長岡亮介のよもやま話291「正しい言葉を使いたいのは何故」

*** 音声がTECUMのオフィシャルサイトにあります ***

 前にもこんな話を年寄りの繰り言のようにしているんでないかと思うのですけれども、昨日聞いた言葉でものすごく昔から引っかかっているものがあります。それは、「ご苦労様です」という言葉です。最近では、本当に会議が始まる前に、皆さんが集合すると「ご苦労様です」と始まり、終わるときも「ご苦労様でした」っていうふうに終わる。これが一般的になっていますね。私が子供の頃から「ご苦労様でした」っていう言葉は、何か大変な仕事をしてもらった後に、その苦労をねぎらうのに、「本当にご苦労様でしたありがとうございました」と、そういうふうに使ったものだったので、普通に集まった人に対して集まってくれただけで「ご苦労様でした」って、まだ仕事も始まってないのにおかしいじゃないかと、そういうふうに感じます。それから、私がもっともびっくりしたのは、これは本当にその言葉に最初に出会ったときですが、塾や予備校などで授業が終わったときに、その予備校の事務員が学生に対して「ご苦労様でした」というのを聞いて、びっくりしました。勉強するのはその人の希望や意思でやっているのだから、その子供たちに対して「ご苦労様でした」って言うのは、私は何か無礼な気がしたんですね。そもそも、「ご苦労様でした」っていうのは先生に対して「お疲れ様でした」って言うのはいいかと思いますが、授業聞いている生徒に対して「ご苦労様でした」と言うのは、おかしいんではないでしょうか。例えば大学入試を受けて、入試会場から出てきた子供にお母さんが、「あゝ疲れたね。大変だったね。ご苦労さまでした」って言うのはわかんなくもない。しかし、あまり適当な使い方だとは思わないんですね。「ご苦労様でした」っていうのは、やはり感謝の言葉と一緒に付け加えられて使うのが正しい、と私は思うんです。苦労をねぎらうという意味だからですね。

 「いちいち日常語に対してそのような目くじらを立てるのはおかしいじゃないか。そんなこと問題じゃない。そもそも『ご苦労様でした』っていう言葉を使っている人だって、そんなことは考えていない」というご指摘はごもっともです。私達が会話言葉でコミュニケーションをとるときに、いちいち言葉の意味を気にしていませんね。最近の日本人はそれをジェスジャー混じりでやるということも多くなってきましたけれども、ほとんど日本人のジェスチャーっていうのは意味がない。ジェスチャーと話の内容が結びついてないからですね。何か私から見ると、まるで操り人形のようなもの、あるいは指人形のようなもので、それが動いているような印象を持ってしまいます。会話言葉を正確に使わなければいけないっていうわけではないんです。ただ、違う言葉遣いが流通しているなという現象に対して、私はそれが新しい文化の表層の流れであるとして、アラートを発しなければいけない。なんでアラートを発するかっていうと、その言葉遣いがあまりにも空疎になっているから、そのような言葉の使い方になるんではないか。

 今の若い文化のリーダーたち、リーダーシップを握っている若者たちが、私達が子供の頃言葉に対して持っていた特有の感覚というのを、私達と違って持っているということですね。それは言ってみれば、言葉によって伝達される内容というよりは、ただ言葉を空疎に使って、空疎なコミュニケーションをしていると私には見えるんですね。本当に言いたいことを一生懸命考えて、相手に伝えようとする。これがコミュニケーションの基本だと思うんですが、とりあえず喋る、くっちゃべるってやつですね、私達の時代で言えば。くだらないお喋り、井戸端会議、床屋談義。そういうもので、退屈だからお互いに話題を提供し合って、退屈な時間を過ぎるのを少しでも楽しく過ごしたいということかもしれませんが、そういうお喋りのためのお喋りというのは、情報交換とは違う。またコミュニケーションとも違う、と私は思うんです。だから、言葉を大切にしたいと私は思っているんですけど、その言葉がだんだん乱暴に使われるようになってくる。これが私から見るとAmericaismでありまして、アメリカにおいても、言葉は一定に使われていない。どんどんどんどん新しい表現が消費されていく流れになっている。そして日本ではアメリカの会話言葉を中心とした英語を勉強するということが流行になっている。しかし、とにかく会話言葉を覚えるということは、あまりいいことではないんじゃないか。私は日本の会話言葉の現状を考えてみても、それはおかしいと思うんですね。

