長岡亮介のよもやま話302「大胆に教育勅語を読んでの感想」

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 さらに今日は趣向を変えて、私がとんでもないものを読んで、新しいインスピレーションを得たという話をさせてください。それは、私達日本人が今、教育という問題に対して、あまり重要な関心時を払っていないように私は感じているんです。小学校あるいは中学校、高等学校の教育こそ、本当の意味での未来を展望するための一番大切な、大人がやるべき仕事ではないかと思うのです。例えば高等学校の勉強はといえば、大学に入ってそれぞれの専門にわかれていってしまうための、言ってみれば最後の基盤的な教養教育なんだと思いますが、その教養を身につけるということを、あるいは大人のロジックで言えば、その教養を身につけさせるという義務を早々に放棄して、「あんたは文系だから、私立文系だから、だから数学の勉強はやめていいよ」というような類の指導が、世の中で大手を振ってまかり通っているということに、私はものすごくがっかりし、そしてそういうふうにして捨てられていく子供たちのことを考えると、やはり腹立たしく思うわけです。子供の持っている可能性というものについて、もっと真剣に考えてほしいと思うからなんですね。

 なんで、わずか18歳とか17歳とか16歳とかそんな本当に年端もいかない子供たちに対して、「お前はこの程度の人間である」というふうに烙印を押す。その烙印を押す代わりに、「今から試験科目を絞れば、他の人より有利だぞ」というような指導をするというのは、オリンピックで選手で言えばドーピングをやるようなもので、本当に正しいアスリートを養成するということは全く違うんではないかと思うんですね。例えば私立文系というコースに進むのだとすれば、「数学なんか勉強しなくていい。物理なんか勉強しなくていい。とりわけ社会科とかなんか暗記科目で点を取ることが大事だ」というふうに指導することになるんだと思いますが、そのときに行われている社会科の暗記科目の内容っていうのは、果たしてその人の一生にわたってその人の力となり糧となる、そういうような知識なんでしょうか。試験が終わったらすっかり忘れてしまう。全く無意味な無駄な時間の過ごし方を、一番人生の大切な時期に、その子供たちに対して強制しているということになるのではないでしょうか。その子たちが仮に大学入試というもので、仮にですよ、成功した。一瞬成功したかに見えたとしても、それは人生の大きな敗北というものが、その直後に待っている。うたかたの勝利でしかない。その人が生涯に渡って豊かに生きるための道を閉ざしてしまっている。まして、その今子供である生徒たち、その子供たちのことまで考えたならば、もう本当に「そういう親を作るということ自身が、次の世代に対してとんでもない過ちを犯す」ということに先生たちはうち震えることがないのか、ということを私は問いたい。やはり、その子供の生涯に渡って、そしてその子供が育てるであろう子供の生涯に渡って、そしてその子供の子供の子供が過ごす生涯に渡って、いわば永遠に責任をそういう重要な仕事をしてるということに考えが及ばないというのは、真に情けないことであると思うんです。

私達は、本当にますます困難な情勢を極めるこの世界において、困難な状況に置かれている中で、その困難に打ち勝っていく未来の世代に、力強さを少しでも与えるって、というふうに努力する。しなければならない。そういう使命を負っていると思うんですね。学校の教育というのは、その場で終わりではなくて、その後に続くものなんですね。専門家として生きる、あるいは専門的な知識を磨く、あるいは世界の知識の最前線に立つというような仕事は、大学あるいは大学院あるいはその後に続いて出てくる仕事でありますけれども、その仕事をいわば世界に負けない、他の人に負けないような水準で遂行するためには、本当の意味での力、人間としての力というのがとても必要になるわけで、それは大学以降で身につける専門的な知識で何とかなるというものではない。むしろ、人間の総合的な魅力、そういうふうに語った方が良いような力だと思うんですね。

