長岡亮介のよもやま話268「静脈の神秘・生命の神秘」

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 昔から気になっていたことで、きちっとした解決をしないまま今まで過ごしてきた問題というのは数限りなくありますけれども、数学とか物理のように演繹的で厳密な学問においては、「わからないことはわからない。わかることわかる」ということが明瞭に区別できますが、自然科学においても化学、あるいは生物、そしてさらには医学、そういう領域に来ると、私達の知っていることがあまりにも少ないので、ほとんどのことがわかったつもりになって終わりになっているということが少なくありません。私だけなのかもしれません。その専門の人たちはもっとクリアにわかっているということなのかもしれません。

 私自身は、若い頃、ウィリアム・ハーヴェイというお医者さんというんでしょうか、今だったら生理化学者というのでしょうか、彼の血液循環に関する論文というのを、日本でおそらく初めての翻訳を出したのですね。それを私の先生から言われて指示されてやった仕事に過ぎないわけですが、初めてウィリアム・ハーヴェイの本を読んで、大変に感心しました。それは、それ以前は、「血液は心臓から出ていって、そして心臓に戻ってくる」潮汐運動、潮の満ち引きのように、送られていってまた引かれて戻ってくる、そういうものだと考えられてきたわけです。動脈と静脈という区別はついていましたけれども、血液が心臓から全身に向けて送られていっては、また心臓によって吸い取られる。そういうふうに考えられていたわけです。動脈の静脈も、血液を出しては戻す、とそういう機関だと思われていたようですね。ハーヴェイが、それがおかしいということに気がつきました。彼が、それがおかしいというふうに気がついた最大の理由は、もし人間の心臓の出す血液の量を、人間が血液をその度に作り、その度に破壊するということをやっているとすれば、膨大な血液を人間が毎旬毎旬生産しなければならない。しかし、そんなことはあり得ないだろうと。それだけの多くの血液が、常に作られ続けるはずがない。実際、戦争などで大きな傷を負った兵士が血を流してすぐに出血多量で亡くなる。そういうシーンは昔から誰もがわかっていたわけでありますから、血液がちょっとの量でも失われると、生命の維持が困難になる。そういう状況は、誰でも知っていたわけですね。

 ウィリアム・ハーヴェイは、心臓が1回にどのくらいの血液を出すか、そういう量を動物実験などで測ったんだと思いますが、そのデータに基づいて人間の心臓から出ていく血液の量を推定して、その血液の量が毎旬毎旬生産される。そして毎旬毎旬消費される。それはどう考えてみても合理的でない、とハーヴェイは考えたわけですね。となると、どういう解決策があるかということで、ハーヴェイはいろいろと考えたんだと思いますが、彼が到達した結論というのは、「血液は循環する」という理論であったわけです。今では当たり前の理論になっていますが、ハーヴェイが血液循環論を発表するまで、誰一人そのような、考えてみれば当たり前という仮定あるいは仮説に到達することができなかった。なぜでしょうか。私はちゃんと理由があるんだと思うんです。血液循環論っていうのは、ハーヴェイが非常に説得力ある立論で、それを立証しているわけですけれど、やはりハーヴェイが立証できてなかった問題があるわけですね。それは動脈から行った血液が、全身を巡って、やがて静脈を通って心臓に戻ってくる。なぜ戻ってくるのか。動脈から静脈の間に何があるのか。それがわからなかったわけです。しかも、動脈は脈打つのに対し、それは心臓のまさに鼓動、パルスですね。ドク、ドク、ドクという力強い心臓の波で、それが動脈で、私達が末梢の動脈でもそれを感じることができるくらい拍動が強い。他方静脈にはそういう拍動がないわけです。

