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最近これが年をとることなのかと思うことが、「マニュアルを読むのがますます嫌いになる。それによって、新しいアプリケーションを使うというのが面倒くさくなる」という傾向がはっきりしてきたことです。高機能のアプリケーションソフトウェアは何でもできて、自分のいいように使える。これは素晴らしいことのように見えますが、実際私達がコンピュータにやらせたいと思っていることは限られていて、例えば文章を作るためにエディターって言われるソフトを使う。これは、非常に重要なことですね。エディターっていうのは、一般にプログラマーの世界でだけ使われているって思われていますが、プログラミングに限らず、私達が文章を書く、あるいはEメールをする、そういうときに基本となるのは、文章を構成するということでありまして、文章を組み立てるために、よく言えば遂行するということですが、そういうときに便利な道具となるのは、エディターです。
コンピュータでも正しく動くプログラムを書くためには、エディターを使って試行錯誤の繰り返しが必要なことがしばしばあります。ですから、よく使いこなすことのできる高機能のエディターは、コンピュータソフトウェアの中で最も重要なものではないかと思うのです。そういう非常に機能の高いエディターが一つあれば本当はいいわけですね。その一つのエディターを使っていろいろなもののニーズ、Eメールを書くなり、プログラミングをするなり、あるいは文章を作るなり、私の場合は、多くの人がそうであるように、TeX、あるいはそれを誰でも使えるようにしたLaTeXと呼ばれるツールを使って、全てのドキュメントを作っていると言っていいわけでありますけれど、そういうときに、最近はエディターというのを自分のローカルなコンピュータの上に持たずに、ブラウザ上でいろんなことができるという環境に移行しつつあります。それはそれで、いちいち自分のPCにそのようなツールをインストールするという馬鹿馬鹿しい作業をしなくて済むわけですから、便利といえば便利ですね。一昔前は、そういうアプリケーションをインターネット上でサービスするというのはアプリケーションサーバーっていうふうに言ったりしていましたけども、もうそれがそんな特別な言葉で語るような、特別な内容でない。ごく当たり前の話になってきたと言っていいと思うんです。
しかしながら私から見ると、やはり文章を作ったりする上で、そういうふうに与えられた環境、特にいわゆるブラウザを経由して仕事をするというのは、私にとっては非常に気が重い仕事でありまして、例えばいわゆるカーソルつまり入力する部分をアクティブにする。そのカーソルを動かすっていうときに、いちいちカーソルキーを使うっていうのが、本当は面倒なわけです。カーソルキーを使うことなしにカーソル機能を実現する。それは、言ってみればプログラム私の夢でありまして、そういう夢を最初に実現したエディターとして有名なのが、vi、のvは多分visualっていうことなんだと思うんですね。iはinputではないでしょうか。見たまま入力できる。もちろん見たまま入力するために、カーソルキーを使わない代わりに、jfk、こういうようなアルファベットキーを使うわけです。不慣れな人には何と不便なっていうふうに思うんですが、viを使い慣れた人にとってはこれほど便利なものはないということになります。ただ、viのキーの配置は必ずしも人間的にそれを手で覚えるっていうか、手がそれに馴染むというために合理的なわけではありませんので、その規則を体得するまでにはかなり修行が必要でありまして、私の知人の中でviを愛している人は、「手がviモードになる」と、そういう言い方をしていました。私はviを使うよりもさらによりよく使うようになったのは、Emacsエディターでありまして、これは大変に優れていたもので、そのエディターを拡張する機能がエディターの中にある。多くの優れたエディターにはみんなそういう機能があるわけですけれども、Emacsエディターはその中でも特にそういう拡張性に優れたもので、私はそれをずっと愛用してきました。ですから、インターネット上のアプリケーションとしても、Emacsを標準としてくれるっていうサイトがあれば、そちらのサイトだったらアクセスしてもいいなと思ったりもするくらいでありますが、Emacs自身は単なるエディターでありますので、今のところそういうサイトはないようです。ですから、私は自分のローカルなPCにEmacsを使える環境を整備して使うということをやっているわけです。
