長岡亮介のよもやま話289「知識と教養の決定的違い」

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 今回は、いわゆる「知識」ものを知っているということと、「教養」身についた知識との決定的な違いについて考えてみたいと思います。

 私自身は、長野県の長野市というところで小学校5年まで過ごしまして、小学校6年のときに神奈川県の横浜市に引っ越しまして、学校も転校するという体験をしたのですが、そこでびっくりしたのは、横浜の子供たち、同級生ですけれども、いろいろなことを知っている。それに対して私は、その友達が言っていることの意味が全くわからない。本当に何もわからないっていう、そういう世界に突然どん底に落ちるようにはまったわけです。そして、友達の言っている言葉が、そもそも日本語を喋っているはずですが、言っている意味が全くわからないんですね。大化の改新は「ムシゴ」であるとか、「泣くようぐいす平安京」であるとか、それ何を言っているのか全くわからない。私が子供の頃も、おそらく今の学習指導要領でも、日本の歴史というものを小学生に教えるときに、一体何を教えているのかわかりません。私自身は小学校の5年生までに、日本の歴史というものを全く知りませんでした。大化の改新という言葉自身も知らないですね。中大兄皇子とか中臣鎌足とか小野妹子とか、妹子なんていう名前ですから当然女の子ではないかと思いましたけれども、どうもそうではないらしい。聖徳太子という有名な人も出てきましたが、その中でどういう役割を果たしたのかわからない。大化の改新という言葉の意味がわからないんですね。蘇我入鹿という言葉も出てきましたけども、なんだか全然わからない。そして「ムシゴ」というのは645年という西暦の年号を暗記することのようで、それを覚えていると、今のキーワードとなる固有名詞「大化の改新、中臣鎌足、中大兄皇子、あるいは蘇我入鹿、聖徳太子」、そういった固有名詞と645という自然数を覚えていると、話がそこで通じるらしいということを、私は理解するまでにずいぶん時間がかかりましたけれども、実に虚しい話なんですね。そのことがわかったからといって、子供たちの遊びが豊かになるわけでも何でもない。まして、自分たちの学習生活が豊かになるわけでもない。単なる平べったい知識であるわけです。

 日本の歴史について学ぶということは、とても大切なことだと思いますが、例えば、「士農工商」というような身分制度があったということは、小学生のときに勉強するのは悪いことではないとは思うんです。しかし、「士農工商」という身分制度が、実際にはどのようなものであったのかということを、ちょっと考えて、ちょっと知る。戦争のない時代に、侍という身分の人が実際上失業状態に置かれ、それが長く続くと最も惨めな身分に転落する。それに対して、「士農工商」という身分の一番下の位に位置付けられた商人が経済的な力でもって、侍すら動かすようになる。「おぬしも悪よのう、越後屋。ウフフフ」というような漫画のような世界であったとしても、「士農工商」のトップの階級とボトムの階級、その力関係が実際上逆転するということが、たった江戸時代の300年間の間に起こったということについて勉強することは、小学生にとっても悪いことでないという気はしますけれども、その事柄の詳細、「徳川の初代将軍は徳川の家康である。2代将軍は誰それ。2代将軍は家光である。」そういうふうにして丸暗記するということ。それはほとんど意味がありませんよね。そもそも過去の時代の歴史を学ぶというときに、一番大切なことは、人々の考え方とか、暮らしがどのように変化してきたか、ということを現代の目でもって、それを見るというだけではなく、それが江戸時代の人々であればそれがどのように映ったかということを想像する。そういうことであるから、そんなに本格的なことを小学生のうちに勉強することは意味がないですね。

 私がショッキングだった事柄が「ムシゴ」であったので、今、日本史の話からいたしましたけれども、同様のことは理科でもありまして、私がびっくりしたのは、「抵抗」というのを並列抵抗の場合、直列抵抗の場合、その回路の全抵抗を表す公式あるいは全抵抗を求める求め方の数学的な公式、非常に単純なものではありますけれども、そういうのを小学校の子供たちが暗記している。実はそれはオームの法則という基本法則、あるいは高等学校的な言い方をすればキルヒホッフの法則と言われるもの、それを理解すれば、並列抵抗の場合・直列抵抗の場合なんて場合分けして覚える必要の全くない、非常につまらない些細な事柄なのですが、それを丸暗記する。そして、それによって問題が解けるようになるということを子供たちが目指している。私にとっては、並列とか直列という言葉さえも知らない。電流とか抵抗という言葉さえも知らない。乾電池で、飛行機とか自動車とかそういうもののモーターを作って動かして楽しんだ。そういう子どもらしい遊びは経験していますけれども、理論的なことは知らないわけですね。だいたい自然現象というのは、小学生の子どもが知るような簡単な理論通りには実際にはならないわけです。電気回路のようなものでさえ、実際は例えば乾電池は1.5ボルトだと言いますけど、1.5ボルトがずっと維持できるというわけでは全くない。そういうふうに本当の現象というのは理論的なものとは少し違うわけですが、その自然現象をいわば理想化して学問的に簡単な体系として理解するということで、これはとても大切なステップだと思います。しかし、そのことができるようになる以前の段階で言葉だけ丸暗記しても、それは全く意味がありませんね。

