長岡亮介のよもやま話316「コスパ・タイパを平気で語る若者が登場した責任を感じて」(3/31以前)

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 今日は、私が数年前に初めて耳にした、そして最近改めてそれが普通の流行になっているということを知った言葉についてお話したいと思います。それは、コストパフォーマンス、あるいは、タイムパフォーマンスというビジネスマンが使いそうな概念を、若い人々が、さらにそれを省略して、コスパとか、タイパとか、言って使っているんだそうです。タイパ、タイムパフォーマンスということのようです。そもそも、この言葉の起源は、“コストベネフィット”っていう考え方でありまして、ある労力を投下したら、あるいは努力あるいは資金でもいいんですけど、それによって得られる利益ベネフィット、利益は必ずしも経済的なものに限るわけではありません。いろんな意味で、私達が受ける恩恵、その恩恵を受けるためには、当然それに見合うコストを支払わなければならない。コストとベネフィットを両方とも考えるということが、これからの社会において大切であるということ。これが、20世紀の時代から唱えられてきたわけです。

 “コストベネフィット”という考え方を、純粋に金儲けに結びつけて、コストパフォーマンスつまり一定の資本を投下して、それによって利益として、結果がどういうふうに出せるか。パフォーマンスが良いということ、そのパフォーマンスはそのときには言ってみれば、文字通りの英語のパフォーマンスという意味ではなくて、成果という程度の意味で使われているわけですね。パフォーマンスには演技とかいろいろな意味がありうるわけですが、多様な意味というのをおそらく若い人が知らないんでしょう。結果が良ければ、そしてその良い結果ができるだけ小さなコストを実現できれば良いことだ。これは、無能な経営者でも言いそうな話でありますね。まして、若い学生さんたちが使う言葉にはふさわしくないと思うんですが、その無能な経営者と同じようなレベルの発想が若い人の間で流行っているという話を、私は数年前に初めて聞いて本当にびっくりしました。そしてしかもそれは大学で脱落した学生ではなくて、大学院まで進学している学生がそういう傾向にある。結局大学院で研究者もどきの生活を送って研究成果を出しても、その研究成果でその後の人生を生きていけるかどうか。大きな業績が上がればいいわけですが、その大きな業績を2年間くらいの修士生活の間にあげるっていうことは容易でないし、博士課程3年間やったとしてもその5年間であげられる業績っていうのはたかが知れている。ということは冷静に考えれば誰でもがわかることで、その後の努力の人生っていうのを構想しながら、学生時代・大学院生の時代を過ごすべきなんですが、それを大学院生の時代がコストパフォーマンスに合わない。それだけのコストをかけて、つまり授業料と自分の研究時間ですね。それでも、そのパフォーマンスが上がらない。その人にとってパフォーマンス上げるということは、人生の中でいくら稼ぐかっていうことなんでしょう。まるで本当に無能な経営者と同じような発想、それをこともあろうに、大学院生で自然科学系を研究しようと思っている人たちが、もっぱら口にしているっていう話を初めて聞いて、呆れ返って物が言えないと思ったんですね。そんなに学生の学力が低くなったら、もう大学院は成立しないねと、私は申しました。

 これはもう既に私が友人から聞いている話では、アメリカなんかではだいぶ前から起こっている現象でありまして、本当に一流どころの本当に優秀な学生一握りを除けば、大体は結局「研究生活をすることによって、自分の生涯賃金がいくら上がるか」ということを学生たちが計算するようになって、その計算結果、自分の給料が研究成果を上げるということによってほとんど変わらないどころか、むしろ低収入の一生が保証されてしまう。そういう現実に対して、これではやる気しない。「やはりコストパフォーマンスを考えて、自分の人生設計をしなくちゃ」と、よく言えば「現実をよく見ている。自分の才能を過大評価してない。夢から覚めて、現実を直視している。」そういう若者の姿であり、ある意味では、自分の才能というものを真に開花させるための努力というロマンティックな夢を見るということができないくらい才能から落ちこぼれている。残念ながらもう大学院に行くまでの期間の間に、自分自身の才能を開花させるという夢を失ってしまうくらい、非常につらい学生生活を送ってきた。残念な学生生活を送ってきているということの結果だと、私はアメリカの大情勢を分析しておりました。

 しかし、我が国においてもそれが対岸の火事というレベルではなくて、もう若者世界に蔓延しているというのを、本当に耳にしたのは2年ほど前でした。そしてその2年間の間にもそれがテレビドラマの中のセリフにまでなる。コスパとかタイパというような言い方。これらを今の若者たちが平気でしていて、それで恥ずかしいと思ってないという現実が迫ってきているということに、私自身も恐ろしいものを感じました。しかし、タイムパフォーマンス、人と同じだけの成果を上げるのに人より短い時間でやる方が得だ。努力することの時間を減らして、そして同じパフォーマンスを上げる方がいい。もしそういうふうに本当に考えるんだったらば、一番タイムパフォーマンスが良いのは若死にすることですよね。

 長生きするというのは、無駄な人生を、生きているわけで、人のためにもならない。ただの消費するためだけに生きている。そんな人間の生活、いわゆる長生きの人生なんて、タイムパフォーマンスという意味では、最低最悪ではないでしょうか。長生きすることを通じて、もし人生を豊かにする、あるいは人のためになるということが増えていくならば話は別ですけど、それがそうでないとすれば、こんなタイムパフォーマンスが悪いことはない。生産性を全て失った老人が生きていることにはもとより意味はないんですが、そういう老人になる前から、そもそも生きていく意味がない、つまり自分の遊びにしか自分の楽しみを見出せない、そんな人々で世の中が溢れたら、ものすごいパフォーマンスが悪いわけですね。そんな当たり前のことを、小学生でもわかることを、大学生あるいは大学院生なってもわからない。そういう若者に日本は溢れつつある。日本もそういう若者に支配されつつあるということを、テレビ番組で知って、私は非常に寒々しい思いをしたわけです。

 「もう叱って伸びる若者は、絶滅危惧種ですから」というような表現を聞くにつけても、結局叱られるということがどんなにありがたいことであるかということを、それを知っている若者がいないということですね。「私達は今のそういう若者を育てた、大人たちを育てた」ということの責任を、私自身は強く感じています。つまり、責任を痛感していると言った方がいいですね。私達は今の若者の親たちを教育する責任を負っていたんですが、その責任を正しく果たすことができなかった。本当に馬鹿な親たちの世代を作ってしまったんだと思います。その親たちに育てられた子供が、もっとその親よりも下になってしまうということは、教育における悪循環という有名なパラドックスでありまして、どんどんどんどん悪い親が悪い子供を作っていく。あるいは悪い先生が悪い生徒を作っていく。教育の悪循環。本来、教育によって人間性が豊かになる。それが教育の筈なんですが、教育が実は逆に作用してしまうという、本当に現代の悲しいパラドックスの現実を目の当たりにしたという気がいたします。

 皆さんも私のこの話を聞いて、なんだこの野郎っていうふうに思う人がいたら反論してもらいたいし、もしそういう若者に対してできることが、私が考えていること以上にやってやれることがあるんじゃないか、ということがあるならば、ぜひ教えてほしい。私も皆さんの声に謙虚に耳を傾けて、そういう若者を救済するために、本当の意味で救済するために、残りの人生を捧げていきたい。真剣に考えております。

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