勉強の目標である」というようなことを、文教行政のトップの方から掛け声がかかるというのは、日本は一体どんだけの開発途上国なんでしょうか。開発途上というといい言葉に聞こえますね。昔の言い方の方がいいと思います。低開発国、つまりまだ開発が行き届いていない国、まだ未文化の社会であると。文化のない社会というふうに私は思うんです。

 それに対して、西欧古典学はとりあえず日本人にはちょっと縁遠いかもしれないので置いておいて、「数学の言語が、ギリシャ語のように訳のわからないものである」というのは、本当はとんでもない誤解でありまして、数学は複雑な記号を使うとしても、その使うルールはきちっと決まっていて、言語の意味・用法の使い方も非常にクリアに決まっているから、それを使って何でもできる。ただしコミュニケーションできるという便利な道具であるはずなのですが、本当のことを言うと、数学の記号や数学の式変形、そういうふうに言われるものにも、暗黙の前提tacit assumptionというものがたくさんあって、多くの人がtacit assumptionの存在にすら気づかずに、数学の記号を自分はわかって使っていると思っている。これが本当は実情だと思うんです。私は、数学が中学とか高等学校の段階で嫌いになる、あるいは苦手になる、そうなってしまった人は本当に不幸な運命に巡り合ったと思いますが、その不幸な運命に出会ったときにそれを乗り越えられなかったのは、その人が決して数学的な知性が足りなかったからではなくて、反対にむしろ非常に厳密な知性をお持ちであった。

 ですから、数学の教科書などに書いてあるいい加減の説明に納得ができなかったということがあるんではないか。私はそういう可能性が極めて大きいと思っているんですね。「数学が嫌いな人に、数学が嫌いだという権利を与えよ」という運動を起こしたいと思っているくらいですが、それは教科書とか参考書とか、あるいは学校の授業とか、教えられている「数学」という括弧づき数学ですね、数学と言われるものが実は極めて多くの暗黙の前提の中に、子供たちを平気で投げ込んでしまう。そういういい加減な数学であるということに、多くの人が気づいていないっていうことにあるんではないかと思うんです。

 そしてもう一つ、今回新しい論点として提供したいと思うのは、数学における記号の中で、全く無用のものがたくさんある。わざわざ記号化して複雑にしている、ということですね。わざわざ複雑にするというものの代表的な一つは、分数の記号ではないかと思いますね。分数というのは大変に便利な記号ですが、ただの割り算に過ぎないわけですから、割り算以外にさらに分数記号を考えるというのは、私は余計なお世話かと思っています。例えば$\frac{1}{3}$とは何かということを、小学校の算数なんかではいろいろな理屈をつけて$\frac{1}{3}$を説明するみたいですね。しかし、数学的に割り切って言えば、$\frac{1}{3}$とは、「1割る3」というのは、整数の範囲には答えがありません。「1割る3」って答えが無いんですね、整数の範囲では。「1割る3」は整数の範囲に答えが無いということを、$\frac{1}{3}$と表す。「1割る3」= $\frac{1}{3}$という表現は、「1割る3」がイコール$\frac{1}{3}$、両辺が等しいという意味じゃなくて、左辺が整数の中に解を持たないということを、右辺$\frac{1}{3}$という分数で表していると思っても良い。つまり、数式の表現の中にはそのような非常に難しいメッセージが込められていることもあるんですね。これは大学の立場でいうとわかることなんです。

 今$\frac{1}{3}$で分数の話をしましたが、例えば平方根2、$\sqrt{2}$っていうのは何ですか。平方して2になる正の数です。こういうふうに答えるのは中学校の模範解答ですね。しかし、$\sqrt{2}$というのは、2乗して2なる正の数っていうのは、有理数の範囲には存在しないということを表現している。$\sqrt{2}$というのは2乗して2になる正の数という意味に過ぎないんですね。ですから、$\sqrt{2}$の全体を2乗してそれが2になる。こういう計算をして喜んでいる中学生がいますが、それは論理的に自明なことで、2乗したら2なる数、有理数の中に無いその数を$\sqrt{2}$と表す。$\sqrt{2}$を2乗したら2になるに決まっている。当たり前なんですね。このように、数学の記号の中には少しその元の意味をしっかりとわかるということが難しい記号があることも事実でありますが、一方で数学教育の世界の中には、今の$\sqrt{2}$とか分数とかっていうのは歴史的な、言ってみれば遺産ですから、私達が歴史的な遺産を尊重するように、昔の人の親しんできた記号を現代人も親しんで欲しいと私は願いますが、それは本当のことを言うと、重要な意味を持っている記号ではないっていうこと、これが以上の話です。

