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今日は、「社会的に弱い人のことについて、常に深い配慮を抱くことは大切である」という現代社会の持っている基本的な倫理を巡ってお話したいと思います。社会的な弱者は、元々は身体的な障害あるいは精神的な障害、あるいは病気、そういったもので引き起こされるものに違いありませんけれども、人間は大変複雑ですから、ある意味で精神的な要素もあり、人前で行動すること、その場面になると途端に怖気づいてしまい、何もできなくなるというようなタイプの人もいらっしゃると思います。そういう人をひっくるめて、仮にここでは「社会的弱者」というふうに呼ぶことにいたしましょう。
人々はその社会的弱者という言葉でもって、ある特定の人々のことを念頭に置くんだと思いますが、自分勝手に抱いたイメージに頼るのではなくて、そもそも「社会的弱者とは何か」というような根本的な視点から問題を見つめると、こんな簡単そうに見える問題も、実はなかなか難しいということがわかります。しかしながら、どんな場合にせよ、そういう社会的弱者と言われる人が誕生したときに、その人に対する思いやりを持つということは、宗教的な倫理感とか道徳とか、そういうふうに何かに教えられてやるべきことではなくて、むしろ私達が自分たちの心の主張に従って行動するときに、自然にそういうふうになるものなんだと思うんです。つまり、「人間は、本来人をいたわりたいと思っている存在である」という主張です。この主張は、「人は元々残酷でエゴイスティックな存在である」という主張と同じように、特に深い根拠というのを示せと言われると、示すことができるわけではありません。でも、人間の心奥底に全ての人が持っている強い強い感情であると思うんですね。そして仮に、一方の感情の強い人、例えば「弱い者は弱い者の責任でなったんだから自己責任だ。そんな者について考える必要はない」と言い張るような人たちは、それによって自分が豊かになっているかというと、実はますます貧相になっている。
例えば、「現実社会の競争に打ち抜くにはリアリズムが大切だ」というふうに思い、本当に自分が出世するために、屈辱的な人間として本当にあり得ない、そういうような卑劣な行為をしている人々は、そのことによってその人たちの精神が破壊されていく。その人たちの精神がどんどん卑しいものになっていく。そういう現実があるわけです。そして、自分の心が卑しくなると、卑しいことをどんなにしても、ますます卑しくなっていくわけですね。昔、あまり上品な表現ではありませんが、大きな企業では上司のお尻が汚くなる。清潔でないとしても、それを舐めるような人間でないと出世ができないという話を聞いたことがあります。人間の社会というのは、軍隊にしろ、病院にしろ、今日本で言えば行政、役所にしろ、上下関係がはっきりしていて、人の名前を長岡さんとか、小林さんとか、高田さんとか、牛山さんとか、そういう名前で呼ぶことはほとんどないですね。ちなみに名前といえば、アメリカではいわゆるファミリーネームで呼び合うというのは非常に儀礼的な印象で、大学なんかで私が驚いたのは、学生と教授の間でも「Hi, George!」とか人のファーストネームで呼び合う。そういう文化が当たり前にあるわけですね。名前っていうのはファーストネームのことであると。これはやっぱりなんか素敵なことであるなっていうふうに私自身は思いましたけど、私自身が教員をやっていて、学生に「やあ、亮介さん」とかって言われたら、ちょっと気持ちが悪いところがあります。何か日本人はそういうところは駄目ですね。長年の習慣なんでしょう。
私が言いたかったのは話を戻しますと、私達が弱い人に対して自分の心を割く。そしてその人たちのために何かしてあげたいと思うというのは、それは自分の満足のためだよという人がいるかもしれませんが、そんな自分の満足という単純な言葉で語ることができないくらい人間の奥深くに根付いている感情であり、そしてその感情に従って行動することによって、人はますます豊かになっていくわけですね。本当に驚くべきことですが、凄まじい犠牲を自分の人生にしいて頑張ってる人とお話すると、こちらが本当に心が動くというか、魂が突き動かされるか、何て言ったらいいかわかりませんが、ものすごく深く感動する。そして、その人と時間を過ごしたっていうことは自分にとってどんなに幸せなことがあったかということを、しみじみと思わざるを得ないというくらい感動する。私もあのような生き方ができたらいいのにな、とは思います。それができないかもしれないけど、あのような立派な人といることができた。本当に幸せだ。そういうふうに思うんですね。そしてその立派なことをしている人たちも、立派なことをしたいと思って、それが自己満足だというんではなくて、まさにそのことによって自分自身の内面世界が豊かになるということを感じているんだと思うんです。
