長岡亮介のよもやま話305「抗生剤耐性菌の登場と新啓蒙主義の必要性について」

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 啓蒙主義というのが、自分自身が知識において暗いということを無視して、他人に対して知識の明るさを強調するというおこがましさを持っているがゆえに、啓蒙活動において、言い換えれば、教育活動において非常に犯してはならない過ちを犯しうるという話をしたのですけれども、今回は、啓蒙主義の持っている非常に大切な側面、啓蒙主義を支えてきた啓蒙主義者たちの動機というのでしょうか、その強い思いを支えた合理的な根拠について考えてみたいと思います。

 啓蒙主義というと私はともかく、ひどい思想的な立場の代表として語ってしまうのですが、実は啓蒙主義というのも本当は、そういう安っぽいものでは必ずしもない、という啓蒙主義の持つ肯定的な側面も忘れてはいけないと思い、この話を補うことにいたしました。

 最近は情報に溢れていて、私はインターネットのWebサーフィンというのはあまり好きではないのでいたしませんが、ちょっと見てみると、もう間違った情報だらけというか、いい加減な情報だらけという感じがします。例えば今日は抗生物質、あるいはそれから作られるところの製薬、抗生剤とか、そういうものについてお話したいんですけれど、今インターネット上で見ると、いろいろな街の小さな病院が、「抗生物質は効かないことがいくらでもありますよ。その適用は決してよくありませんよ。何にでも効くわけではありません。例えばウイルス性の疾患に関しては効きません」こういうような常識的な、誰でも知っている程度の情報を、さも専門家のように、専門家を装って、その人よりも遥かに下に見ている、一般の患者さんたち、そういう大衆は、何も医療のことがわかってない、基礎医学のことなんかわかっているわけがないという調子で、解説を書いています。

 しかし私は、そのドクターたち、臨床医たちに言いたいのですが、「あなたたちは、本当に抗生物質についてわかっているのですか。」「薬理についてあなたはどのような成績を取ったのですか。」そういうふうに聞きたいですね。医学においては、臨床医になる人にとっては生理学とか、薬理学とか、病理学とか、理がつくものはみんな苦手、単位が取れればいいというふうに、丸暗記で勉強しているというドクターが多いのだと思います。そういう人たちが、自分たちの病院の宣伝の一環として、また大衆啓蒙活動として、「抗生剤の投与、これをやるのは必ずしもよくありませんよ。」こういう情報を垂れ流している。

 実は、日本は非常に悲しい歴史がありまして、「病院に行くと、抗生物質っていう魔法の薬のようなものを出してくれる。出してくれる先生は良い先生で、出してくれない先生は悪い先生だ。」こういうことを言う患者がいたのは事実です。そして、そういう馬鹿な患者に対して抗生剤をたっぷり出してくれる、いい先生は薬も売れるわけですからこんなにいいことはない、というビジネスモデルが成立していた。日本は世界の中でも、アメリカと並んで抗生剤をたくさん使う国だと思いますが、そういう時代がずっと続いてきた。

  最近、日本は、この方向が言ってみれば180度転換したという形で、抗生剤の使用に関して非常にブレーキがかかっています。強すぎるブレーキというふうに見ることもできなくはないのですが、それくらい抗生剤の使用過多というのは、問題を含んでいる。その問題の一番大きなものは、いわゆるレジスタンスを持っていること。レジスタンス、つまり耐性っていうふうに日本で訳されますね。耐性を持っている菌が出てくる。非常に生物界は不思議でありまして、抗生剤のようなものができるとそれに対して、病原菌がレジスタンスを持つ、耐性を持つということなのです。生命の持つこの不思議を解明することは、容易でない問題でありますが、今、私達の科学はそのようなものについて肉薄することができるところまできています。幸い、病原菌はウイルスに比べると大きいので、その詳細を調べるということも、ウイルスほどには難しくない。難しくないといってもメカニズムは遥かに複雑ですから、その複雑なメカニズムを一つずつ解明するということができつつあると思いますが、そのメカニズムを支えるまた小さなメカニズムがいっぱいあるに違いないわけで、これはウイルス学と同じような難しさが根底にはあるに違いありません。ですから、薬の問題を1個取ってみても、私達は自然に対して、立ち向かっていますけど、自然の持つものすごく強い生命力というか、巧みな生存戦略というか、生物学者の好きそうな言葉を使えばですね、そういうものに対して私達は、全体を理解するということができる程にはわかっていない。本当に深い闇がその世界に広がっている。その闇に恐れ慄いているというのが、今科学の最先端で闘っている研究者たちの正にその姿なのだと思いますが、そういう研究によって、多くのことがわかりつつある。