 ウィリアム・ハーヴェイは、静脈のメカニズムに関して、決定的に重要なことを発見したんです。それは何かと言うと、「静脈には弁がある」ということだったんですね。ウィリアム・ハーヴェイの静脈弁の発見というのは、私はハーヴェイへの血液循環論の中で最も科学的な観察という点で、優れたものだと思います。ウィリアム・ハーヴェイは実に簡単なことに、静脈の一点を抑えて、そこを心臓に向かってこする。しごくわけですね。そうするとその静脈の太い血管の中に入っていた血液が、弁を通って心臓の方に送られる。送られたところは血液が何もありませんから、ぺっちゃんこになるわけです。そして静脈を抑えて指を離すと、とたんにその静脈がまた膨れる。これは誰でもが簡単に実験できる弁の証明であるわけですが、彼はそのようにして弁の存在を証明しただけではなく、解剖学的に静脈の中に、私はどういうものか知りませんが、私は翻訳していて、“探り”というふうに訳すのだという言葉を知って、“探り”と訳しましたが、“探り”という装置があるみたいですね。細いところをずっと探っていくための針のようなものなんでしょう。そしてその“探り”によって静脈弁というのを、言ってみれば生体において静脈弁が実際に存在するということを、物理的に立証する。そういうことにも成功するわけです。ハーヴェイの頃はまだ、当然のことながら顕微鏡などもなく、微細な血管の構造を理解するすべもありませんでした。しかし、静脈がそのように一方にしか血液が流れないという機能を持つことによって、拍動しないにも関わらず、血液を心臓の方向に向かって、一方向に向かって流す。そういう機能を持っているということを証明したわけであります。『血液循環論』なんていうのは今やどこでも読める本だと思いますので、ぜひ皆さんもお読みになると良いと思います。

 さて、ここで私は問題だと思うのは、毛細血管というやつですね。それがあるということは、今では小学生でも知っていることだと思います。目に見えないくらい細い血管、そこの中を血液がものすごく高速に流れている。心臓から送られた血液を、毛細血管を通して人間の体の組織全体に栄養や酸素を配る。そのときに毛細血管が大活躍しているわけですね。しかし、心臓の鼓動を伝えていた動脈の鼓動は毛細血管ではどうなっているんだろうか。不思議ですよね。しかも心臓は血圧が高くなると破れるほど、動脈硬化なんかに対して弱いのに、毛細血管はどうして破れないのか。不思議ですよね。さらにもっと不思議なのは、静脈のように、普段血圧があんまり高い心臓の拍動が伝わらない、そんな静脈は動脈に比べるとよほど弱いんじゃないか、と私なんかは想像していたんですが、つい最近、動脈の断面図と静脈の断面図という、言ってみれば顕微鏡的な画像、それを見て本当にびっくりしました。それはなんと、動脈の方はほとんど「まる」なんですね、断面は。当然のことながら、血液が勢いよく流れるわけですから、その管は丸くあるべきですね。決められた周囲を持つもの中で、断面積を最大にする最も能率的な図形は円であるわけですね。ですから、血管の断面図が、円の構造を持っている、あるいは輪の構造ですね。輪を取り囲んでいるのは、動脈の厚い筋肉ということになります。筋肉組織が輪になって、動脈の拍動でこれに耐えて、血液を送り続けてくれているわけです。

 静脈の方はどんな形をしているか、私は今まで考えたこともありませんでした。本当にお恥ずかしい話ですが、静脈の断面図というのをつい最近初めて見ました。そして私はそのときに全ての謎が解けたような気がしたんです。どうしてでしょうか。なんと、皆さんにもぜひ静脈の断面図っていうのを見ていただきたいんですが、静脈の断面図っていうのはもちろん部位によって、心臓から遠い部分と心臓に近い部分、当然違いがあると思いますが、心臓からおそらく遠い大腿を通っている静脈を、あるいは硬い静脈でも結構です。それを連想してみてください。よく血液が鬱滞する、足がむくむ、そういう話がありますね。何でむくんでいるか、それは静脈に血液がたまっているからなんですが、静脈は血液を溜める能力を持っている。そのために、静脈はどういう形をしているかいうと、動脈の完全な円あるいは輪とは全く反対に、扁平なふにゃふにゃしただらしない。言ってみれば無駄な構造を持っているわけです。つまり、普通のときには、静脈に通る血液は大した量ではない。だから、静脈自身はさぼっていていい。しかしながら、その静脈に血液を溜めなきゃならないとき、その静脈がパンパンになるまで腫れ上がるように太くならなければなりません。そのために、静脈は普段はたらーっとした格好をしているのに、たらーっとした格好していることの余裕を持って静脈は血液をためることができるですね。そしてそのたまった静脈の血液を、体が運動したりすると、その筋肉の運動などによって、血液が一方向に押される。どうして一方向にしか押されないかというと、弁があるからです。弁があることによって心臓の方向にしか流れない。そういうふうになっていると、その鬱滞した静脈の血液が心臓に向かって流れる。その余裕ある血液を貯めるために、静脈は普段のとき、輪切りにしたときに、環状になってない。円環状をなしてない。だらしないふにゃっとした平らな形になっている。要するに無駄な形になっている。無駄な形になっているということは、必要なときにパンパンに膨れ上がるという余裕を持たせるためで、何という知恵なんだろうと、改めて感心しました。つまり、血管は、静脈は心臓からの拍動によって血液を運ぶのではなく、もっぱら周囲の筋肉の運動によって静脈が圧迫されることを通し、そして弁があることによって、一方通行に血液を流す。それによって、心臓に血液を戻しているということです。

