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私が常日頃考えていて、なかなかこういう場でお話する機会を持たなかった問題について今日はあえて触れてみたいと思います。それは、いわゆる不登校の子供たちが増えているという現象に対して、「その現象が異常である。不登校の子供たちをもう1回登校させるように、いろいろな人が協力して努力するべきである。不登校に追いやられてしまっているかわいそうな子供たちを救ってやるべきである」という考え方が日本ではどうも主流を占めているのですけれど、私自身自分自身の学校経験から言っても、小学校のときはとても楽しかったという記憶がありますけれども、中学・高校の6年間に関して言えば、本当につまらない勉強だらけで、面白い例外的なものの存在のおかげで、私の6年間は救われましたけれど、もしそういうものがなかったとしたら、本当に中学・高校6年間学校に通う意味はなかったんじゃないかと思うくらいです。
本当は中学高校時代っていうのは、二度と来ない青春時代ということで、最も楽しいウキウキした時代であっておかしくない。私自身にもそういう思い出がないわけではありませんけれども、大学に入ってからの方が遥かに楽しかった。つまり中学・高校の頃は、言ってみれば、型に決まったいわゆるお勉強というやつを強制されていて、それから少しでも自由になろうとすると厳しく弾圧された。弾圧という言葉はちょっと激しすぎるかもしれませんけど、非常に厳しい指導が待っていたということです。それで学校が嫌いだという思い出を持っているのは私だけではないようで、有名なのは有名なアルベルト・アインシュタインでありまして、彼の学校生活に関するエッセイあるいは彼の残した言葉は、とてもエスプリに富んでいて楽しい。特にその中でも大事なのは「教育とは、学校を卒業した後に残るもののことである。」要するに学校で教えてもらうことは一切役に立たないっていうことを、非常にうまい言葉で表現しているわけですね。「学校で教えてもらったことというのは、Education学習あるいは教育になっていない。単なるつまらない知識の伝授に過ぎない」ということを、アインシュタインは言っているんだと思います。
そして私がそれを確信するのは、私自身も自分の生活の思い出、特に中学・高校の6年間に関しては、つまらない授業が圧倒的に多かった。ただし、とても興奮するものがいくつか例外的に存在したおかげで、私はそれで救われたという思いがあります。勉強自身が嫌いだったとか怠慢であったとかということが、その根底に見ある理由かもしれませんけれど、私は決して勤勉な方ではありませんでした。でも、自分が好きなことに関しては熱中するということを勤勉と呼んでもらえれば、十分勤勉でもありました。そういう意味では、小学校の頃が典型的でありますが、私は全く勉強したっていう記憶がありません。本当に劣等生だったんだと思います。たまたま小学校の5年の3学期の終わり、6年生の始めから横浜に転校するという私の人生にとっての大事件があって、これはいわゆる勉強というものをしないと大変なことになるという事態を突きつけられたときに、大慌てで勉強らしきものをやったという経験を通して、その多くの人が夢中になってやっている勉強がいかにくだらないものであるかっていうことを、小学校6年生の時に経験しました。結局いわゆる秀才と言われる人たちが実は何もわかっているわけではない。本当に意味のない知識を詰め込んで覚えているだけであるという現実を、小学校6年生にして見せつけられたわけです。中学に入りますと、勉強も少しはまともなものになってくるはずでありましたけれども、多くの科目において、勉強はひどく閉塞的で、窮屈、退屈、そんなものでありました。
そんな私ですから、学校の不登校という問題が出ると、大いに結構ではないか。不登校の子供たちに、不登校の権利をちゃんと認めよう、と私はそういうふうに考えます。ただし、不登校であることによって勉強の機会を一切剥奪されるというのは、人生にとってあまりにも巨大なハンディキャップです。普通に学校に行って勉強している人でさえ、まともな勉強の結果が残らないわけですから、まして学校に行かない子供たちが、中学校・高校で身につけなければいけない基盤的な人間としての基礎教養、これを独学で身につけるというのは容易なことでありません。私達は、そういうためにどういう体制を、あるいはどういう社会を準備しなければいけないのか。どういう制度を整備しなければいけないのか。そういうことに知恵を絞るのは大切なことだと思いますけど、不登校の子供を学校に普通に通わせる。それが常に良いことである、最善のことであるというふうに考えるのは、全く馬鹿げたことだと思うんです。私は不登校の子供たちの中でこれを聞いている人がいたら、その君たちに言いたい。不登校であることには、ちゃんと理由があるんだと。理由をきちっと考え抜くというのは素晴らしいことだと。でも、不登校を理由に勉強しないとしたら、それは人生一生棒に振ってしまうことだと。
本当に不思議なことですが、勉強というのはタイミングっていうのがあって、中高6年間の頃の勉強というのは、生涯の勉強の基盤をつくる非常に重要な時期の勉強なんですね。ですから、そこをおろそかにしないで欲しいと強く叫びたいと思いますけど、正反対に言えば、学校に行ってさえいればそのような基礎力がつくというのは全くの幻想であると思います。私は、私自身が仲間と一緒に始めたNPO法人で、今実際に茨城県に存在している学校で、ある意味で「教え込まない教育」、単なる結果だけを教え込む、そういう先端的な知識を身につける教育というんではなくて、知識をひとから教えてもらうのではなく、自ら発見する。その「発見するのを待ってやる教育」という新しい教育のスタイルを実践して約3年の時を経て、その中で素晴らしい子供たちが育っているっていうことは、私の人生の最後を飾る、本当にフィナーレのような喜びであります。
一般にそのように恵まれた環境に育っていない若い学生諸君が、生徒諸君が、「学校の勉強は気に入らない。先生の言うことは気に入らない」ということがあれば、それを拒否する権利があるんだということ。最近では何かLGBTQとかそういうことばっかり話題になるんですが、もっともっと本源的な人間的な欲求である、人間の尊厳に関わる「学習したい」という人間の本質的な欲求、それを抑圧するような学校制度っていうものに対して反発する人がいれば、私は反発する方が普通なんだ、と皆さんに伝えたいと思います。普段はなかなかこういう過激な発言は慎まなければいけないと思いまして、切れ味の悪いことを言っている私ですが、今日はちょっと思い余ることがありまして、このお話をすることにいたしました。
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