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教育について知育・体育・徳育と分類する流儀が、かつて日本にありました。「知識を育む。体を育む。そして人徳を育む」という趣旨なんだと思いますが、人間の成長というものを、まさか三種類に分類できると思っていたわけではないと思いますが、何となく教育者が使いそうな安易な分類で、私はあんまり好きでありません。そしてそのような過去の分類をもとにして、「現代の教育は知育偏重だ」という意見がよく聞かれます。知育偏重というのは、体育とか徳育という重要な他の要素に比べて、知育があまりにも偏って重視されているということなんだと思います。体育をもっとやれとか、徳育を持ってやれということなんだと思います。しかしながら、学校で学ぶことの中で、やはり生涯の宝となるということは、友達との楽しい時間を過ごした思い出と、基礎的な勉強でありましょう。字を書けるようになること。その美しさ、美しくなさ、下手さ、醜さ、それがわかるようになること。これもとても大切なことですが、それと並んで、基礎的な文章を読んで理解する力、あるいは相手に伝えるための文章を書く力、そして、合理的に考えるために必要とされる自然科学的な武器。その基本は数学でありますけれども、それができるようになることというのは、現代では必須の教養となっているのでありましょう。もちろんインターネットの時代でありますから、早く計算ができることとか、正確に計算ができることということは、たくさん細かいことを知っていることと同様に、今や無意味と言っていい時代であることは事実ですね。よく言われることですが、分数の計算のようなややこしいことは教えなくていい、小数入り混じる煩雑なものわからなくていいという議論がありますけれど、それはコンピュータを使ってやれば良いということで、コンピュータの便利な利用が世の中の日常生活に普及してくることは、スーパーマーケットで会計をするときのレジを見てもそれは明らかであると思います。ですから、コンピュータが便利なところでは、それをどんどん活用する。それは学校でもあって構わないことでありますね。
でも、例えば数の計算というのは、その数の計算に潜む不思議さというのに気づくというのも、楽しいことでありますね。私は引き算というのはあまり得意ではありませんでした。「隣の桁から1借りてくる」という考え方を今でも使っておりますが、面白い考え方ですよね。その桁で足りないものについては、「上の位から借りてくる」と、そういうふうにして計算するのが面白かったですね。繰り上がりも面白かったですけど、繰り下がりも特に面白かった。大変なんですけれど、つまり人に貸してしまったことを忘れてしまって、計算間違いをするということもよくありましたけれど、そのうちに子供ですからだんだんだんだんずるいことに気がつくわけですね。私は引き算が苦手だと言いましたけど、私が得意な引き算がありました。それは「0を引く」と、「1を引く」と、それからもう一つ、これが意外なのですが「9を引く」、これがとても簡単だということです。「1を引く」のが簡単なのは、例えば8-1=7、7-1=6、そういうふうにぱっとわかるということですが、「9を引く」ことがなぜ楽なのかっていうと、9を引く場合は9から9を引くという場合を除いては、必ず隣から借りてこなければならないんですね。隣から1を借りてきて9引いて、その残りを考えますから、9を引くという計算は、その桁だけに関しては、1を足すって計算と全く同じなんですね。例えばわかりやすい例として、35-9を考えてみましょう。35-9っていうのを計算するときには5から9が引けません。だから3の方から1借りてくるわけですね。そして10から9を引いて残った1を、一の位に足す。35だとすれば6になるということですね。当然3だったところは2になるわけで、26っていう答えになるわけですが、35-9という計算において、実際上行っている難しい処理は、位が下がるというか、隣から借りてくるっていうところなんですが、その借りてくる原理がわかりさえすれば、実際にやることは、たとえば一の位には1を足すこと、そして十の位からは1を引くこと。そういう計算で35が26になるということでありますね。そういう規則って子供でも発見できると思いませんか。そしてこのことが発見できるということは、どういうことを意味するかというと、「十の位では1減り、一の位では1増える」ということですから、例えば35という数を作っている3と5というのに対して、新しい数に2と6、26となりますが、3から1減って2、5から1増えて6となっていますから、35のときの3と5の和である8は、9引いてもそれが26となることで、2と6つまり8、変わらないわけですね。つまり、片方を足して片方を引いていますから、全体として不変量になっているわけです。一般に「数の桁の総和というのは、9を引くという計算によって、その総和は一般に不変に保たれる」というルールがあるんですね。このルールはちょっと修正を必要としていまして、例えば9から9を引くというようなことをやりますと、単に0となってしまう。この場合はうまくいかないわけです。同様に、例えば99から9を引く。そういう場合は元々99ですから桁の和は18ですね。でも、9を引いてしまうと、99から9をひくと90になって、桁の和は9となって減ってしまいます。こういうふうに9だけ桁の和が減るということ。あるいはときには桁の和が9だけ増えるということ。そういうことも含めて、「9の倍数性は何も変化しない」という性質がわかるわけで、これが小学校でも習っている9の倍数の判定法の数学的な原理であるんですね。中学で怪しげな証明をやりますけれども、あんな怪しげな証明よりも、小学校の算数で、筆算で計算をするという苦労を積んでいるうちに、子供たちが自分でも発見することができる。そんな簡単な定義なんですから、こういう発見を子供たちの時代にぜひ体験させておきたいと私は思うんですね。
