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最近世知辛い大人の世界の風潮が、若い人々の間にまで伝播しているのか、小学生や中学生も夢多き時代を送っている少年少女たちが、「何に役に立つのか。それは自分の生活をどのように変えるのか」というような、非常に卑俗な問題に大きな関心を持っている。逆に言うと、自分の生活の向上に役に立たない、大人の世界の言い方をすれば出世の役に立たない。自分がお金持ちになるのに役に立たない。あるいはもっと近い例で言えば、自分の入学したい大学、有名大学に進学するのに役に立たない。そういうような有用性の基準というのを、頻繁に持ち出すようになったような気がします。有用性というのはもちろん大切な基準の一つではありますけれども、役に立つものと役に立たないもの、どちらがいいかと言ったら、それは役に立つ方がいい。これは当たり前の答えなんですね。それは、良いものと悪いものどっちがいいか、良いものは良いっていうのと同じような当たり前さなんです。問題は、役に立つか役に立たないかという問題が、ちょうど正しいことが正しくないか、正義か悪か、という問題と同じように、深く考えてみるとなかなか難しいということなんですね。その難しいということを一切無視して、役に立たないことをやるのは無駄であるとか、役に立つことをやるべきだというふうにすごく結論を急いでしまうと、結局何にも役に立たないことを役に立つと勝手に思い込んでやるという、人生の大失敗を若いうちに犯してしまう。もう二度と取り返しがつかない大失敗を犯してしまうということに関して、私は皆さんに十分に慎重に考えるように、皆さんがそういう若い世代でないならば、若い世代がそういうふうにならないように努力をして欲しいと願っているのです。
ちょうど、昨日(よもやま話172「わからないと不安?」)、1分1秒っていう話をした時に、その1秒という単位が私達の生活時間としてはものすごく短いものでありですけども、最近の宇宙論の世界では極めて長い時間になっている。そのくらい精密に宇宙論が形成されているという話。1秒という時間、これをセカンドというふうに言うという話をしたんですが、皆さんは1秒をなぜセカンドと言うか、考えたことがありますか。私は、最初にそれを疑問に思ったんですけれども、その疑問に思ったまま年をとってしまいました。しかし、疑問は心の中にずっとありました。それは何でかっていうと、セカンドっていうのはfirst,second,third,forthっていう、いわゆる英語の助詞、順番を表す言葉ですね。セカンドって2番目って意味です。なぜ1秒が2番目なのか、わかんなかったんですね。1分のことはminuteっていうわけでしょ。それに対して、1秒はsecondって、なんでそういうのかわかんなかった。つまり1時間はhourと言い、1分はminuteと言う。1日はdayと言う。ここのところは全部、言ってみれば単位が統一的じゃない。古典的な原始的な用語を使っているわけですね。1day24hours。1hour60 minutes。1minute60 seconds。ここんところ、ぴったり60で、きてるんですね。ということは、1時間を60分。1分を60秒。そういうふうに分割しているとすると、それは一体どういうことなんだろうかったということでした。
数学的に言えば、60進法というのは使われているということでありまして、古代バビロニアの文明の中には、60進で数の計算を精密に行っていたっていう記録が粘土板の中から解読されてきていて、それ自身非常に感動的な事実なんですね。いわゆる直角三角形の斜辺と一辺の長さの比というのが、こんにちで言うと√2とかっていう無理数を簡単に表現する表現方法があって、しかもその10進法という、もう本当に合理的な言ってみれば本当に誰でも使える方法を私達は知っていますから、平方根の2という数が出てきてもそれが1.414.…という数であるというようなことが簡単に計算できる。計算方法を知らない人でも、電卓や携帯電話を持っていれば、その計算ができる。そういう世の中に生きていますね。そういう方法を持ってなかった古代バビロニアの人々は60進法、60進法の少数っていうのを使う大変なことなんですね。つまり、一の位はいいとして、その次の位は1/60の位なんですよ。その次の位、小数第2位に相当するのは602、1/3,600ですね、10進法で言えば。そういうのを位取りとする記数法で、√2の非常に正しい近似値を表示した粘土板が発見されたんですね。驚くべき大発見です。