人間社会の中には駄目なやつと嫌なやつでいっぱいいますけれども、そういう嫌な奴に皆さんが憤りを感ずる必要はないんじゃないかとさえ私は思います。なぜならば、そういうせこい人間は既にそのせこさ、あるいは下俗さ、卑劣さ、それによって十分報いを受けていて、その人たちは本当にかわいそうな人生を生きているということですね。ですから、決してその人たちがうまいことやって人生を上手に生きてるなってと羨ましがる必要は全くないというのが私の考えで、その人たちは、本当のことを言えば社会的な強者のような顔をしているんだけれど、本当の意味で弱者である。その人は、もし自分が死ぬ時というのが訪れたならば、本当にバタバタと慌てるのでしょう。そして、そのときに、その人が一生懸命追求してきた現性的な利益というのは、何にも意味を果たさないという現実を突きつけられて、さめざめと、本当にさめざめと涙も出ないくらい悲しい思いをするに違いないと思います。そういう意味でも、そういう人も社会的弱者といって本当はいいわけですから、その人たちのためにも、私達はできることをできるだけやっていかなければいけないと私自身は思っています。
しかしそのことは置いておいて、その社会的に弱い人がいるときに、その弱い人のことを思いやる気持ちっていうのはとても大切なんですが、私が最近気になるのは、その社会的弱者っていうレッテルを人に貼り、あるいは自分でそのレッテル貼る。身体障害者用の自動車のステッカーマーク、あるいは老人マークっていうんでしょうか、そういうのって言ってみれば自分は弱いんですよってアピールしているようで、私は自分がそのステッカーの対象者であるのですが、そのステッカーは貼りたいと思いません。なぜならば、やっぱり一人前に見てほしいっていう気持ちがまだあるからで、そのように弱者として扱っていただかなくても、まだまだ少しだけは自分でやっていける。そういう思いがあるからなんです。その社会的弱者というものをイメージについて、私達はもっともっと遥かに豊かなイメージを持たなければいけないのに、すごくそれを固定化しようとしているという傾向があります。確かに、精神的にしろ、あるいは肉体的にしろ、はっきりと病気であるというふうに診断できる。そういう場合には話は簡単かもしれません。しかし、診断と言っても、所詮それは物理学的な診断というわけではありませんから、人間があるクライテリオンに従って判断しているだけでありますから、所詮人間的な判断に過ぎない。ですから、誤謬もあるかもしれない。そういうふうに思わなければいけないと思いますけれども、それでも、やはりはっきりとした障害がある人はいます。前もお話したことありますが、私は色覚異常でありまして、いわゆる赤色色弱、赤と緑の区別が、それが並んで混在しているとよくわからないっていう、そういうタイプの人間なんですが、おそらく目の色を見分ける視細胞の構成が一般の人々とちょっと違う、それが遺伝的な形質として私の中に生きている。それは私らしさでもあるわけですから、大切にしていきたいと思っておりますけれど。そういう意味で、医学的にはっきりと判定できる弱者っていうのもあるんだと思います。
そうではなくて、もっとなんていうか、概略的にというか、一般的にというか、体力がない人とか、そういう言い方もありますよね。体力が強い人って言い方もありますね。体力っていうのは一体何で測るのか。それを測る物理的な単位は何なのか、ニュートンとかダインとはそんな単位があると思えませんし、学力にしろ、体力にしろ、力という言葉を使うわけでありますが、本当のこと言ってよくわかっているわけではありません。本当にはわかってなくても、やはり弱いとか強いとかっていうことに対して、私達が心を配る。それは悪いことでないと思うんですね。そうではなくて、やはり、ここはこの限界を超えたら身体障害者として手帳をもらえる。その手帳をもらえれば駐車場はどこでも止められるとか、そういうようなその権利、それがつき飛ぶようになってくると、ややこしいことになるんだと思います。体が不自由な人に席を譲るというのは当たり前のことでありまして、私なんか若い頃は、電車に乗るときは、少しでも自分の筋力を鍛えるためにわざとつま先立ちをしてバランス感覚を鍛えたり、あるいはつり革に向かって懸垂運動したりして、はた迷惑な乗客だったと思いますけれど、今、私は圧迫骨折をした関係で少し姿形が猫背になっている。私がヨロヨロと電車に乗ってくると、私が決して席を譲ってほしいと思うわけではありませんが、若い女性や学生から、「どうぞ」って席を譲られると、照れくさい思いがします。私がもうそういう立場になってしまったのかと思うと、ちょっと照れてしまうわけですね。「いや結構です」というふうについこの間までは言ってたんですが、この頃はそういうご厚意に甘えるということで、私も何らかの意味で社会貢献ができるかもしれないと思い、ありがたく席を譲っていただいたりしています。そういうときって、要するに、社会的弱者の括られ方がはっきりしないし、社会的弱者の権利がはっきりしない。その席を譲っていただくっていうそういうようなものだから良いんで、これが身体障害者手帳とかなり、それをもらうと病院に行っても医療費が安くなるとか、そういうふうになると、何かちょっと不潔なものを感じるんですね。なんか全体主義国家で、自分たちだけいい思いをしている支配者が存在するのと似たようなもので、逆に障害者であるということを理由にして、あるいは弱者であるということを理由にして、自分たちの権利を獲ち取る。それが当たり前だっていうふうになりつつある。これは、私は決して豊かな社会ではなくて、やはり貧しい社会に向かっているんだと思うんですね。
