長岡亮介のよもやま話259「勉強こそ楽しいですね。コメントを歓迎します。」

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 今日は橋本さんのように熱心にレスポンスしてくださる方へのお礼の気持ちと、橋本さん以外の人々からペンネームでも結構ですから、自分自身で責任ある意見をレスポンスとして返していただけると、私としてはこの孤独な作業に立ち向かう勇気が奮い起こりますので、よろしくお願いしたいという気持ちを込めて、「好きなこと、嫌いなこと」ということをテーマとしてお話したいと思います。

 好きなことは、いくらやっても好きだということ、このことが本当は自明のことなのに、多くの人から忘れ去られています。というより、自分で好きなことを探すことなく、好きなことが、周りの人が好きなことによって決まっている。みんながやっているから自分もそれに合わせる。そういう傾向がとても強いのではないかと思います。また、その趣味を同じくする人が、その趣味を同じくする人の中で、また趣味について語り合うというのを趣味にして集まってしまうという傾向がありますね。これは日本だけでないのかもしれませんが、日本は特にそれが強いと思います。私の子供の頃は切手収集とか、昆虫採集してそれをコレクションにするとか、そういう子供の趣味がありました。中には私など平凡な庶民には想像もつかない世界でありましたが、8ミリゲージというような鉄道模型でそれに凝っている、そういうのを趣味としている友達がいました。そういう趣味に没頭する。これもつまらないことだとは思いませんが、というよりは正確に言えば、自分が好きだと思ってのめり込んでやることは何でも良いこと。自分が好きなことというのが世界に向かって自分を開くきっかけになってくれれば、それはそれでいいんじゃないかと思うんですね。反対に自分が好きなことを通して、自分の世界が狭まってしまう。例えば自分が1人で部屋に閉じこもってゲームをしている。朝から晩までバーチャルなファイティングゲームをしている。それが人生の趣味あるいは生きがいになってしまうと、世界に対して開かれているというよりは、どんどんどんどん自分の世界を小さくしている。自分の世界が広がっているように見えて、実は周りによって用意された小さな世界の中に自分の世界を見出してしまうと、そういうことになってしまうのではないかと思うんです。

 反対に、自分が好きなものを通して世界が広がる。これが最高に楽しいことだと私は思うのですけれど、そういう好きなことの中に、橋本さんが指摘されているように、勉強すること。あるいは知識を得ること。自分の知っている範囲を広げること。今まで全くわかんなかったことが、「なんだこんなことか」とわかること。それが、ものすごく楽しいことだと思うんですね。今まで全く見えてなかった世界が突然明るく見えてくる。あの瞬間の喜びというのは、何ものにも代えがたいのではないでしょうか。今まで暗かった世界が急激に明るくなる。これは、自然科学あるいは社会学、人文科学、どれにせよ、それに真剣に関わっている人にとっては、ごく日常的にあることであると思います。残念ながら、日本の学校教育では、つまらない知識の押し付け、本当にくだらないことをくだらなく教えられる。これが反復されていて、それに耐える忍耐心を持っている人が優秀だというふうに言われるにいたっては、まともな神経を持っている人間だったら、こんなものはやってられないと、そう思いますよね。そういうくだらないことに耐えることが、もし勉強ができることと定義されるんだとすれば、勉強なんかできない方がよっぽどいい。勉強ができるほど人間が腐っていくとさえ私は思います。いささか表現は、単刀直入にわかりやすくするために、少し激しい言葉を使っておりますが、勉強というのは、自分自身の可能性を広げるもの。あるいは自分自身の無知の闇を開くことであるのだと思います。だから楽しい。

