長岡亮介のよもやま話313「近頃の教員志望者に」(3/31以前)

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 最近、教員志望者が多いけれど実際に教員になった人がやめてしまう例が少なくない、という話を聞いて感じたことについてお話したいと思います。私が学生時代、あるいはそれよりもっと前、戦後日本が敗戦の混乱の中から、再び立ち上がった時代。多くのところで、人材不足が嘆かれて、優秀な人たちが、引っ張りだこであった。就職状況っていうことで言えば、今とは比較にならないくらい良い状況がありました。当時は中学生で学校を辞めて、中卒で働くという人たちもいました。中卒の労働者は賃金が安いということでもって、金の卵ともてはやされたりしていました。確かに中学しか卒業していないと、自然科学に関する、あるいは社会科学に関する、あるいは人文科学に関する最小限の基礎的な教養さえ危ないという面もあるわけで、数学でいえば、方程式は、解けるかもしれないけども、三角関数は知らないとか、英語で言えば、簡単な文章は言えるけれども、仮定法の混じった文章は読解できないとか、そういうような勉強の少なさに伴う限界、それをもっていたにしても、その人たちを安い賃金で働かせるっていうのはひどい話ですよね。そういう安い賃金で働く人が少ないということで、地方から夜行列車で上京してくる集団就職のような中学卒業生たちを金の卵、そう呼んだ時代がありました。ずうずうしい話ですよね。そういう中から、大変に職人として優秀な人が出ていった。しかし職人だった人たちは、自分たちが高卒あるいは大卒の資格を持っている人たちに比べていかに安い賃金で働かされたかということを、自分の人生を思って悔しく思っていたに違いありません。誠に不当な差別という他ありません。これは日本の恥ずべき伝統であるというふうに思いますけれども、実は、中学卒業をして、十分な教養が身に付いてないといっても、高校卒業しても、大学卒業してもそれで十分な教養が身についているかというと、そんなことは決してないということを考えれば、中卒の人たちを取り上げて、その人たちの教養が足りないということを非難すること自身がナンセンスなことであったと思います。

 しかし、中卒で差別された人たちが親になったときに、自分の子供にはこの屈辱を味あわせたくない。そういう気持ちを深く持ったことは想像に難くありません。そして実際にそういうような、ご両親が大学を卒業してないにもかかわらず、自分の子供たちを大学に、あるいは大学院に進ませたい。そういうふうに思う人々が日本の中にたくさん現れてきたわけであります。いわゆる、高学歴社会の到来であります。今はですね、大学教授の数が、昔の旧制中学の時代の教員の数よりも多いというくらい大学が乱立しているわけです。そんな乱立した高等教育の状況の中で、学歴を身につけるということが、いかに馬鹿馬鹿しいことであるか。本当は統計学的に考えてみれば、あるいは経済学的に考えてみれば、ほとんど明らかであると私は思うんですけれど。ちなみに私の知人友人の中で、私の収入をはるかに上回る、年間数億円を稼ぎ出す、そういう人たちは、おしなべて中卒ですね。つまり高等学校なんかに行っていては、とてもじゃないけど、自分の技能を磨けない。本当の意味で先端的なプロフェッショナルとして生きていっている人たち、その私の知人で言えばその 100 %が中卒です。他方、私の友人で、大卒あるいは大学院卒の学歴を持っていながら、実は大した大学を出ているというわけではない人たちに収入の点で全く及んでいないという人は、これも夥しく存在するということを私自身の経験から知っています。

 日本はそういう意味で、このように高学歴社会になりましたけど、高学歴の人が高学力を持っているわけではない、という極めて残念な状況がずっと続いてきたわけです。この 30 年くらいが、特にその状況が悲惨になっているんだと思うんですね。そういう中にあって、教員になろうとする人々が、今多いというのはひょっとすると、就職状況が戦後の混乱期と比べると、悪くなったからじゃないか。つまり、その戦後には先生になる人がいなくて、「先生にでもなるか」とか「先生にしかなれない」という人が教員になったので、「でもしか教師」そういうような言葉が流行りました。失礼な表現ですよね。私は、自分が小学生時代に習った恩師のことを私は父や母よりも深く深く尊敬していたので、そういう表現を聞くと、大人に向かって猛然と抗議したものであります。先生というのは、聖職である。聖職っていうのは聖人の聖という字ですね。聖なるかな、聖なるかな、聖人(しょうにん)っていうふうに日本では呼ぶこともあります。先生という職業は僧侶と同じように、聖職だと思うんですね。医者も同じように聖職なんだと思うんです。だからこそ、聖職につく人がその聖職の仕事を商売のネタとして広告宣伝するということは、恥ずかしいことである、と私は感じてきました。

 ちょっと話がそれしたけども、そういう聖職というのは、言ってみれば割に合わない仕事なわけですね。自分の実力からしても見合わない社会的な尊敬しか得られない。そういう状況の中で先生になっていく人っていうのは、本当に尊い人生を選択しているんだと思います。医師になる人もそうですね。本当に病原菌で汚染された、本当に最高に危険な職場で、見ず知らずの患者のために自分の命を投げ打って、治療をする。本当に尊い仕事がありますね。そういう聖職に就く希望を持っている人が多いということを聞くと、日本人も捨てたものではないなっていうふうに昔は思っていましたけれど、最近それがそうでもないかもしれないと思うようになってきたんですね。つまり、「先生という職業が本当に難しくて、本当に割に合わない。しかし、だけども、次世代のために自分がやらなければならないと思う。だからこそ、先生になりたい」という職業ではなくて、「結構楽で、結構収入も高くて、生徒の前では 10 年一律同じようなことをやっていればそれで罷り通るから。」こういうような安直な発想で先生を志望している人が少なくないらしいんですね。中には、部活の顧問になって、子供たちとコミュニケーションを取りたい、そういうことを平然と言う人がいる。そうしたら、スポーツのコーチになった方がよっぽどいいんじゃないか。あるいは、絵描きの教室の先生になった方がよっぽどいいんじゃないか。そういうふうに思いますけれど。