大切なことは、どんな人も強い面もあれば弱い面もある。そして、弱い面が大きく出ていて傷ついてるとき、その人の心に少し近づいて、「頑張れば何でもありませんよ」とか、「このことができないかもしれませんが、できないなんてことは、そんなにくよくよすることでありませんよ」と言ってあげるというのも、初歩的な思いやりの一つかもしれません。でも、反対にそういうことを全く気にしないというのも、思いやりの一つではないかと思います。私は音楽は大好きなんですが、これを聞いてる人はおわかりだと思いますが、音楽が大好きなんですけど、やっぱり基本的に音符を読むとか、そういうことをできない。音符をそらんじることもできない。鍵盤楽器の鍵盤を指で覚えるっていうことはできるんですけれど、その理論的に弾くとかっていうことができないわけですね。文字を知らない人が、物語は暗記しているのと同じです。私にもそういう苦手なものはいっぱいあります。逆に言えば、得意なものはわずかでありますが、その得意なものがたまたま現代で重視されているものですので、ずいぶんありがたい思いをしてきたんだと思います。私の知人の中には、長岡さんなんか数学ができるからたまたまいい顔してるだけじゃん、というふうに言われるんですけど、そのまさしくその通りで、数学ができたって何の意味もなかった、おそらく平安時代の貴族社会の中に私がいたとすれば、歌詠みが下手で、ろくでもない人間だと、本当につまはじきにされていた。それであってもおかしくない。そういうふうに思います。
一方で、今、数理系の知性っていうのが、何をやるにせよ、例えば研究をするにせよ、ビジネスをするにせよ、もうありとあらゆるそこで数理的な考え方っていうのが、すごい威力を発揮する。これが明らかになってもう300年たっているんですが、人々の目にわかるようになったのはここ数年かもしれません。生成AIなどと言われるようなもの。それによって人間の社会が変わるって、こんなことを勇ましく言う人がいますが、実は数学によって社会は大きく変化しているわけです。数学的な思索力っていうのがあるかどうかっていうのは決定的に重要な時代に生きているんですが、残念ながら多くの人は数学的な思索力がどんなものか知りません。実際、多くの高校生や大学生を数学ができるっていうことは、先生に出題された数学の問題が解けるとということだと思っているんですね。そんなものは解けるように出しているんですから解けて当たり前で、数学の力でも何でもない。数学の力というのは、「その数学の問題を解くということが、本質的に何がわかれば良いことなのか」っていうことを見抜く力なんですね。そういう数学の力が大切にされる時代に生きているんだ。私は社会的な弱者にはなってないんですけど、ある意味では、私が社会的な強者として数学ができない人を社会的弱者としていじめているという可能性もあるんだと、こういうことを知人に指摘されてはっとしました。社会的弱者と社会的強者、これはいつもパラレルに存在していて、だからこそ社会的な弱者を思いやることが必要なんだ。つまり、社会的な強者というものがいろいろな偶然によって強くなったに過ぎなくて、それはちょっと状況が違っていたならば弱者に転落していておかしくない。そういう社会の中に生きている以上、私達は自分の持っている幸運とか不運、それによって強者だとか弱者だとかって威張るんではなく、不運がどうしてそのように、自分には幸運が恵まれ、人には不運が降るか。それは私達の知る由もないことなんですから、そのことを私達が静かに謙虚に心で受け止めながら生きる、ということが大切なんだと思うんですね。
今の世の中では、例えば反社会勢力という言葉があって、その言葉は本当にひどい言葉だなっていうふうに私は思ったんですが、私達数学者はひょっとすると反社会勢力なのかもしれないと思うんですね、言葉の文字通りの意味で。なぜならば社会のおそらく99.9%の人は数学のことわからない。それでいて数学を知らなきゃいけないというふうに言われていたら、本当にその人たちはやっぱりつらい人生を生きていますよね。それで必死に数学の問題を覚えて、問題の解答を書いて、秀才のふりをする。そういうことを生涯続けるとすれば、何と情けない人生でしょうか。もうまさしく社会的な弱者だと思います。そういう弱者が少しでも生まれることを防いで、弱者と強者との間で調和のある社会を数学者も目指していかなければいけないと思うんです。ということで、今日は「社会的な弱者」っていう言葉について、私達はもっとイマジネーションを豊かに持つべきではないかということについて、お話いたしました。今ちょっと音が途切れ途切れに入りましたかもしれませんが、私が若い頃、あまり社会的な弱者ということについて知らなかった時代によく聞いていたシューベルトです。
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