しかし、そういうときに、いちいち例えばEmacsの新しい機能を実現しようとすると、それのための必要なインストレーションとか、そのための設定とか、いろいろやんなきゃいけないことがちょっとある。ちょっとではありますけどあるんですね。新しいことを覚えるということが、その覚えたことのメリットに比べて努力が小さいならば、その努力はする価値がある。コストに見合う努力であるということですね。つまり、そのコストは払えば、そのコストを十分に上回る利益が入ってくる。そういうことで、その新しい機能を実現するための最小限の勉強、勉強といっても学問的な勉強というよりは技術的な修行みたいなもんですね。それをするわけでありますけど、反対に言うと、勉強したことがその勉強の労力のわりに大して見合わないということが、私はしばしば感じます。多くの新製品のマニュアルについて、前に悪口を言ったことがありますけど、とにかく大変立派に書かれている。しかし、そこに書かれていることのうち、私にとって必要なものは100分の1もない。その100分の1の部分だけ知りたいと思うのに、その100分の1でない部分がたくさんありますから、その必要な情報にたどり着くのに大変に時間がかかる。多くの場合には、私にとってどうでもいい機能がやたらたくさんあって、そのことについて延々と書かれている。私はそれには関心がない。そんなことはどうでもいいということであるのに、ソフトウェアが高機能化しているということもあって、こうすれば全部自動的にできますよっていうような、昔の言葉で言えば、ありがた迷惑っていうことですね。私がありがたいというふうに思ってやってくれることなのかもしれないけど、実際は迷惑でしかない。そういうありがた迷惑のことを、昔は「大きなお世話」というふうに言いました。世話を焼いてくれるのは、焼きすぎていて、それが自分にとって、快適さを通り越して不快なものになるということです。マニュアルの親切さは今や不快の域に達していて、やたら親切だけれども、要するに全体として不必要なことばっかり書いてあるというものになっている。それは結局つまるところ、ソフトウェアの開発者が、こういう機能もあったらいい、こういう機能もあったらいいというふうに、ユーザーを満足させるために、あるいはユーザーをそのような謳い文句で、自分の商品に誘導するために機能を、よく言えば充実させる。悪く言えば煩雑化させる。あるいは付加的なおまけの機能を充実させる。大事なのは本質的な機能だけであるのに、いらない機能を充実させる。そのことの結果ではないかと思うんです。
このことは、私は教育に関して、前に言ったことですが、学校で教えていることは、余分なことばっかりで、本当に大切なことは教えていない。本当に大切なことは何かって言ったら、先人の叡智、珠玉の叡智、その深みを理解することであって、つまらない知識なんかはどうでもいいんですね。特に最先端の知識なんていうのはすぐ陳腐化しますから、そんなものはいらない。実は、そういうのを教えたがる人がいっぱいいるんですね。それはインターネット上の教えたがり屋さんがたくさんいるのと同じで、やはり大きなお世話なんだと思います。昔、「小さな親切運動」というのを政府が推進した時代がありまして、「小さな親切を推進しましょう」と。それに対してうまい言葉で反論した言葉として、「大きなお世話」があったのは、非常にぴったりしていると思うんです。今、小さな親切を売り物にして、誇大広告をしている傾向がある。そのために、マニュアルの肥大化に象徴されるような、ユーザーにとってかえって不便なものが出来上がるという結果。非常に不幸な結果でありますが、それが生まれているということですね。皆さんは、「ソフトウェアはバージョンアップするといい。バージョンアップしないと危険だ。インターネットにはセキュリティホールがいっぱいあるから、そのセキュリティを追いかけるためにバージョンアップするといい。それが一番大切」と、そういうふうに思っている人が少なくないと思うんですが、私に言わせれば、そんなことをするくらいだったらインターネットに繋がないのが一番良い。インターネットに繋ぐパソコンにはごく限られた機能だけを搭載し、危ないことが自分が原因となって引き起こされないように気をつけると良い。そういうふうに思うんですが、いかがでしょうか。
最近は別にコンピュータに限らず、電子レンジとか、お風呂からとか、そういう家電の類のものはみんなお喋りまでするようになりました。そして電子レンジで言えば、全部自動でやってくれるというふうになりました。これはすごく使いづらくて、大きなワット数で何分何秒、それを指定する方がずっと使いやすいと思うのですが、そういう使い方がすごく複雑なメニューの下でしか見つかることがない。上の方で簡単に選べるのは、お仕着せメニューなんですね。全部自動的にやってくれようとする。そういうのは先進的だっていうふうに思われているんですけど、いかがでしょうか。まさに大きなお世話なんではないでしょうか。私は最近、その大きなお世話の文化が特殊な世界だけの話ではなく、文化全体を覆っているような気がして、そのことに対して非常に不愉快な思いを感じている次第で、皆さんにこの不愉快な気持ちの連帯を求める。そういう気持ちから、このメッセージを作ることにいたしました。
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