 しかし、それによって、耐性を身につけた病原菌をやっつけるという方法も解決に向かっての対策というものを捉えるに違いないとは期待するものの、実は、ここには非常に厄介な問題があって、基本的にはペニシリン以来、これで私達は病気から解放されるというふうに、一般の人々が誤解した間違い、それは大きな訂正を要求される抗生剤に対して、レジスタンスを持つ病原菌が、どんどん出てくるということで、新しい抗生剤を開発しようとすると、それに膨大な時間がかかる。当然のことながら膨大な経費がかかる。そして、ようやく薬として世に出て、今までの投資が回収できるかと思うと、数年経つと、不思議なことに、病原菌の中で耐性を持ったしかも耐性をDNAの中にその情報を持った病原菌が出現するという非常に大きな問題があり、大手の製薬会社は、一般に株式会社であり、株式会社というのは株主の利益のために働くというのが基本でありますから、大型の投資をして、その投資を回収することができないという経営者がいたとすれば、株主からの訴訟によって職を奪われる、あるいは職を追われるという事態があり、もう大手の製薬会社は、抗生剤の開発という大きなプロジェクトは率いていません。なぜならば、大手の製薬会社の経営者は、自分たちが定年になるまであるいは任期になるまで、会社の経済成績がよければそれでいいわけでありまして、人類のこと。全体のことを考えているというわけではありません。

 WHOが、既に警告を出していますが、人間の死因の大きな役割といいますか、要因というのでしょうかは、おそらく、抗生剤に対して耐性を持つ病原菌の出現、そして人間の肥満もう一つは何でしたかね。大きな要因に地球温暖化っていうのが挙げられたかもしれません。三つは人間が原因を作った人類を滅ぼす大きな三つの要因であるという有名な話がありますけれど、それくらい耐性菌は恐ろしいものであるわけです。

 一世を風靡したSARS-CoV-2呼吸器の突発性の深刻な症状を引き起こすウイルス、日本では新型コロナウイルスという言い方がなされてきました。今はおそらく政治の問題で、コロナウイルスの問題は解決したというふうに思っている日本人も多いと思いますが、実は、コロナウイルスは今も加速しながら感染を増やしています。幸いなことに、それが致死性の非常に深刻な事態を急激にもたらすという状況ではなくなっていることは事実ですが、インフルエンザの爆発と同じくらいコロナウイルスの感染もまだ爆発状態にあるのだと私は思っています。ウイルスに関しても、ものすごく難しい問題がたくさんあるということを私達は最先端の研究によってわかってきているわけですが。そのような人間の生存を脅かすような、ウイルスであるとか、あるいは病原菌というものに対して、私達はそれを地道な研究を通してしか打開することができない、ということを深刻に知るべきなのですが、最近の若い人々は、その地道な研究の大切さ、そして面白さ、それがわからないんですね。コストパフォーマンスとか、タイムパフォーマンスというような馬鹿げた本当に表層の経済学的原理、こんなものは経済学ともいえないただの本当に子供の損得の論理にすぎないと思いますが、こんなもので動いている。私は、人類の滅亡の証というのは、実は病原菌の出現とかウイルスの出現ではなくて、人間そのものが、重要な生物学的な存在でなくなる兆候ではないかとそういうふうに時々半分は冗談で考えるようになりました。若い世代が、あまりにも思考が単純である。本当に大切なことというのを考えることができなくなっている。私はよくそういうのを小さな生物になぞらえて、最近の若い諸君はまるでプラナリアみたいなもんだって、そんなふうに言っていましたけれど。プラダリアなんかはまだずいぶん高等な生物で、今言っている病原菌とかウイルスとかっていうのは、もっともっと遥かに小さな、ウイルスにいたっては生物と言えるかどうかもわからないような、ものすごい小さな遺伝子の情報みたいなものにすぎないわけですね。そういうものが私達の生存を脅かすというところになってきても、依然として基礎研究の大切さよりは、当面の金儲けの方に目が向くというのは、よほど想像力を欠いているのか、想像力というのはイマジネーションですね。そして、クリエイティビティの意味での創造に対する興味、尊敬、憧れ、そういうものを失っているのかということだと思うんです。もし本当に若い人がそういうふうになってしまったらおしまいだっていうふうに思うんですが、それを阻止するのが、そして人間本来の力、それに目覚めさせるのが教育であり、教育こそ私達が未来を展望する前提条件だと思うんですが、その教育が、ボロボロに崩壊しつつあるというのが、私の見ている日本の暗い側面です。