何か考古学的には、おそらく古代エジプト、古代エジプトと言っても実はごく最近の王朝のものなんですが、ツタンカーメンのお墓から発掘されてきた美しい王子の像、これがもう大人気を博していますね。確かに黄金やラピスラズリのような高級な宝飾品を使った贅沢な作品だと思います。芸術的に見てもなかなかレベルが高い作品だと思いますけれども、だからなんだと思うんですね。その時代であればできたとしても不思議じゃない。そんなにえらい昔のことではない。ごく最近、本当に古代エジプト帝国が滅びる直前の話でしかない。ですから、エジプトの古代王朝の時代の話とは全然違うわけですね。ギザの大ピラミッドって有名なやつがありますけど、そんなものよりもずっと新しいわけですね。そんなことを考えますと、ツタンカーメンの話題に対して夢中になっている日本人にとって、私が言った「粘土板の発見」っていうのは何でそんなに画期的なのか、そう思われるかもしれませんが、それを実現した数学的な知恵、あるいは科学的な叡智、それは亡きファラオの彫像を写実的に作るということ以上に、遥かに高級な知的な鋭利だったと私は思うんです。お金がかかったかどうかは知りませんけれど。そういう話も私は常識として知っていた。60進法で記されたその値を私自身が実際に当時は手計算でしたけど、手計算でやってみて、それがまさに今日の私達の√2に相当するものに一致しているということを確認いたしました。すごいことだと本当に感動しましたが、そのときに、その読み方がどうなっているかっていうことについて知らなかったんですね。粘土板には読み方なんか書かれていませんでしたから。
ところが、近代になってネピアという人が“対数”というのを発明したということは、皆さんご存知だと思うんです。ネピアの業績は対数表を作ったことであると普通の人は思っていると思いますが、対数表の話も非常に重要な話ではあるんですけれど、もっともっとネピアの本質的に重要な貢献は何かというと、小数を使って、その小数のしかも小数の第何位までってすごい高い小数第30桁だとか、そういうところまでの小数を使って、精密に今日に言うところの実数に相当するものの近似、あるいは有理数と言ってもいいですけど、それの数表を作った感覚ですね。言い換えれば、数直線のような直感的なイメージでは、点は無限に連続的に連なっている。そういうふうに思っているわけですね。それに対して、私達はその数直線に相当するものを実際に実現することはできませんが、それに近いものとして数表というものを、小数点を細かく取れば細かく取るほど、いわば有理点でもって細かい表を作れば、実数をいくらでも近似することができる。今の言葉で言えばそういうことになりますね。そういう感覚だから、ネピアの一番偉大なことは、実数に対するアプローチを、自分の人生をかけて実践したっていうことでありまして、それまで従来数学者っていうのは、こんにちでいえば無理数に相当するもの、無理数などという変な表現ではなくて、もっと昔は難しい言い方をしておりましたけれども、その無理数のようなものは、本来有理数のように扱うことができないんだっていうこと。いわば、その間に絶対的な壁が存在するっていうことに対して、ひれ伏していたわけですね。ほとんど唯一の例外と言っていい人がアルキメデスだったと思いますが、アルキメデスは実数の中にある円周率πを非常によく近似する分数列、それを作りまして、しかもその分数列を利用して、それをできるだけ覚えやすい、理解しやすい分数として表現し直した。数学の言葉でいうと連分数とに言われているものなんですが、それを使って非常に見事な表現を与えた。これは実用的に実数に迫った最初の例だと思いますが、ピタゴラスを除くと、その後実数に迫る研究というのは、実用的なレベルでの話はいっぱいありましたし、天文学研究というのはまさにそのようなものであったわけでありますけれども、実数そのものに向かって、計算をいくらでも細かくしていけばできるんだっていう発想で、自分の生涯をかけて対数表を作った。これは大したもんなんですね。本当に大したもんだと思います。発想が偉大なんです。
でも、そのネピアの対数表を見て本当に感動し驚いたのは、なんと数を表現するのに、ちゃんとそのアラビア由来の正統的な数表現を使っている。つまり、角度でもって数を表しているわけです。0から90度までの角なんですね。0から90度までの角、別に数、自然数とすれば、何でもいくらでもいいわけですよ。でも例えば、1未満の実数っていうのを考えるとしましょう。なんでもいいんですが、1未満でも10未満でも何でもいい、何かの基準それより小さい正の数を考えるとする。一番その中で一番大きいものを1とするっていうのが数学的には一番単純ですね。ですから0と1の区間を細分する、細かく分ける。そういう発想が一番自然なんだと思います。こんにちだったらば当然そうするところだと思います。あるいは1から0っていうのを考える。そういう手もあるでしょう。対数だったならば、こんにちそのような作り方でやるのが常用対数と言われるものに関しては一番合理的だ、というふうに思うかもしれません。