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ヨハン・セバスチャン・バッハという偉大な作曲家の有名な作品にブランデンブルク協奏曲と日本で言われているものがあります。これは様々な楽器のための6つの協奏曲というフランス語のタイトルが、元々のオリジナルなもので、ブランデンブルク協奏曲と言われるようになったのは、いろいろな経緯があってのことなのですが、私はそういうことについて全く知りませんでした。なんでそのことについて興味を持ったか、素人は素人なりに楽しむことができるということを主題として、この素材を取り上げたいと思います。
ブランデンブルクというのはいうまでもなく、都市の名前でありまして、ブルクというドイツ語の接尾語というのでしょうか、英語風に発音すればボルグですね。ハンブルグという言葉が、日本ではすごく有名で、ハンブルグステーキというのはありますね。子どもの大好きな食べ物の1つだと一般に言われています。ブランデンブルクも同じで、ブランデンブルクというのは町の名前というよりは、いまや州の名前というふうに言った方がいいと思いますが、そこの地区を治めるお城に住んでいる人のために、ヨハン・セバスチャン・バッハが、書いた有名な美しい曲の一つが、ブランデンブルク協奏曲なのですね。私はごく常識的にブランデンブルクコンチェルト、コンチェルトというのは複数形でコンチェルトズというふうに、Sをつけていうこともありますが、これがその名称と思い込んでおりました。
たまたまこの数年前にブランデンブルク協奏曲300年ということで、いろいろな演奏がそこのお城でなされたりする、そのビデオ映像を見ることができて、とても豊かな気持ちになったのです。それが前にお話した古楽器の魅力というお話の元になったものなのですが、なんと驚いたことに、そのブランデンブルクコンチェルトズ、という英語のタイトルの他に、フランス語のタイトルが出ていて、フランス語のタイトルももちろん、6つの協奏曲という表現もあったのですが、それの他に、ブランデンブルク協奏曲というようなそのままのフランス語の訳があったのですね。ブランデンブルクの部分がどう訳されたかというとブランデンブルジョアという言葉だったわけです。ブランという言葉を除くとブルジョアで、これは日本人だったら誰でも知っている、特に現代人、19世紀以降の人であれば誰でも知っているブルジョアジーとプロレタリアートという概念の対立として、マルクスやエンゲルスによって非常に強調された言葉で、これはマルクスやエンゲルスはドイツ人でありながら、わざとフランス語の言葉に寄せて特別用語として使ったわけで、その由来を全く理解しないで、ブルジョアとかブルジョアジーというのはお金持ちのことというふうに理解している人もいるかもしれませんけれど、それは典型的な間違いで、ブルジョワというのは、元々市民階級ということですね。王様や貴族でもない農民でもない、従って土地に縛られてもいない、いろいろな町を旅してそこで商売をする。そういうような階級の人々、職人でもない、農民でもない、一般市民ということですね。今の日本語だったらパンピーっていうのでしょうか?それがブルジョアという言葉の元々の起源で、ブルクという、つまり城の外に住んでいた人々というのが語源だったのではないかな、というふうに思うのですけれども。都市の中心に住むことができない、定住することができない、しかし町から町を移動することによって、自分の生活の生業を得る、そういう階級の人々がいわゆる産業革命の劇的な変動に乗って、大金持ちになるというのが、17世紀から18世紀にかけての200年とか、150年間くらいの歴史であったわけです。ちょうど今で言えば、IT産業、あるいはICT産業は、それによって一介の若者が、世界を動かすような巨万の富を得るとすると、規模は少し違うかもしれませんし、社会的な影響力という点でも、大きく違うかもしれませんが、言ってみれば、そういう生産力あるいは生産手段の大きな革命にのって、ブルジョアというのが社会の中心に躍り出た。それを象徴するのがフランスの大革命、1789年の革命であったわけですが、そのブルジョアジーという言葉は、我々にとっては、マルクスやエンゲルスが使った意味で、ずっと理解していたわけですが、なんと、ブランデンブルク協奏曲というのが、コンチェルトあるいは、コンセㇽト、どういうふうにフランス語で呼んでいたか、ちょっとよくわかりませんが、「ブランデンブルグブルジョアジー」そういうふうに書かれていたので、びっくりしました。これは私の全く素人の理解でありますが、素人なりに自分自身で発見したということの喜びがあって、それをお伝えしたいと思って、これを吹き込んでいます。
