長岡亮介のよもやま話263「色々な才能が共鳴する世界」

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 今日は柄にもなく、芸術のことについてお話したいと思います。芸術というと、私達は音楽、絵画、彫刻、あるいは建築、そういうものを連想すると思うんですが、その芸術を支える人、創造する人、その人をアーティストといいますが、このアーティストって言葉が現代において、何か特殊なニュアンスを持って使われるようになったことが、ちょっと残念に思っています。アーティストの本当の正しい訳は、元々のアーティストっていう言葉の由来からすれば、「職人」って訳すのは一番いいんだと思いますが、芸術家と職人、日本語ではずいぶん違ったニュアンスを今持っています。しかしながら、作曲家はともかくとして、演奏家というのはある意味で職人だと思うんですね。素晴らしい演奏をする。その技術は大したものであります。そしてその技術を、やはりその技術に関係している人を含めてみんなが尊敬する。そういう世界ですよね。これが、私は、芸術が非常に普遍的な価値を持つことの背景的な大きな要因だと思うんです。つまり、その世界では、技術的に優れているということが明らかであって、それを否定するということは何人とあってもやってはならない、あるいはやるべきでない。やっても意味がないことである。それが明らかである、という命題が共有されているということです。

 “才能”という言葉。もう使い古されてずいぶん手垢にまみれているように思いますが、才能という言葉が本当の意味で輝くのは、そのアーティストの世界だと思うんですね。合唱にしても、ソロの歌を歌うっていうことにしても、演奏にしても、合奏やオーケストラにしても、本当に職人技の素晴らしさというふうに深く感銘を受けます。自分でちょっとでも楽器をやった人間は、業界の言葉を使うと「ハモる」っていいますが、和音が奏でられる。そのときに、その時空の世界にものすごく豊かな調和ハーモニーがもたらされるということを、みんな経験で知っていると思うんですが、そういう素晴らしい調和を簡単に作り出せる職人は素晴らしいですね。私が特に最近、女性の活躍が非常に華々しいと感じるのです。未だに男女平等とかっていうことを叫んでいる人がよくいます。女性は男性に比べて差別されているって、張り切って言う人がいるんですが、才能の世界ではもはや男女差別なんてことはありえない。むしろ、女性が女性であることを利用して、本当に大活躍をしているわけですね。それがアーティストという職人の世界の大きな特徴であり、バレイにしても、あるいは楽器の演奏、器楽演奏にしても、あるいは合唱、あるいはソロの歌謡にしても、本当に素晴らしいですよね。それは才能を、そのタレントを誰も否定しようがないということに、その健全さの根拠があるように思うんです。

 他方、人間の能力ということに関して言うと、芸術家の能力のように透明な評価軸がない。だから、あの人が偉そうにしているとか、あの人は親が偉かったからとか、そういう本当にどうしようもないことでもって評価が左右されるところがある。芸能の世界では親の七光りとかっていうのが我が国ではまだ影響がある。そういう国に私達が住んでるってこと忘れてはいけませんけれども、少なくとも国際的な本当に先端的な芸能の世界、アーティストの世界ではそういうものは通用しない。本当の意味でその才能が正しく評価されるわけです。他方、才能が評価されづらい芸術の世界があります。それは音楽で言えば、作曲の世界なんかでしょう。現代でも多くの音楽が作曲されています。その中に素晴らしいものがあるのですけれども、いわゆる有名なクラシック音楽というのに比べると、Classical Musicの世界に比べると、モダンミュージックの世界では必ずしもその最も重要な役割を果たす作曲家の評価っていうのは、あまりきちっとしていないように思うんですね。作曲家としてすごいとか、すごくないということが、やはり素人を含めてわかりづらく、そこに怪しげな評論家のような意見が強く反映されるということでありましょう。しかし、芸術の歴史を振り返るときに、天才的な作品を残した人たちが、その生きていた時代から正当に評価されていたということは、むしろ例外的にしかないことで、ほとんどの芸術家、創作活動に携わった人は、不遇なまま一生を終えたという事実があります。

 そして私は、これも人類の歴史なんだなって思うんです。つまり、結局「この世の中で成功するということは、大衆に受ける」ということと、ほとんど同値になってしまっているわけです。芸術的に深みがあるということ、それが本当に評価されるわけでは必ずしもない。それは演奏の世界でもそうでありまして、やたら大衆にチヤホヤされている人がいますけれども、芸術家としてどうなんだろうって思う例が、演奏家の中にも少なくありません。所詮人気とか、あるいは名声っていうのは、大衆によって作られるものなのでしょう。私はそのことに関しては、若干諦め気味です。大衆が本当に聡明になる時代がやがて来るのだろうか。来てほしいと真に願っていますが、そんな簡単にやってくるはずもないと思います。勉強ですら難しいのですから、芸術を理解することはもっと遥かに難しいことではないかと思います。もし、大衆と言われる一般の人々が学問や芸術に関して、プロフェッショナルと同じように、それを理解するということができる世界が来たら、どんなに素晴らしいかと思いますけれども、やはり神様は人々を平等に作っているわけではなく、ある人には存分に才能を与え、ある人にはその才能をめでる才能を与え、ある人にはそのめでる才能さえ与えてくれない。そういうふうに不公平な扱いをするものであると、私はこの年になると思います。芸術の世界が、他の学問なんかと比べて健全なのは、やはり才能が評価されやすい世界であるということが挙げられるかと思います。それは決して正しく全ての才能が評価されていると言ってるわけではありません。しかし、例えば作曲家の才能を評価するということに比べれば、演奏家の才能は比較的正しく評価されているんではないか。学問の世界でも同じく、学問の能力には大きな差があって、その中で本当に大きな業績を上げる人で、存命中に正しく評価されるという人もいますけれども、そうじゃない人も少なくない。

 それに比べると、芸術の世界の方がずっとすっきりしていて、いいなっていうふうに思うんですけれど、学問の世界もあるいは作曲家の世界も同じく、もしその才能が正当に評価されないとしても、それはそれで人間の作る社会というのはそういうものではないか、というふうに諦めることも、ある知恵と言えるのではないかと思うんです。正当に評価されていないと金切り声で抗議する人がいますけれども、正当な評価とは一体何なのかということを根本的に考えるならば、そんなことでいきり立つことはあまり意味のないことであると思うんですね。やはり一番大切なことは、自分が大切だと思っている人に、自分が大切だと思っていること、「それはとっても大切なことですね」というふうに評価してもらうこと。人間の、人間に対する、人間的関係といったものですが、そういうことではないかと思います。そういう中にあって、今まで差別されているというふうな立場に置かれた人たちが、差別されるどころか、世界を制覇するというほどの力をもって、人々の心を揺さぶっている現代の演奏の世界、これは素晴らしいと思いますね。特にオーケストラについては、協奏曲なんかでソリストの人っていうのはやはり素晴らしいわけですが、例えばバイオリンのソリストの人をオーケストラの第1ヴァイオリンの、オーケストラの中では最も上手な人と思いますが、その人が本当に感動しながらそれを弾き、そのソリストに最後に心からなる祝福を送るために握手を求める。そういうシーンもとても感動的です。才能がある人が才能を発揮する。そして、そのことをそばにいて理解することができるということも、ある意味で悲しいけれども美しい人間の現実ではないか、と思う次第です。

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