私が子供の頃使った対数表はあまり記憶に正確にありませんが、1から100で作られていたと思います。曖昧な記憶で大変恐縮ですが、だから正確さは全く保証の限りではありません。そういうふうに10進法で暮らしている人間であれば、そう取ってもおかしくないところでありますけれども、ネピアは10進法というのについて、それを完全に自分のものとしていないんですね。10進法が人々の間に広まるためにはもう1回大爆発が必要だったわけで、それはもうちょっと後のことになります。ネピアの頃は10進法ではなかったですね。ネピアは、表概念を0から90を基準にしました。そして、その0から90の自然数の値に対して、彼は単位をつけなきゃいけないと思って、それを「度」と呼んだわけですね。角度の度です。1度から90度。1度から90度っていうと、90度まで90等分しただけですからずいぶん粗いですよね。ネピアは当然、1度と2度、2度と3度、その間も等分しました。それを1分としたわけです。なぜ1分としたか、これは古代バビロニア以来の伝統でありますね。60進法わけです。その60進法で、1度を60分割したものが1分なんです。そして、1分を60分割したものが1秒と言われるもんなんですね。これおわかりになりましたね。つまり、基準になるのは「度」であって、その1桁先小数第1位がファーストの位、それが1分で、1分のさらに下の位が1秒、セカンド、小数第2位っていうことなんですね。少数第1位という意味での1分が、時間の単位として1分として、同じように混同されて使われるようになり、私達は時間に関しては未だに60進法を使っているわけですね。
マラソンの記録を言うときなんかも○時間○分○秒、そしておかしいことには最近は秒の下の単位まで測れるようになりましたね。その秒の下の単位まで測るのは大変結構なんですが、そのときに、本来ずっとそれまで60進法を使ってきたならば、60進で言うべきなのに、アスリートの人たちは数学を多分知らないんだと思うんですね。そこから先は、10進法になっているんです。だから、1秒の下の単位が、0.1秒あるいは0.01秒、つまり10進法でさらに小数を細かくしていく。そういう近代人が中世イスラムの世界から学んだ文化的な伝統を、昔ネピアなんかはイスラムの文化的な伝統を尊重しながら、自分たちの新しい文化を作ったわけですね。ところが、今私達はイスラム文化であるということも知らずに、ヨーロッパ文明を真似し、そしてそのヨーロッパ文明の中で確立してきた10進法っていうのを途中から勝手に混ぜてぐちゃぐちゃにして使っている。ひどい文化的な伝承の中にいると言ってもいいわけです。
今日はお話ししたようなことって、何かに役に立つでしょうか。きっと何にも役に立たないですね。アスリートの悪口を言うときに役に立つというくらいのもので、そんなものは本当に役に立つことにも何にもならない。アスリートに数学的な頭脳を求めるということの方がおかしい。アスリートでそのような数学的な聡明さを持っている人は例外的に存在する。そして、しかも立派なアスリートの中にそういう人が多いというのは事実だけど、全てのアスリートで記録を作れる人が、そういう数学的な知性を持っているというわけではない。私は相関関係を取るっていうことさえしていませんが、きっと相関関係は大したことはないでしょう。要するに、数学的な知性がアスリートにとってものすごく役に立つか、といったら役に立ちっこないと思うんです。でも、今私の話を聞いてくださった方は、「なんだそういうことだったのか。面白かった」って言ってくださると思うんです。これを聞いててくださった方は、ほとんど私は99.9%と思っているんですが、面白いと思ってくれたと思う。その面白いと思ってくださったのは、役に立つっていうのとはちょっと違う。でも、実際にはこれからセカンドとかっていう言葉に接したときに必ず思い出す、とても心の多くに深く刻まれる記憶として、皆さんが死ぬまできっと覚えていてくれる。そういう知識との出会いではないかと思うんです。そういうことって、役に立たないって気楽に捨ててしまっていいのでしょうか。そのように一見役に立たないように見えるものこそ、本当に大切なもの、本当の意味で役に立つものなのではないでしょうか。有名なサンテグジュペリの言葉に、「大切なものは目に見えない」という言葉があります。大切なものは目に見えないだけではない。手で触れることもできない。耳で聞くこともできない。目で見ることができないだけじゃない。でも、大切なものは心でわかるということです。心で気持ちいいこと、心に嬉しいこと。そのことが、人生で最も大切なことであって、役に立つことでは決してない、というのが今日のお話でした。
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