長岡亮介のよもやま話317「意味と無意味について」(4/13復活第1声)

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 実は私は今、病院という一種の監獄に入れられているのですけれど、そのために普段考えることがない、人間にとって最も根底的な問題に思いが巡るという、絶好の機会を得た気持ちもあり、ちょっとそんなところで考えたことで、皆さんにお伝えしておきたいと思うことをお話いたします。

 それは、「意味と無意味」ということに関してです。人はよく「それ、意味ないじゃん」というような言い方をして、相手の言葉や行いを否定する、あるいはそれの空虚さについて訴えるということをいたしますね。確かに、「それ、意味ないじゃん」というのは、「やる意味がない。発言する意味がない。行動する意味がない」ということだと思うんですが、もしその意味がないことを行っているんだとすれば、一体それは何なのか。「全ての行動や言葉に意味というものがなければならない」と考えているんだとすれば、その意味とは一体何なのか。こういう根本的な問題を、私達は普段の生活で考えることなく、その問題を通り過ごして生きているんだと思うんです。

 本当に考えると、「意味とは何か。意味があるとはどういうことか。」そういう根本的な問題が、「意味がない」というような軽薄な発言の背景に、前もってまず考えられていなければならない「前提的な問い」だと思うんです。そういう前提的な問いを問うこと無しに、意味があるとか意味がないとかということを軽々に論ずるということは、やはり私達としては警戒しなければならないんではないか。ということがまず第1点。

 次に、意味について、その存在を確かなものだと、もし感じているとすれば、その感じている意味とは一体何なのか。本当に自分たちの感じている意味が、自分たちが思っている「意味のある、意味であるのか」ということです。結局のところ、私達は本当に日常的にできる様々な事柄の意味ということを考えることなく、何となく了解している。自分自身も了解し、周りの人も了解しているという、いわば「意味世界」というものを、勝手に空想していて、その空想した暗黙の前提のような「意味世界」の中でぬくぬくと生きているだけではないかということ。これが重要な論点ではないかと思うんです。

 意味があるということを語るために、あるいは意味がないというふうに発言するために、「意味があるとはどういうことか」ということについて、まず問われなければならないということです。「意味」というのは、ドイツ語では“Bedeutung(べトイテム)”とか“Sinn(ズィン)”という2種類の言葉がありますが、Sinnという言葉の意味と、Bedeutungという言葉の意味、それについて語った有名な哲学者のエッセイがありますけれど、日本語では¨Uber Sinn und Bedeutung”という彼の本を、“意味と意義”とかあるいは反対に“意義と意味”と訳し分けて何とか日本語にしようとしているんですが、なかなか難しいんですね。要するに、フレーゲという哲学者が指摘したかったのは、「意味があるとか意味がないとかっていう意味だって、根本的に分けて二通りあるじゃないか」という意味の二つの側面でした。彼が挙げた例は非常に巧みな例で、例えば「明けの明星」と「宵の明星」と、これは明らかにその意味が違う。彼に言わせればSinnが違う。それに対して、明けの明星も宵の明星も金星という惑星のことでありますから、明けの明星も宵の明星が指し示している対象、Bedeutungは一致しているというのがフレーゲの基本的な論点でありました。そのように「意味」というものを、いわば概念の持つ内包的な広がりと捉えれば、フレーゲの言うところのSinnになるでしょうし、外延的な全体と捉えれば、それは彼の言うところの指示対象Bedeutungという意味になるわけです。

 しかるに、私が申し上げたかった第3の論点では、それはそのような意味があるということ、あるいは意味について語るということが、話者と聞き手の間できちっと共有されていること。それが重要なことであると思うんですが、「SinnとBedeutungが共有されているということが、意味が通じるということ」であろうかというと、私は数学的にあるいは論理学的にはそれで構わないと思うんです。けれども、人々が使っている「意味」というのは、そういうのの他に、生きる価値とか、やる価値とか、汗と涙に値する価値とか、そういう意味で、「意味」という言葉を使っているんじゃないかと思うんですね。やり甲斐というか、努力し甲斐というか、苦労のし甲斐というか、そういうものとして、意味があるとか意味がないとかっていう発言を、私達はしばしば平気でしますが、それが本当に意味のあることなのかということ。これは問題ではないかっていうのが、私が提起したい第3の問題点です。つまり、意味があるとか意味がないとかというふうに私達が気楽に発声するということ自身に、意味があるのかという問いですね。私達は、常にありとあらゆる私達の行動について、本当の意味というものを探っていかなければいけないと思うので、「意味」についての探求を一切否定するような、無意味だとか、意味がないとか、妄想であるとかというような類の、一人の発言に対する対応は、私は、あまりいささか思慮深いものであるとは言えないな、とそういうふうに感じているというお話でした。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    Thank you, God.
    Don’t give Professor Nagaoka a ticket to heaven yet!
    For he is a special man who sheds light in the dark.

    長岡先生の復活を、心から嬉しく思います。

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