 学校の先生で、部活の顧問をやりたいからというのが志望動機の一つであるというのを聞くと、この人は勉強というものをどう考えているんだろうか。あるいは若者の育っていく人生というものに対して、どのような責任を持つと考えているのか、と不安になります。学校の先生たちは、教えるのは中学校や高等学校であれば一つの科目なんですね。例えば数学。しかし、中学生が勉強する数学、3 年間で勉強する数学、ほんのわずかな量なんです。そのほんのわずかな量を 10 年 も20 年も教えてきてベテランになるということは、本当は恥ずかしいことですよね。どの科目でも同じことが言えます。ですから、学校の先生たちは、子供たちの勉強内容について「自分はその教科の専門である」というのを語ったら本当はおしまいだと思うんです。

 しかしながら、教科ごとに、その科目特有の、多くの子供たちが、間違いを犯すあるいは誤解してしまうところのポイントというのはある。また、近代科学の発展は著しいものがありますから、その近代科学の発展を視野において、「今何を教えるべきか」ということを、常に考えるということであるとすれば、現代科学の勉強、自然科学に限らず社会科学にしても人文科学てもそういう勉強が不可欠ですよね。歴史であれば、1 年ごとに新しい時代が加わっていくわけですから。それは大変なもんです。歴史的な資料はヒストリーという言葉がストーリーという言葉を含んでいることからわかるように、文字で書かれた記録、それをもとにして、再構成する。それはヒストリーでありますから、古いものはあんまりないんですね。しかし、ヒストリー以前の考古学という分野も最近は非常に発展し著しい分野でありまして、地球科学というものと連携して、私達の地球の歴史というものが、詳細にわかりつつあります。そういうことまで歴史の先生が勉強しなければならないとすれば、大変な勉強が必要になりますね。

 数学に関してもそうでありまして、実は学校数学と言われているものは、教科書で決まりきった範囲を教えているだけなんですけれど、それでも時代の趨勢に合わせて、教える内容を減らしたり、増やしたりしているわけです。教える内容を減らすと、けしからんと言って怒る人がいるんですが、教える内容を増やすときに、けしからんという言葉を語る人は滅多にいない。実は学校現場の先生方が、教える内容が増えると、そこの部分を教えることを拒否するという形で、抵抗するわけですね。これはかつての馬鹿な総理大臣の言い方を真似すれば、抵抗勢力ってやつですね。学習すべき内容というのは時代に応じて変化するっていうことはやむを得ない、そしてそれは必要な事である。であるとすれば、先生たちが自分が学校の生徒だったときに習わなかったこと。それを教えることができて当たり前なわけです。それは大学で勉強しているはずのことであるので、教えることができて当然なんです。しかし、今の大学では、先生になる人に対して、厳しい数学教育を課しているわけでは必ずしもなくて、大学によっては、学校の先生になるのであれば、数学はわからなくていいから、卒業させてやろう、こういうような学校まであると聞きますから。また文部科学省の局長が通達で、学校の先生になるための学力試験において、人物を見ることが大切であって、学力を見るのは一次試験だけにすべきであると。そして一次試験の結果は 二次試験の合否に影響してはならない、こういう通達まで出したそうでありますから、学校の先生たちが学力に関して自信を持ってない人が存在するということは、やむを得ないことなのかもしれませんが、本来許されないことなんだと思います。

 先ほど数学のように永遠に変わらないと思われるような科目においてさえ、入れ替わりがあるということの一例として、今、多くの人々から注目を浴びている AI であるとか、データサイエンスであるとかというものの基礎にある統計の考え方。あるいはビッグデータを取り扱うときの数理について、やがて高等学校でもより本格的に教えなければならない時代が来ている。既に諸外国ではそのような教育がなされているわけでありますから、日本でもそうだと言えるんですが、そういうことが日本では残念ながらできていない。数学が抵抗勢力になっている。他の科目に関しても同様であります。現場の先生方は、物理専門とか化学専門とか英語専門とかいろいろな専門を語りながら、実は専門家として、通用しない抵抗勢力になっている。とても悲しい現実です。先生方は、教科の専門というのはあり得ない。それほど、学校数学あるいは学校教科の内容は貧弱なわけです。子供たちが数年でマスターできることを何十年もかけてやっているということですから、そんなものは専門として語るに値しない。

 しかしながら、唯一これは重要な専門性だっていうふうに思うのは、子供たちはどういうところで理解できないのかということを、先生方が非常に多くの具体例を通じて知っていて、その具体例を通じて多くの体験があるからこそ、新しい無理解、新しい誤解に出会ったときに、「なるほどそういう考え方があるんだね。しかしそれはちょっと違うんだよ」っていうふうに子供たちを指導してやることができる、ということではないかと思うんです。先生は教え方のプロであるという言い方は、よく人々が好んで使う言い方ですが、教え方のプロというのは存在するはずもないと私は思います。1 人 1 人に学び方の違いがあるように、1 人 1 人の先生に教え方の流儀があっていいわけです。その教え方の上手下手というのについてあまりにも気楽に語る人が多すぎるのは、大変残念なことだと私は思っています。というわけで、私は先生を目指す人は、自分が一番良い教え方ができるからということを自慢にするというのではなく、「自分が、初めて生徒たちの、誰もどの先生も知らなかった誤解を発見するという楽しみに燃えている。」そういうふうになってほしいと願っています。

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