 そういう意味で、総合的な力こそが本当の力なのに、その総合的な力をつけることなくして、ある科目においてよくできるというような成績をつける。成績が良い子が頭がいいっていうふうにもてはやす。実に馬鹿げた話であると思います。そんなものは実は人生では何の役にも立たないということ。そのことは、いろんな意味で明らかなことなんですが、そのことの本当の意味を知らないまま生きている大人も少なくないというのも事実でありまして、日本的な風景であるというふうに私自身は、非常につらい気持ちを持つわけであります。けれども、何とか今の学校がもう少しまともな教育に力を入れる。そういうふうになってほしい。学校外教育の課外教育で、子供たちが夢中になるそういうことばっかりもてはやしている公共放送がありますけれども、本当はおかしいですね。

 学校の本来の目的、それは、私が今日思い切って皆さんにお話しようと思っているのは、実は、悪名高きというか、ある人ある一部の人にとってはものすごい郷愁の強い『教育勅語』というのを読んで、その教育勅語は実は意外にしっかりしているということ。この教育勅語に盛られた精神をきちっと教育している人がいるかということ、それを考えると、私はむしろこの明治の時代の短い教育宣言が非常に優れていると思わざるを得ないところがあるということです。この教育勅語は、明治に作られた当初よりもむしろ敗戦の色が濃い日本の昭和時代に仕切りと繰り返されるわけでありまして、そのときに非常にみっともない場面がたくさんあったということを知っておりますけれども、しかし少なくとも明治23年に発布されたときには、非常に優れたものであったということです。それはどういうことかっていうと、非常に短い文章なんですね。その非常に短い文章の中に、「学校教育の基本原理」というのは、本当にわずか数文字で凝縮されている。それは何か。「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ」、この部分ですね。まず学問を修めないと駄目だと。そして業、いろんな技術を習わなくてはいけない。そしてそれによって知能を啓発する。頭脳を明晰にする。そして、そのことによって「徳器ヲ成就シ」、人徳を磨くっていうことですね。そしてそれによって公益を広め、世務を開き、常に国憲を・・・ちょっと道徳的なところ入ってくるんですけれども、学校教育の部分に関して言えば、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ」、これだけ明確に学校教育の目的をきちっと表現しているものは少ないんじゃないでしょうか。今道徳教育のようなものが騒がれていますけど、そもそも「学を修め、技を習う」、そういうことをないがしろにして道徳教育っていうのが成立すると思っている道徳教育論者に、この教育勅語をまず教えてあげたいっていうふうに思いますね。

 その『教育勅語』というのは、今の学校教育の直前にいわゆる儒教的な道徳っていうか日本的な道徳が書かれているわけです。それがほんの一部分でありまして、その前後に、訳わからん日本の歴史がでっち上げられている部分があって、これは少なくとも日本史の研究レベルに耐えるものではないと思いますけれども、少なくともそのことを踏まえた上で、学校教育とそして道徳教育、それがどういう関連に位置づけられるべきかっていうことについて、明治のインテリの官僚が非常に苦心して書いた文章である。これは決して日本のいわゆる「皇国史観」というもの、それを前面に出すということを目的として書いたというものではなくて、むしろ学校の目的というものを、決して復古的な江戸幕府の風潮に戻すということなく、西欧近代に学びつつ、日本を富国強兵の路線に持ってくっていう知恵ある人の作文であったのではないかというふうに思うんです。そんなことを感じましたので、ちょっと思い切って皆さんにこのお話をしました。こういう話をすると、私は一部の右翼の人からはものすごく脅迫され、あるいは左翼を語る人たちからは、「長岡は右翼と堕落したのか」と、そういうふうに言われること。それも覚悟しなければならないと思いますけれども、「どんなものからでも学ぶ謙虚さを持たなければいけないし、どんなものを学ぶに際しても、ありとあらゆる警戒心を持って慎重に進まなければいけない」という教訓は、もちろん無視してはならないと思います。しかし、そういうものを踏まえた上で、あえて皆さんにこの話をしてみたいと思いました。

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