長岡亮介のよもやま話306「戦争の犠牲者は常に弱いものという現実から目を背けてはいけない」

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 今回は、次第にきな臭さを増してきている世界情勢を受けて、「戦争と文明」ということについてお話したいと思います。昔から人々が集う場所、特に良い獲物をとることができる場所、あるいは良い耕作物を作ることができるような肥沃な土地、それは全ての人が欲しいものでありましたから、しばしば人と人との、あるいは人が作る村と村との、あるいは社会と社会との争いの元になってきました。人間というのは、そのようにより良い生活を求めて、むしろもっと正確に言えば、より多くの食べ物を求めて、より美味しい食べ物を求めて、争ってきた。そういう歴史が長く続いてきたんだと思います。

 人類の歴史は、ある意味で争いごとの歴史であった、といってもいいくらいではないかと思います。そして争いと争いの間にできる束の間の平和、それを人々は謳歌していたわけでありますけれども、19世紀までの世の中を考えますと、ほとんどの時間が戦争で塗りたくられている。私達が本当に平和な時代を長く味わってきたというのは、むしろ歴史の中で例外的でしかない。そういう例外的な時間を、昔はPax Romanaローマの平和とか、Pax Americanaアメリカの平和、あるいは日本の場合でいえばPax Tokugawana徳川の平和ですね。そんなふうに言ってきました。言ってみれば、絶対的な権力が成立すると、その権力の支配する範囲においては平和がもたらされているということですが、その権力の基盤が危うくなると、あるいはその権力に隣接する別の権力ができると、その間に争いが生じてきたわけです。ヨーロッパの歴史を見ると、本当に戦争の歴史ですね。そして、そのような私達人間の持っているものすごく情けない争いごとの歴史、それがもっと決定的に情けなくなったのはいつからと言えば、それは第1世界大戦、あるいは第2世界大戦といった規模の大きな戦争になったとき、とりわけ第2世界大戦のように、兵士でない一般の国民が戦争の最大の犠牲者になったとき、と言っていいのではないかと思います。

 要するに、飛行機でもって爆弾を上から見境なく撒く。とんでもなく卑怯な戦争方法だと思いますが、それが一般化してしまった。兵器の発達、技術の発達によって、戦争で使われる道具が、ものすごく大きな非人間性を急激に増してしまったということですね。日本で言えば、昔の決闘は、二人の武士が「やあーやあー、自分はこういうものである。正々堂々と戦うではないか」というように、お互いに宣言をして一騎打ちをする。言ってみれば、プロフェッショナルな軍人同士の争いであったわけですね。それが、鉄砲などが導入されて、集団戦というのが中心になってくると、本当に戦う前に戦争の勝負がつく。そういうような戦争の形になってきて、これが、ノーベルの発明したダイナマイトによる圧倒的な火力の、殺傷力を持つ武器として供給されるに及んで、戦争も悲惨さの一気に拡大するわけですけれども、その拡大した武器を空からばらまく。これは決定的な段階に入ったと思いますが、それによってもう軍人と一般人の区別がない。「一般人を殺すことが、戦争を終わらせための重要な手段である」、というような理屈さえ出てきた。私達はまさに広島・長崎において、ものすごい甚大な攻撃を受け、その甚大な被害をこうむったわけです。しかし、それ以前に東京大空襲を含め日本中の空襲で全く戦争と縁がなかった人々、口は鬼畜米英などという馬鹿なことを叫んでいたかもしれない、そういう人まで含めて焼き殺されるというとんでもない戦争になってしまったわけですね。

 近年の戦争はもう少し標的が狭められているので、よく「戦術核」というような言い方で、兵器が巨大化したことによって、むしろ使われる兵器自身が小さくなる。それによって、「核戦力の抑止力というのが大きくなるんだ」というような議論もありましたけれども、核兵器を使うことの問題点については、もう十分に多くの人がわかっている。そういう中にあって、核兵器は使わないけれども、それと同じくらい悲惨な戦争が現実に毎日行われているわけですね。多くの、本当に関係ない人々が戦争に巻き込まれて、亡くなっている。この戦争そのものの持っている大きな悪逆非道さ、そういうんでしょうか、それを私達は真剣に見つめなければならない。私達は今、戦争をすると、その最も関係ない無関係な人々から殺されていくということですね。アメリカの軍事専門家の発表によると、ガザ地区のハマスの戦闘能力で、イスラエルがこれだけ大きな戦争を仕掛けるなら、それによって減った戦闘員は20%である。そういう評価があるくらい、つまり、ほとんどの人ほとんどの犠牲者は、ハマスにも軍隊にも関係しない普通の生活をしていた人々であるということですね。私達はともすると、「軍事的なパワーオブバランスがアジアにおいてもう崩れつつある」というような、一部の人たちの流す報道によって、日本の安全保障という問題に、何もわかってない人々がつい巻き込まれていってしまう。そして、そのような悲惨さから自分たちを守ってくれる安全保障という名の武装をすることが大切だというふうに考えるのですね。本当に戦争になったときには、巻き込まれて、ものすごく大きな悲惨のどん底につき落とされるのは、戦争と関係ない一般庶民である。そういうふうな戦争が起こる、そういう時代になってしまった。結局のところ、全く無駄な、人を殺すだけの兵器、あるいは文明を、文化を破壊するだけの兵器、それを作る人だけが儲かっていて、そして、何にも知らない人たちはその犠牲になっているんだ。そういう日々の現実を私達は知らなければいけないと思うんですね。

 本当に敵を標的とした、あるいは軍事目的だけを標的にした攻撃があるかのごとく宣伝されていますけれども、「戦争というのはそういうものではない」という、リアリズムに立たせればならないという意見には、私は大賛成です。まさに本当の意味でのリアリズム。そこで人々が、全く戦争と関係なく生きてきた人々の生活が一変する、あるいは生活がなくなる。これが戦争の偽らざる現実であるということです。そして、その戦争というものの背景には、「人々が自分たちの食料を確保する。あるいは自分たちの領土を拡張する。自分たちが暖かい心地よい生活をする」という、平凡であるけれども実に自分勝手な欲求、それがあるんだ。そのことを私達は決して忘れてはいけないと思うんですね。他人の問題ではない、私達自身の問題であるということ、それを忘れてはいけないと思うんです。

 とりわけ日本人のように、ついこの間まで鬼畜米英などと叫んでいたおじさんおばさんたちが、いきなりアメリカ文化、民主主義大賛成というふうに切り替えていった。そういう歴史は、本当にわずか70年くらい前の話に過ぎない。もう少し正確に言えば、もうちょっと長いかもしれませんけど、そんなにえらく昔のことではない。私達はそういう国民であるということも、私達は忘れてはいけないと思うんですね。リアリズムの視点というのは、私は極めて大事だ。この醜い側面から私達は目を背けてはいけないということ。「これを、私達自身の問題として考えることが大切だ」ということを、今日のお話の中心の主題としたいと思いました。

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