長岡亮介のよもやま話280「自分のボケは自覚できるか」

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 「人間は果たして自分自身のことを本当にわかるのか」という哲学的な問い、これは昔からよく発せられてきたものです。もっとわかりやすい表現を使えば、私達は自分たちの姿を、他の人が見ているようにして見ることができるのか、ということです。皆さんの中には、鏡を見れば簡単じゃないかと思う人がいるかもしれませんけれど、鏡の中に映っている自分は私とはそっくりなのですが、裏表が逆の世界の私でありまして、現実世界の私とは違うんですね。

 わかりやすい例として皆さんは電磁力学で、フレミングの右手の法則、左手の法則というのを習っていると思います。右手の法則と左手の法則を間違えると、電気が働いて力が生まれるのか、あるいは力が働いて発電がなされているのかということを逆に捉えてしまいますから、世界が全く逆転してしまいますね。皆さんは、もし右手の法則を理解しているならば、皆さんの右手で持って鏡に自分の姿を映してください。そして鏡の中の人が、自分にそっくりな人が、なんとフレミングの右手の法則、最も基本的な法則さえ理解していないそういうとんでもない人間の姿を、そこに発見するはずです。つまり、鏡の中の世界は自分たちの世界とは違って、裏表が逆になっている。裏表という言い方はちょっと通俗的な言い方で、学問的な言い方だとオリエンテーション、向きが逆だというふうに言うわけですね。その向きが逆の世界だけど、私達はその向きが反対だということにしばしばは気がつかない。向きが違っているものを同じ向きの世界というふうに理解してしまいがちで、よくその間違いが起こるのは、鏡の中では左右が逆転する。上下が逆転しないのに、左右が逆転する。そういうふうに思う子供たちの誤りですね。こういった面白い科学的なトリック、これを話題とした童話が、ルイス・キャロルという論理学で著名な研究者によって書かれたのも有名な話でありまして、キャロル自身もこのお話についていろいろと書いております。日本でもそれなりに紹介されているんではないでしょうか。ルイス・キャロル自身は論理学者としてものすごい立派な仕事をしたというわけではありませんが、こういうウィットに富んだ話をするのはとても得意でした。科学者の中には、そういうタイプの人が時々います。

 話は変わりますが、というわけで、私達は私達の姿を見ることができるかっていうと、鏡の中に映っている自分は鏡の中ですから正反対なんですね。向きが同じでない。したがって、鏡の中の自分は自分ではないということです。では自分たちの姿をじかに見れば、自分たちを見ることができるかというと、自分の姿を見ることは、本当はできないですよね。私達は目を使って物を見ると言いますが、目そのものを見るということはなかなかできません。私達が瞳孔やあるいは網膜を自覚的に見るということは、到底できないことです。お医者さんは道具を使うことによってそれを簡単に見たような気分になります。それは、そういう見るための道具を使うことによって、いわばちょうど見た代わりにする映像を入手することができるようになっているということであります。そうであるとしても、私達自身は私達自身を見れていない。本当は、私達は私達自身を見つめるということさえ、できないんではないかと思います。

 私は年を取ってきてだいぶボケてきた。「最近ボケてきちゃってね」というようなことが、知人たちの間でもしばしばよく使われる標語になりましたけれども、そのような自分たちのボケを自覚するというようなことでさえ、本当にはわかってないんじゃないか、というふうに私は思うんです。「自分がボケてきている」というのも、いろいろな状況から見てどうもボケてるらしいと思いながら、しかしボケてない自分がどこかにいて、ボケている自分のことをそういうふうに否定的に観察しているということを述べているわけですけれど、自分が本当にボケているということは、なかなかわかりません。私は、今日大失敗して、実は最近は仕事の関係で昼夜逆転しているので夜中に早く目が覚めるということがあるのですけれども、今朝2時に起きたときに、私は4時にお医者さんと予約を取っているということにはっと気がついて、もう2時だも4時までに時間がないと慌てて家を飛び出して、病院に走ったわけです。ところが昼間だというのにあたりは真っ暗で、なんで今日は真っ暗なんだろうと。こんな真っ暗な夜明けっていうのは見たことがない。夜明けじゃないですね。その夜明けだとは思ってない、午後だと思っているわけですから、おかしいとそういうふうに思いながらも、しかしあと約束の時間まで2時間しかない。そう言ってタクシーを拾って、急いで病院へ駆けつけたのですが、病院には誰もいない。当然ですね。真夜中のあるいは朝の4時という時間でありますから、病院に誰もいないのは自然なことであったわけです。しかしそれでも私は自分がボケているということに気がつかない。私は、約束の4時までに間に合わないといけないということに頭がいっぱいで、それ以外のことを考える余裕が全くなかったからです。

 つまり、私達は私達の誤りに気がつくのにある余裕が必要だということで、余裕がない頭脳では、必死に考えれば考えるほど、自分の誤りに気がつきづらくなる。こういう私達自身の過ちに対する本来備わっている知覚作用が失われるのが、自分たちがその余裕を失ったためであるということに気がつかない。そのことから生じているということにも気が回らないということですね。これは失敗の典型でありますけれども、ボケ症状の典型でもあると思います。今日は私のボケ話を題材として、ちょっと哲学的な、そして教訓に富んだ話をしてみたいと思いました。

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