 同様に例えば、速さというのは「距離/時間」であると、小学生はそのように暗記するんですが、「距離/時間」というので出るのは平均の速さでありまして、実際の自然現象として、「速さが一定で動く」ということは普通はあり得ない。いわば理想化された状態なわけですね。そういう等速運動というふうに言われているもの。これは高等学校くらいになって、数学的な準備が整ったときに「平均変化率」という数学的な概念と一緒に覚える、あるいは一緒にマスターする。となると、それが数学の自然科学への応用としてとても印象的なことになると思うんですが、平均変化率も知らない子供たちに、物の運動の速さっていうのは、「道のり/時間」であると、こういうのを暗記させるということは全く意味がないと私は思うんです。私のように、少しでも古代ギリシャの哲学者たち以来、「はやさというものをどのように捉えてきたか」という歴史を少しでもかじっていると、人類が速度概念に到達するために払った苦労というものがどれほど巨大なものであったのか、知っているわけですね。そういう「人類が払った苦労を知らずに、結論だけを教える」というのは、自然科学のための準備教育としても意味がない。科学的でない教育なんですね。

 ある意味で日本では、Galileo Galilei以前のスコラ哲学者たちがアリストテレスの権威を鵜呑みにして、実際の観測をせずに本に書いてある、あるいは過去の偉大な哲学者が言っていた言葉を鵜呑みにして、それを繰り返すだけであった。それに対してGalileo Galileiは、実際に実験を通して、あるいは実際の観測を通して、自然科学的な客観的な法則を発見したという物語というか、偉人伝のようなもの。これが歴史上の真実だと誤解しているんですけど、Galileo Galileiの偉大さはそんなところにあるわけでは全くありません。Galileo Galileiの偉大さ、いろいろな偉大さがあるんですが、もし運動に関して言えば、Galileo Galileiが「瞬間速度の概念」というのを平均の速度、平均の速さと言ってもいいですが、そのを速度の概念と瞬間速度の概念、それをきちっと分けるための思索の方法を、あるいは思索の道を発見したということですね。それ以前の、もう13世紀の頃からスコラ哲学者たちが「瞬間的な速度」というものに対して一生懸命迫ろうとしていた。しかし、Galileo Galileiは、極めて数値的なアプローチが可能であるような数学的な概念として、瞬間速度概念の定式化、本当の意味での定式化はGalileo Galileiはできるはずがないんですね。その頃はまだ微積分学がありませんから、本当はできるはずもなかったんですが、そのこれから来るべき新しい数学、微積分学のための露払いのような仕事をしたということが、偉大なことでありまして、決して客観的な自然法則を観測やあるいは観察に基づいて発見したという実験的な方法を確立したというのではない。むしろ反対にGalileo Galileiの真の偉大さは、思考実験、頭の中で考えて、こうこうこうでなければならないという仮説を、緻密に作り上げたということです。それはちょうどアインシュタインが相対性議論というのに至るときに、まさにそのような思考実験を通して、決していわゆる自然科学的な実験、小学校や中学校や高等学校でやるような実験を通してその理論に到達したのでは全くない、ということですね。

 今の小中高等学校では、物体の落下法則に関しても、阿呆みたいな実験をやって、子供たちを納得させるようですが、Galileo Galileiの実験というのは、決してそんな単純なものではない。極めて精緻な理論に裏付けられていたということです。理論というのは言ってみれば、頭の中での理屈で、自然法則というものを確立する前に、頭の中で理論的な構想というのがきちっとできているわけです。そしてその理論的な構想というものを実際に確認するために、あるいは証明するために、あるいはみんなの前で実証するために、実験というのをしたということであって、Galileo Galileiがやった実証的な実験というのは、Galileo Galileiの全業績の中から見れば、本当に一部でしかない。Galileo Galileiの観測にしてもそうですが、彼が発明されたばかりの望遠鏡を自分で作り、あるいは自分で改良し、月面の観測をしたり、木星の衛星を発見したりした。これは真に偉大な発見でありますけれども、そのときに単に望遠鏡を一生懸命見ていたというんではないんですね。極めて巧みな観測をしているということです。皆さんにぜひ読んでほしいと思うのは自然科学の古典でありまして、Galileo Galileiでいえば、日本では『新科学対話』というふうに訳されている有名な本、あるいはそれよりもっと薄くて、非常にGalileo Galileiの観測の偉大さをよく表現していると思う『星界の報告』と日本で翻訳されている本をぜひ読んでみると、私は中学生でも高校生でも読める本なので、それこそが自然科学だと思うんです。