 もう一つ私がおかしいと思った昨日のことは、それは「大丈夫です」って言葉ですね。私もついつい「大丈夫です」っていう言葉は使いますが、普通「大丈夫です」というのはどういう場面で使うかというと、例えば道端で転んでしまった。すると、人が駆け寄ってきて、「大丈夫ですか。お怪我はありませんか。」そういう意味で「大丈夫ですか」って言うのを聞きます。そして答える人は、「はい問題ありません。大丈夫です。」そういうふうに答える。これは私の語感から言って、あまり異常なことだとは思いません。むしろごく普通だと思うんですね。「大丈夫」という表現の語源に遡れば、ずいぶん気楽な言葉の使い方ではあるかと思いますが、それは許せるというか、普通ではないかと思うんです。ところが、100円のものを千円札を出して買うときに、「千円札で大丈夫ですか」ってと言われると、違和感を感じるんですね。「千円札でお釣りを出すという方式でよろしいんですか」とずいぶん丁寧な聞き方で、「100円玉で買わないんですか」ということなのかもしれませんが、そしてお客さんが「大丈夫です」と答える。これは、私は通用しない日本語であると思うんです。でもこれが一般に流通している。この言葉も、言葉を正しく使うという意識が薄れている兆候だと思うんです。言葉よりも言ってみれば、チャットアプリのスタンプでコミュニケーションが済む。そういうような時代になってきて、人々が言葉による表現、言語的な表現、それを軽んずるようになったということだと思うんです。

 言葉ということは、英語ではlanguageって言いますが、でも“言葉”という言葉の元々のギリシャ語は、聖書にある「初めに言葉があった」っていうときの言葉は、“ロゴス”というギリシャ語でありますから、これは論理っていうふうに訳してもいい言葉なわけですね。“ロゴス”という言葉から論理っていう言葉も出てきています。その他に数学の比も“ロゴス”という言葉から出てきています。ですから、元々のギリシャ語の言葉の持っていた多様な意味の可能性が現実化して、現在の言葉は昔の言葉と比べると、多様な意味を細かく切り分けた平べったい言葉になっているんではないかと思いますけれども、しかし、古典語にさかのぼることによって、語源を知ることによって、“言葉”というものの持っている大切な意味を振り替えるっていうことができますね。

 「言葉をないがしろにする」ということは、「論理をないがしろにする」ということだと思うんです。「論理をないがしろにする」ということは、自分たちが考えていることを相手に伝えるときに、誠意をもって伝えるという真心が減っているということだと思うんですね。私は、人にもの事を伝えるときに、自分が一生懸命相手に伝えようとする、その気持ちが大切であり、そのためにわざと文字数の制限をして、例えば31文字で、その言葉を相手に伝えるという和歌という形式。これも非常に洗練された手法だと思いますが、言葉をえりすぐってそこまで凝縮するっていう作業は大変ですから、日常会話ではそれはしないでしょう。でも、その場合でも、短歌や詩歌を読むのと同じように言葉を精密に使う、できるだけ精密に使うという努力は、日常的に必要ではないかと思います。政治家の言葉が軽くなった。あるいは教師の言葉が軽くなった。親のことが軽くなった。いろんな意味で言葉が軽くなった時代であると思いますが、そういう時代であるだけに、私達は“言葉”というものの持つ力というものを信じて、できるだけ正確な言葉を使うように心がけるべきではないでしょうか。私はそう思っています。

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