 それに対して、数学の記号の中には全く意味のない記号が少なくない。代表的なものが高校1年生あたりで最近は勉強するようですが、集合Aの要素の個数をn(A)と表す。そして集合の間の演算として、Unionつまり和集合とかあるいは共通部分、交わりっていうふうに言ったこともありますね。英語でインターセクションと言いますが、その集合A集合Bが与えられたときに、集合Aの要素の個数をn(A)と表す。こういうふうに約束して、一般にn(A∪B)=n(A)+n(B)-n(A∩B) 。こういうのを公式として、うやうやしく掲げる本があります。教科書ってのは大体そういうもんです。そして集合論的な考え方としてそれを強調するんですが、そもそも「集合の要素」というのを考えるときに、n(A)って表す。「要素の個数とは一体何なのか」、定義してなくて、そして「n(A)と表す」ということは、要素の個数という概念はわかっていて、そしてそれを記号化してn(A)と表すって言うんですけど、「集合Aの要素の個数」というのがわかっているならば、それをわざわざn(A)と表す。個数というのは、そもそもナンバーっていう言葉で、ナンバーっていう言葉を頭文字をとってnを表しているわけですから、もう記号のための記号にすぎない。有限集合、有限個の要素からなる集合、有限個の要素からなる集合についての要素の個数に関する基本公式と言うべきもので、これについてお話するとちょっと長くなってしまうんですが、その概念を記号で表現する。そのことそのものに意味があると考えている人がいる。そしてそのことを強調する人がいる。その公式に従って問題を解けと、それを要求する先生がいる。

 「4の倍数の集合と、例えば12の倍数の集合、それぞれA・ Bと表して、A∪B、それの1以上1000以下の中にその集合に属する要素の個数を求める。そのときにこの公式に従って解け。」こういうことを言う人がいるんですが、実に馬鹿げた話なんですね。なぜかというと、その公式はそういうふうに書くことの方が面倒なことで、その考え方自身は極めて自然で小学生でもわかっていること。その小学生でもわかっていることを思い出すということにはとても大事な意味があり、8の倍数と12の倍数っていうのを考えるときに、その和集合を考えるときには、8と12の最小公倍数の倍数、8と12だと24の倍数で、その24の倍数というのは8の倍数でありかつ12の倍数でもあるということで、その重なった部分を考慮しなければいけないというだけの算数の話ですよね。いわば倍数の概念についての根本的な話で、集合概念と関係ないんです。それをわざわざその集合というところで記号をつけて表す。記号を使って答えを出すとマル、記号を使わないとバツ。こんなことを言われたら、言葉を大切にしたり、記号を大切にしたり、あるいは文字を大切にしたりする、そういう文化に親しんでいる人から見れば、ばっかじゃあるまいかと。そういうふうに思ってしまうんではないでしょうか。

 数学における記号というのは、そういうものではなくて、そういう記号を使うことでしか表現できないもの。それを表現する。それにとても役に立つわけでありますね。例えばどういう場合がそうでしょうか。皆さんにとってはおそらく、方程式を学んだときに未知数として例えば xというアルファベットを使うということの威力。それに大いに感じた人もいるかもしれません。あるいは初等幾何で三角形を表すのに、三角形の3頂点の名前を適当な順番で任意の順番で、例えば abcそういうふうに頂点を書くことによって、頂点を並べて書くことによって三角形を表現している。これはすごく便利な記号で、三角形の定義自身がそもそも三角形とは3頂点のことなのか、それとも3頂点を結ぶ3辺のことなのか、それとも3辺で囲まれた図形の内部の領域のことを意味するのか。そういう定義さえないところで、三角形の面積はとかって言うんですけど、三角形がもし3辺でできているならば面積はゼロのはずなんですね。3頂点からできているとしても面積はゼロのはずなんです。でも、三角形の面積公式とかって平気で言いますね。

言葉遣いがいい加減なんです。言葉遣いがいい加減なところで、記号の重要性ということを数学ではむやみに強調するところがありますね。それを適度に使いこなすということが大切なのに、記号で考えることが重要だっていうふうに強調されると、数学の記号の持つ本当の意味というのが見失われてしまうんではないかと思います。ちなみに三角形ABCの記号ですが、三角形の記号を書いて△ABCと書く。私の頃は三角形ABCと言ったときに、その三角形ABCの周を表しているのか、それとも3頂点を表しているのか、それとも三角形ABCの面積を表しているのか、それを記号を区別するようにしておりました。今でもアメリカなんかではそういう区別する教育が一般的でありまして、初等幾何に関しては、日本の学校教育の記号法は、あまりにも乱暴すぎてでたらめって言ってもいいくらいであります。でも、数学教育における記号の意味というのは、大学以上の近現代の数学を学ぶときの厳密さを、いつも必要とされるわけではありませんから、いい塩梅にごまかすというのも、もちろん教育の手段としてはあるんだと思います。しかし、教育の目的のように、それを掲げて、そしてそれに違反した子供たちに懲罰を与えるというようなスタイルで教えられると、言葉や記号に対して、繊細な感性を持っている人は、こんな馬鹿なことはやっちゃいられないと思うかもしれません。私は、もしそういう人がそういう理由で数学が嫌いになっているんだったらば、ぜひもう一度数学に復帰してもらいたい。「皆さんが好きな数学が、皆さんがきちっと勉強すれば、手に入る。そういう時代に生きているのだから。」そう申し上げたいと思います。

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