 例えば、誰でもが知っているイタリア語の歌Che bella cosa na jurnata ‘e sole(O sole mioオー・ソーレ・ミオ)、こういうようなことは、これをカタカナで暗唱している。私も中学校低学年の時代だと思いますが、外国人の宣教師の先生がイタリア語の歌曲を教えてくれました。そしてそれを全然イタリア語の意味もわからずにカンツォーネという言葉とともに最初に覚えましたけれども、イタリア語はわかってからそれを歌うと、全然違うんですね。このカンツォーネが名カンツォーネっていうふうに言われるのは、メロディーの美しさ、あるいはカンツォーネとしての面白さの他に、そのセリフの中にイタリア的な精神が凝縮している。そういうことが背景にあるということが、ちょっとわかってくる。どんな小さなことでも、ちょっとわかるとだいぶ違う。“ソーレ”っていう言葉、“ソウル“って言葉は英語にいろいろありますけども、例えばsoleのソウルは「何々だけ」って意味ですね。soulのソウルは「魂」っていう意味ですね。それに対して、ソウル、イタリア語のソーレと同じ語源を持つであろう単語に、solarという言葉があります。solarっていうのは、solar system太陽系っていうふうに使うときのsun太陽に由来する言葉ですね。そういうふうに言葉の幅が広がるということだけでも、自分の可能性がちょっと広がった気がしますよね。

 本当にくだらないことで言えば、ロシア語の話をさせていただきますと、ロシア語はよくみんなロシア文字っていうふうに言いますが、本当はキリル文字っていうのが正しいんです。ブルガリアのキリスト教の聖人と言われる2人のコンビが、「スラブ系の言語に対して、それを表現する文字体系で合理的なものがない」ということに心を痛めて、いわばちょうど韓国の人がハングル文字を発明したように、ただハングルの場合はひたすら合理的な根拠に基づいて人工的に文字を作ったわけですが、ブルガリアの聖人たちは、ギリシャ語に基づいて、それを利用して、キリル文字っていうのを作りました。キリル文字と言われているものはギリシャ語が元になっていますから、ローマ字が元になっているラテンアルファベット、ローマ字っていうのはローマの文字ですね。だから、ラテン世界のものです。ラテン世界の強い影響下にあったイタリアとかフランスとかスペインとかポルトガルとか、そういう国ではローマ文字を使うというのは、ごく自然なことであります。英語とかドイツのようなゲルマン民族、ラテン民族でないところでも、基本的にローマンアルファベットを使っていますけれども、それはある時代にローマンアルファベットを使う、あるいは使わざるを得ないという歴史的な経緯があったからでありました。それに対して東ローマ帝国と言われていたところの首都ビザンチンを中心とする東ローマ帝国文化っていうのは、西のローマとは相対的に独立な文化を持っていたわけです。そして、その東ローマの辺境にある国、今で言えばウクライナとか、ブルガリアとか、あるいはサッカーで有名なクロアチアとか、モンテネグロとかってそういう国々では、スラブ言語にふさわしい文字がなかった。それで、ギリシャ文字をベースに文字を発明した。私はこのことを知ったのは、なんと50歳を過ぎてからでありました。それまでは全部ロシア文字だと思っていた。そして、ロシア文字がラテンアルファベットと違って、奇妙に違うことに対して、「ピョートル大帝が、これは啓蒙専制君主の代表でありますが、西側列強の国から活字を持ち帰ったときに船が難破して、せっかく持ってきた活字がバラバラになってしまって、そこで混乱が起きた」というような話がまことしやかに、私が学生時代に言われておりましたが、そんなのは真っ赤な嘘で、活字はどんなに乱雑に転がったところで文字が裏返しになるということはあり得ないわけですね。それは数学的に考えてみれば明らかなわけです。