けれども、今はそれこそ中学校に行っても凸レンズとか凹レンズとか、実像とか虚像とかを勉強し、そしてレンズからの実物の距離と、それから虚像までの距離、あるいは実像までの距離の間に成り立つ数学的な単純な公式を覚えさせて終わりにしていますね。しかし、レンズがそんなに単純なはずはないですよね。光は、異なる媒質中を進むときに屈折する。これは、水の屈折、空気から水に光が通るときの屈折として有名。水から空気に出るときであってもいいのですけれども、屈折現象がありますね。同じように空気中からガラスに突入するときにも屈折現象を起こる。その屈折現象を利用することによってレンズというのを作るわけですが、そのレンズの局面をどのように設計すれば、理想的な工学的レンズを作ることができるか。これがまさに、先ほどちょっと紹介した微積分学の中で微分学それの先行的な研究になったわけで、Galileo Galileiの時代にガラスを加工することによってレンズを作る。そのレンズは当時理論が十分に精緻にできていませんから決して理想的なレンズではありませんでしたけれども、それでもレンズを使うことによって、望遠鏡というのを作ることができたわけです。その望遠鏡の原理っていうのはGalileo Galileiの使った望遠鏡でさえ、中学生の理科で勉強するような単純なものでない。日本では高校生になっても、光に関してものすごく単純化された場合だけその法則を覚えていれば、理科の屈折がわかったということにしているみたいですけど、それは私は極めて非科学的なことである、と思うんです。こういうのは知識であって、断片的な知識であって、教養ではないと思うんですね。

 「教養というのは何か」といえば、光の屈折、すごく不思議な現象です。それは、ご飯を食べるお吸い物の容器に水を入れ、そこに箸を差し込む。それだけでも観測できる簡単な現象でありますけれども、その簡単な現象とレンズが結びついている。そして私達が物を見るときに、私達は水晶体というものを使うことによって、その光学的なレンズと同じようなことを眼球が行っている。このこと自身が驚くべきことでありますけれども、私達は生まれてから、光の屈折とか、あるいは微分とか、そういうことを全然知らないのに、私達の眼球が理想的なレンズとして機能する。これは神秘的としか言いようがないことでありますけれども、そういう神秘的なことに繋がる基本的な原理を学ぶということは、私は、人生を豊かにすることだと、いうふうに思うんですね。いろいろなものは繋がっている。そして、いろんなものを繋げて理解することによって、私達の知の世界が広がるということ。これが素晴らしいことであると思うんです。これが、身についた知識すなわち教養、と私が呼ぶところのものでありまして、決して物知りということと、教養人であるっていうことは同じことではない。いろんなことを知っているということは、何かについて「あ、それ知ってる。知ってる」というふうに口を挟むことはできたとしても、それは単なる物知りでしかない。それはクイズ王であるかもしれないけど、クイズ王は所詮クイズ王でしかない。やはり、知識を身につけたらその身につけた知識を生かして生きる、ということができるようにならなければいけない。「生きた知識がつけられると、どういうふうに世界が違って見えてくるのか」というのを教えるのが、学校の社会とか理科とかという、いわゆる知識科目と言われるものでありまして、その知識科目が単なる先端的な知識を伝達するということに終わるとすれば、それは全くのナンセンスであると、私は思うんです。

 ちょっと厳しい言い方になってしまいましたけれど、私自身の小学校6年生のときの驚愕した体験。そのときに、私は友人たちを見て何でも知っててすごいなと思ったんですが、その友人たちが高等学校くらいになったときに、実は何もわかっていなかったんだということを知って、もう1回大きな衝撃を受けたんですね。若い世代に、私が小学校で出会ったような受験秀才を作ってはいけないと私が強く思うようになったのは、そういう経験があるからです。決して受験のために勉強することが悪いことだと言うつもりはありませんけれども、単なる受験のための受験勉強になったら全く意味がないですね。せっかくの受験勉強をするならば、それが生涯の宝となるような勉強になってほしいと願っています。私自身は小学校のときに、本当に時計算やら、鶴亀算やら、流水算やら、いろいろな算数の技というのを友達から勉強して教わりましたけれども、それがよくよく考えてみれば、本当に簡単な基本原理でしかないということがわかってから、算数が怖くなくなりました。そして、そのように算数を理解していたことが、中学校で連立方程式などを使って、算数の問題を解くのが簡単になったときにも、小学校の勉強は無駄ではなかったんだと。そういうふうに思い直したという経験も、この話を支えている私の少年時代の思い出です。

 今回は、私の子供時代を思い出して、今の子供たちが置かれている状況を想像しながら、お話をいたしました。ひょっとすると、今の小学生の状況は、私の小学生時代よりももしかすると改善してるのかもしれないと期待しますが、一方で私が自分の子供から聞いた話だけを、証拠として、それをエビデンスとして語るならば、私の頃と比べるとより悪くなっているという気もいたします。私の子供は驚くべきことに、正円錐の側面積を求める公式とか、全表面積を求める公式とか、そういうものを円周率も知らない子供あるいは円の面積でさえよくわかってない子供が求められる。円周率を3.14とするして計算する公式を、あいい式とかいい式とか、そういうわけのわからんことで勉強をしていたということがあって、私は自分の子供に「そんなものは全部忘れなさい。全く意味がないことだから」というふうに言いましたけれど、それから類推すると、私の頃はさすがにそれほど馬鹿げたことはなかったということを考えると、今の状況はより悪くなってるかもしれないと想像して、こんなお話をいたしました。少し、長くなりましたが、参考になれば幸いです。

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