 しかしながら、その教育も決して捨てたもんではない。教育もちょっとでも良い教育をすると、特に若い人間、青年と言われる人たち、あるいは少年少女と言われる人たちは劇的に成長する、ということに私は、大きな希望を繋いでおります。

 今回は、啓蒙主義という言葉の悪さについて前に語りましたが、その良さもあるということをお話したのですが、それはどういうことかというと、要するに、抗生物質みたいなものに安易に頼る医者もそうだったし、患者もそうだったわけですが、それがそうでないっていうことを知るためには、抗生剤とはそもそも何なのか、抗生物質を探し出すということにどういうような苦労があり、それを薬にするために、どれほどの工程がかかるのか、そしてそれが実は、経済的には全くペイしない、そういう事業であり、従って大手の製薬会社が、それから手を引いて、もうずっと長い間経っている。我々は抗生物質を開発しない期間が、もう私のちょっと薄れかけている記憶では、もう三、四十年新しい抗生剤の研究っていうのは、画期的なものはなされていないのではないかと思います。

 しかし、もしそういう状況が続いたならば、私達のこの後、10年先、20年先あるいは30年先、ウイルスの問題は急激に爆発するという怖さがありますが、病原菌の問題はもっとじわじわとくる恐ろしさがある。そしてそのじわじわとくる恐ろしさについて人々に理解させなければならないという啓蒙主義的精神、これはあっていいものじゃないかと思うのですね。多くの人は抗生剤についてほとんど何も知らされてない。そして、今は、高等教育を受けても、言ってみれば、専門家、プロフェッショナルになるということだけが目的で、自分のプロフェッション、職業と結びつかないような教養は、ほとんど要求されない。言ってみれば、本当に大学を卒業しても、ただの大衆の1人、そういう状況になっていることの危険、これを考えると実は現代科学に関する基礎教養というのは、本当に高等教育を受けた人の全員に持ってほしい、そういうふうに私自身も願うんですね。こういう意味での健全な啓蒙主義、私達はさもないと、近代科学の大進歩、大進撃にも関わらず、実は巨大なところに無知の闇が広がっているということ、それに気付かない、驕り高ぶってしまう。コストパフォーマンスとかタイムパフォーマンスとかっていう馬鹿げた表現が流行るということは、私から見ると、この無知の蔓延の現象だと思うわけです。

 ちょっと悲観的な結論になりかけていますけれど、私自身は、今回の話は、時には啓蒙主義者の明るさを持って未来の世代に対して、きちっとした情報を、本当に役に立つ情報を体系的に発信しようよと、役に立つ情報というのは決して抗生物質の分類をするとか、そんなことではないんですね。何かというと、単なる知識ではなくて、その知識を支える知識、そういうものを人々に、きちっと整理して伝承していかなければいけない。私はそれを新啓蒙主義、その新資本主義とか新自由主義とかっていうアメリカで流行った言葉、これをちょっとしたパロディとして言っているんですがネオエンライトメント新啓蒙主義、そういうふうに呼ぼうかと思っています。希望に満ちた啓蒙主義がこれからますます求められてくるのではないかということで今日の話を締めくくりたいと思います。

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