 ロシア語ではRというのをまさに裏返しにした文字が使われている。それ見ておかしいと思う人がいるかもしれませんが、あれは、キリル文字のя(ヤー)という文字で、ロシア語でя(ヤー)というのは、「わたし」という意味で使われますから、かつて宇宙飛行士で女性宇宙飛行士第1号(1963年6月16日、ソ連の宇宙船ボストーク6号)となった人がチャイカっていう名前(コールサイン)だったので、彼女が宇宙から地球に向かって呼びかけるときに「ヤー、チャイカ!」、「わたしはカモメ」っていうふうに言ったんですが、ロシア語はBe動詞がないので、「ヤー、チャイカ!」だけでいいんですね。「私はかもめ」ってそういうふうに訳されたんですが、本当は「私はかもめですよ」とか「私がかもめよ」とかっていう意味なんです。ロシア語のя(ヤー)が、普通のラテン文字の逆さまになっている。これは逆さまになっているんではなくて、最初からそういう文字なんですね。その他の文字で言うと、一番日本人にとって不思議なのは、CをSと読むということだと思います。そしてPをRと読むということですね。そのCとPがそのように逆転しているということは、かつてソ連という時代、そういう国があった時代に、今はロシアになって、分裂してその中核がロシアになってるわけですが、ソ連の時代、米ソ冷戦の時代には、特にソ連の名前というのは、いろんなところに出てきたわけです。ソビエト社会主義共和国連邦、それの略称が、CCCP(Союз Советских Социалистических Республик)っていうふうにラテンアルファベット流に読むんですね。それがSSSRって英語式に発音すれば、Soyuz Sovetskih Sotsialisticheskih Respublikであります。ソ連社会主義共和国連邦、その頭文字。それがCCCPっていうふうに日本人が発音していたもんです。そういうものがギリシャ語を知っていると、例えばRという字が何でя(ヤー)になったのか、ということがよくわかる。ギリシャ語であれば、Rに相当するものはρ(ロー)という記号ですね。ρという記号は、まさにPという記号に似ているわけです。Sに相当する記号はC(シー)のように書かれるということが不思議に思うかもしれませんが、Sに相当するギリシャ文字はΣ(シグマ)なんですね。シグマという文字は筆記体で描くときに大文字は違いますが、小文字は場所によってはまるでC(シー)のように書かれるわけです。そういうような経緯を知っていると、ロシア文字が、あるいはキリル文字、正確には、それがギリシャ文字をお手本として発明された。人工的に発明された。そのときに、ギリシャ文字の言ってみれば起源と繋がっているということを理解すると、ちょっと世界が広がる気がするわけです。そんなことで広がる世界なんかたかが知れていますよね。そんなものは本当に、例えばキリル文字を30分習えば、もう十分わかることです。

 でも、世の中のこと中には、本当に理解するのに時間のかかることっていっぱいあるわけです。そのいっぱいある理解しなければいけないこと、それが理解できたときに広がる世界の拡大な幅ってのは遥かに大きいわけですね。それが勉強の楽しさなんですが、今の学校の勉強っていうのは、そのように自分たちが広がるような勉強じゃなくて、自分たちを縮めるような勉強、自分たちの可能性を奪うような勉強ばっかりになりつつあるような気がして、それはとても悲しく思います。勉強こそが面白いんで、やっぱりどんな人でも、趣味や勉強ですというのが正しいと思うんですね。音楽が趣味という人、絵が趣味という人、書道が趣味っていう人、いっぱいいらっしゃいますが、実はどれも勉強だから面白いんです。そしてその勉強が、もし自分自身を芸術的に高めるっていうだけじゃなくて、自分たちの知識の世界が広がるということだとすれば、どんなに嬉しいことだと言えないでしょうか。今日は皆さんにいろいろなコメントをエンカレッジするために、橋本さんの質問に、また私からしつこくお答えさせていただきました。

コメント

  1. 亀井哲治郎 より:

    毎回,楽しみに読んでいます。
    長岡さんの心の中が存分に語られていて,それが魅力だと思います。

    ところで,今回について,ごく簡単なコメントを。
    ソ連の正式名称は「ソヴィエト社会主義共和国連邦」でしたね。

  2. Leo.橋本 より:

    こんばんは。
    チリの大学に通う私の姉と、日本の大学に通う兄に、よもやま話をオススメしてきました。

    私の姉のお気に入りのお話は、よもやま話50「ローマの休日」だそうです。

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