 私は76歳になるまで、こんな動脈と静脈の基本的な組織的違いすら知りませんでした。こういうのはもしかしたら中学生の頃、普通に生物を勉強した人は知っていることなのかもしれません。カエルの解剖など私は子供の頃、気持ち悪くなりながらやりましたけども、そういうふうに「顕微鏡で実際に動脈や静脈を観察する」ということが持っている面白さということに気がつきませんでした。今の少年少女たちは、私の時代と比べると遥かに豊かな情報の中に生きていますから、学校教育においても私達の時代の、つまらない、本当にくだらない勉強、生物なんかで「細胞は、中に核というのがあって、ミトコンドリアがあって」とか、そういう本当につまらない、知識だけの勉強で、顕微鏡で見ても、別に教科書にあるような図式的な絵が見えるわけではない。染色体っていうのは、まさにその染色、色を染めると染まるというだけで、普段の細胞の中にある染色体っていうのは見えないわけですね。見えないのは、平常状態であるわけです。それを色を染めると、そこの染色体だけ色が染まる。不思議な組織ということで染色体って名前がついたんですが、そんなものいくら覚えて無意味がないですよね。染色体の真の意味っていうのは、それがDNAというものでできている。そして、さらにはそれが二重らせんの構造を持っていて、“塩基の配列”であること。その塩基の配列によって、ある情報伝達を担っている。DNAに対応するRNAというのがあって、DNAの複製を行う。こういうようなことがわかってくると染色体っていうのは非常に重要なものだということがわかりますけど、私が中学生の頃はまだDNAの発見もなく、あるいはDNAらしきものは発見されたかもしれませんが、二重らせんのことなんか全くわかっていなかったのだと思いますね。生物は本当にくだらない授業だと思いました。まだメンデルの法則が大手を振っていた時代です。

 しかし、今や本当に遺伝子の構造なんかにも深く深く私達が分け入ることがわかり、そして分け入れば分け入るほど実は知らないことが多いということがわかるというくらい、生物の世界も楽しくなってきていますね。そういう時代に生きている若い人たちは幸せだと思います。でも、本当に科学的な発見というのは、まさにウィリアム・ハーヴェイがやったような、本当に原始的な実験装置、原始的な観測装置、そういうのを持ってしてでも、つまり先端的なDNAシーケンサー、そんなものがない時代であっても、生命の持っている不思議に迫るという生命科学、あるいは生物学医学って言ってもいいかもしれません。そういうのの持っているダイナミックな面白さに気づいているわけですね。わたしがウィリアム・ハーヴェイの仕事に感動したのは、もう大学院に入ってからでありますから、それほど大きな感動はなかったんですが、中学生の頃、ウィリアム・ハーヴェイを読んでいたら、どれほど感動しただろうっていうふうに思います。同じことは、ファーブルの『昆虫記』については小学生の頃読んでおりましたが、その面白さは言ってみれば昆虫採集の面白さのようなものでしかなくて、私は本当に理解してなかったと思います。ある程度成長してから、ファーブルの『自然の不思議』という本を読んで、本当に自然を観測するということがこんなに面白いことかというふうに思いました。私はそういうものの楽しさを知らずに成長し、数学の道に進んだわけでありますが、そのこと自身は全く後悔していませんが、数学以外の学問でも、本当に数学や物理をやるように楽しい時代が来ているんだっていうことを強く実感したので、それについて報告させていただいた次第です。

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