ちょっとしたフランス語の知識、あるいはドイツ語のちょっとした知識、そして現代で人々が使っている外国語に関する情報、そういうものを自分なりに総合し、そこに過ちや、その言葉に至る歴史的な発展、それに思いを寄せるという、言ってみれば好奇心そのものでありますから、何がそれによって役に立ったというわけでは決してありませんけれども、自分自身が発見者、発見といっても、自然科学上の発見とか、そういうような大変なものではありませんけれども、それなりに面白い発見、独創的な発見が、そこにあったということです。これは素人の勉強の楽しさを象徴するものでありますが、同時に素人の勉強の危なさというのも含んでいることを忘れてはならないと思うのですね。
ブルクというのが、城という意味で、城壁でしょうかね。その城壁で囲まれたところに、昔、都市が形成されてきた。それがブルグという接尾語で終わっている街が、ドイツには今でもたくさん残っている。その証拠でありますけれども、偏ったというよりは非常に小さな知識ですね。小さな知識、ブランデンブルク協奏曲の言葉を勝手に理解し、そしてブランデンブルジョアというフランス語の訳、それをブルジョアジーという、マルクスが強調した言葉、それを勝手に結びつける、これは結構危険なことであるわけです。学問的にはそのような用例が果たして本当に正しい分析というふうに言えるのか、もっと多くの用例を調べて、学問的に実証しなければならないと思いますが、そういう学問的な実証が何より大切だと思っている人に対して、私は実はその分野の専門家であれば、それは必須の努力であろうと思いますけれど、専門家として、全てのことに詳しくなることはできません。アマチュアの面白さ、アマチュアがやるからこそ楽しい学問的な経験そういうものもあるんじゃないか、というふうに考えまして、このお話を皆さんにお伝えしたいと思いました。
最近は、アマチュアリズムというのはあらゆる面で否定されていて、言ってみれば、一つの種目に関して、子どもの頃から必死にそれに向けて努力する。そしてその大願成就なって、成功する人もいるのですけれど、その成功物語の陰に、何百人何千人、何万人何十万人という夢破れて涙に暮れているという人が、きっと多いと思うんですね。子どもの頃から、一つのことを目指して、それに一直線でいく。素晴らしいことのように見えますが、実は多くの可能性をそこで切り捨ててしまっている、という非常に厳しい限界も抱えることになる。そのことに私達は心を馳せ、子どもたちを専門家として育てるということに対して、いつも思慮深くなければならないと思うのです。早くから専門家になれば専門家として生きていける。ある意味でそうかもしれません。しかし、専門家になり損なったときはどうしたらいいのだろう。やはり人間は専門家として生きるというのは、職業人としては正しいかもしれませんが、人として生きるというのが一番大切なことであり、学問というのは、人が人として成長するための糧である。
学問に関しても、最近は早くから学問をスタートして、早くから専門家になるというのが流行っております。特に、開発途上国、日本や中国なんかも含めて、欧米の先進国と比べると文化的な厚みが決して豊かでない、そういうところでは、早くから専門家になるということが多いですね。反対に、いやらしい徒弟制というか、親子代々一子相伝そういう形で伝統に固執する、そういう世界もありますけれど、私は、それは馬鹿馬鹿しいものであると思っています。私が今日お話したいのは、そういう世界とは違って、競争の厳しい社会であっても、早くから専門家になる。そういう決心をすれば道が開けるという考え方、これがだんだん世の中の大勢を占める。開発途上国の典型だと思うのですね。日本はGNPでこそ世界第3位とかって言っていますけれども、文化的には全く開発途上国あるいはそれ以下というふうに感じざるを得ないことがよくあります。そういうときに、特に専門家にならないと、若くしてその道を早く決めて、専門家への道をたどらないと、生きていけないという考え方が日本の中でますます根強くなっているということは、寧ろ日本の開発途上国家化への、歴史の逆行のように思えて、ちょっと悲しくなります。最近、日本では演奏家とか、競技の世界でもとにかく若くしてデビューするという人がすごく多い。これは、中国や韓国、台湾シンガポール、アジアの国々の特徴のように思います。そういうものではなくて、寧ろアマチュアでずっと続けるということの面白さ、特にアマチュアで楽しいのは、楽器の演奏とか、書道とか絵画とか、それも楽しいですけれど、一番楽しいのは学問の世界で、外国の勉強というのも、それが意外に楽しいですよ、という皆さんをアマチュア的な学問へお招きする、誘う、そういうメッセージを発信したいと思いました。
コメント
“A foolish consistency is… the hobgoblin of little minds.”
(愚かな首尾一貫性は、狭い心が化けた物。)
アメリカの思想家Ralph Waldo Emerson の格言に、倣うべきものがあるように思いました。