長岡亮介のよもやま話314「小さくなった地球を実感する小学生のような話」(3/31以前)

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 今日はちょっと砕けた話題で、国際的なマーケットというのを、私達の日常生活で感じ取るという話題を取り上げたいと思います。昔、文明開化の頃の日本人というのは、海外に行って帰ってくると、ひどく偉そうなふりをしました。外国のものに対して“舶来品”という言葉を使って、それが大変高級なものであるということを、威張り散らして見せびらかした。それは見せびらかされた方のひがみも入っているかもしれませんけれど、そのような“舶来品”というものに対する、日本人の庶民の憧れのような気持ち、その上に乗っかって、外国から帰ってきた人間が偉そうにしていた時代があります。それは西欧列強っていうのが日本と比べると、遥かに文化的なレベルが高い。そういうところはありとあらゆるところで見せつけられるわけですから、さぞそうであったに違いないっていうと私は思うんです。最近、「自分の兄弟がチリの大学で勉強している」という投稿があり、私はチリという国は実際に行ったことはない。そこの研究者と話したことはいっぱいありますけれども、チリに実際に自分が言ったことがないということもあって、その文化、古代インカ帝国以来の文化というんでしょうか。インカ帝国というふうに簡単にまとめてはいけないのかもしれません。アステカ文化っていうような言い方の方がいいのかもしれません。歴史的に精密な表現がここでは問題でないので、舶来品文化というものに対して、それと対置する意味で、私は今日のグローバルな世界を感ずる上で、チリという国に対してすごく親しみを感じたということ。そのエピソードをお話したいと思います。

 いろいろな関係で、チリの留学生と交わったこともあり、チリ国立大学の旗も私は持っているんですけど、そういうことは全く別として、昨年の春だったと思いますが、安い大衆的なスーパーマーケットへ私はよく行くんですけれど、そこに春にブドウが売っていた。美味しそうなんですね、とても。「種無し」って書いてあって、種無しブドウっていうのは私にとって憧れの的というか、楽して食べられますから、子供の頃のように、デラウェアなんという種類で小さな粒、大変美味しいんですけど、小さな粒の中にいちいち種が入っているのが鬱陶しい。そういう思いがあったので、私にとっては種無しの大きなブドウで、しかも春に出ている。私はブドウは秋の果物だっていう認識があったんですが、春に出ている。びっくりして、おそるおそる買ってみました。それも突拍子もない値段ではないんですね。むしろ安いくらい。そして食べてあまりの美味しさにびっくりしました。

 よく考えてみると、チリ産とかニュージーランド産とか、TPPという貿易の枠組みのおかげでありますが、「南半球の秋の果実が、北半球では春に食べることができる」という小学生でもわかっていることを、いい年取った私が改めて実感し、「そうだ、これは南半球の人にとって秋の実りなんだ」というふうに思いました。その秋の実りのおすそ分けに私は与かったわけでありますが、それまではチリとかニュージーランドとかのブドウは、ワインを通して味わうことができただけだったんですけど、新鮮な生のブドウを味わうことができたというのは、昨年の大発見の一つでありました。

 世界が小さくなっているという言い方はよくしますが、飛行機で往復が速くなったということで、そういうことが言われるわけですが、そうではなくて、むしろ例えばそういう食料の移動で、季節のものが反対の季節のものを入手するっていう形で、新しい季節感を感じることができるようになったというお話です。日本も次第に春めいてまいります。本当に日1日と太陽の昇る位置、あるいは沈む位置が変わっていく。そういう姿を見ることは季節の変化を感じて楽しいことでありますけれども、と同時に、春が近づいてきたということは、南半球では秋が近づいてきたということを意味するに違いないと思い、チリの大学に学んでいる日本人の方の秋の恵みの喜びを、日本にいる私達も感じていますよというお話をして、お伝えしたいと思いました。もちろん世界の経済、社会、政治の問題は、こんなブドウで浮かれているというのはおめでたいっていうふうに言われてしまうくらい深刻な問題がいっぱいあるわけですけども、私達は時々は、本当に馬鹿な、本当に何ていうか、いっかいの大衆として、庶民として、あるいは生きる人間の一人として、季節の恵み、それをとんでもない地球の裏側を考慮することによって、時間の経過、それを一気に飛び越えて、半年先を味わうことができる。そのことについてちょっとお話してみたいと思いました。

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