それに対して、そういうのを知育偏重だと言うんだったならば、私は全く当たらない。本当の知力を育む上で十分時間をかけるに値する教育だと思うんです。ところが私がくだらないなと思うのは、知育というよりは単なる知識の詰め込み教育ですね。やれ、細胞の中にはゴルジ体というのがある。ゴルジ体なんていうのは、本当に100年ぐらい前に科学論文に最初に発表された、いわば最新の知見であって未だに未解明の部分もたくさんある。非常に不思議な人間の生命あるいは動物の生命活動において重要な働きをしている。そういう機関であるわけですけれども、そのような機関が細胞の中にあることの発見は20世紀の大きな発見の一つであったと思いますが、その発見の後、それを解明するという科学研究がずいぶん進みましたけれども、そして驚くべき成果がたくさん得られましたが、それを全て解明できているのかと言いますと、現在も進行中の研究に過ぎない。私なんかから見るとそのように見えます。タンパク質を修正とか合成するすごいことが行われているわけですが、そのすごいことがどのようにして、何のために、いかにして行われるか。それが、生命が生きていることと生命体が死んでいることとの間にどういう関係があるか、ということを全て含めてゴルジ体の機能というのを理解するのは、容易でないんではないでしょうか。それを今の学校教育の本では、ゴルジ体というものを模式的に漫画のように絵を書いて、わかったような気になる。顕微鏡で見たときに、どのように見えるか。走査顕微鏡を使えば大体の映像は見えるはずでありますが、その映像を見たって教科書のような絵にはなかなか見えないはずなんですね。そんな漫画のようなもので、体ができているはずがない。生命の小さい小さい深いところ、生命のいわばミクロの世界。その世界の中で重要な働きをするものを、私達のマクロの世界に拡大するときに漫画あるいはイラストのように拡大し、それでわかった気になる。このことの方が傲慢で問題だと思うんですね。
こういうのは、知識をつけているというよりは知識をわかったようにして、死んだ知識として子供たちの中に注入している。大げさに言えば、これは一種の、悪い言葉でありますが、洗脳brainwashingであって、子供たちの脳を育むことではない。子供たちの脳は自然のいろいろな生命活動に不思議さを感じ、それについていろいろと自分で調べてみたいと思う気持ちを育む。これは素晴らしいことだと思うし、ファーブルの『昆虫記』にしろ、私はもっと短いファーブルの『自然の不思議』という本、その物語を読むだけでもわくわくする。自然を観測するということが、こんなに楽しいことだったのか、というふうにわかると思うんですね。それが本当の知育であって、知育は体育や徳育なんかと比べてもっと尊重されなければならない、と私は思います。なぜならば、知育を通してこそ本当に、体育、体を育み、そして徳育、人格を磨くということもできるからであります。
つまり、自然と向かい合ったときに、私達がどれほど謙虚でいなければいけないか。自然と向かい合うためには、私達はどれほど自分の身体を鍛え抜かなければならないか。そういうことについてよくわかると思うんですね。自然の中にある生物、植物にしろ、動物にしろ、そういう小さな生き物たちがどれほど頑張って日々を生きているか。そういう姿を見れば見るほど、私達は私達のへべれけな生活を反省しなければならない、と思うことも多いでしょう。ですから、徳育や体育の大切さを否定するつもりはありませんが、徳育は徳育として、体育は体育として、その科目をやりさえすれば、体ができ、人格が磨かれると、そんなものでは決してない。むしろ、本当に私達が学ばなければならないという対象と対峙すること。そのことを通じて、私達は自分自身を磨き上げる必要に目覚めるんだと思うんです。
私は最近、本当にまだ青年期、幼年期をようやく脱して、少年から青年になろうとしてる時期に、自然科学を語る教科で全く意味のないゴルジ体というのの知識が、重要な基礎事項として教えられているという現実を見て、これはアインシュタインにしても、あるいは福井謙一先生にしても、「理科は学校にはいらない」というのがよくわかりました。知識を注入するという勉強になってしまったならば、自然科学はつまらないという当たり前のことを、みんなに気がついてもらいたいと思っています。
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