長岡亮介のよもやま話249「虹を観察してみよう」

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 私達は物事を客観的に眺める力があると信じています。しかし私達は、自然の風景を見つめていても、そしてそれにずっと目を凝らしてみたとしても、自然の風景のいわば本質が目に見えるわけではないということについてお話したいと思います。

 よく「虹は七色」と言いますけれども、まさにウルトラレッド・ウルトラバイオレットっていう言葉があるように、赤外線・紫外線、そのところは人間の目には見えない。そして、赤外線と紫外線の間に含まれている波長の光が人間の目に見える、いわゆる可視光であるわけです。赤から紫って、非常に私から見れば似ている色が、その正反対に並んでいるっていうこと自身がとても不思議なことであるのですけれども、光のそのような様々な色の振る舞いは、今述べた光の波長あるいは光の振動数というものによって決まっているということは、17世紀の頃から知られていたわけです。プリズムの発明あるいはプリズムの発見が偉大な革命をもたらす技術的な契機となったわけですね。ガラスを細工することによって、いくらでもプリズムを作ることができる。そしてそのプリズムを作るのと同じような原理で眼鏡を作ることができる。このことの発見は、それまで視力が弱いためにひどく苦労していた人々に、文化に向かっての明るい窓となったこと違いありません。

 ところで、「虹は七色」とみんなそう言うんですが、本当に虹は七色に見えるでしょうか。私自身は自分が色弱なこともあって、色がいくつかの段階でくっきりと違うなと、こことこことは区別できる段階を4段階くらいははっきり言うことができる。しかし7段階で分けることは結構難しいなと、私自身は感じております。しかし、光の原理を知ってればわかることでありますけれども、実は7段階に分けようと70段階に分けようと700段階に分けようと、光はそこにいわば無限のバリエーション、バラエティを持って、いろんな光が入り交じっているわけです。太陽光線の中には驚くべきことに、色を出だしてない光、つまり黒い光もあって、これが太陽の光の本質というのを明らかにする非常に重要な発見であるわけですが、太陽光、白色光というふうに普通言われていますが、全ての色が混じり合っていると言われている太陽光の中にさえ、光ってない色、つまり太陽の表面でおそらく吸収されてしまって、地球には届かない色があるわけです。スペクトルというような言い方を、物理では一般にしますが、光がその波長によって、はっきりと見えるところと全く見えないところ、それがわかれているということです。

 今お話したいのはスペクトルのことではありません。太陽光線のスペクトル分解というのは、よほど良い実験装置を使わなければ、人間の目には判定することができない。そのくらい太陽の光は、多くの光が本当によく入り交じっているわけです。いわば連続的に分布している。赤から紫に至るまで、全ての色の光が連続的に分布していると言っていいくらい、光は細かく分布しているわけですね。そう考えると、虹は七色どころか、20虹は無限色と言ったって全くの間違いではない。それに代表的な色をつけて、日本人は七色と呼んでいますが、民族によって虹をいう言い方はいろいろであります。虹という現象の持っている不思議な魅力は、古来より多くの人々の心を捉えてきたに違いありません。そして私達は頻繁に虹を見ていますが、その虹を見ているその習慣の中で、どっちの方に赤がきて、どっちの方に紫がくるか、それを理解している人はどのくらいいるでしょうか。実際には漠然として、赤から紫に代わる虹の色を見て、虹は美しいなというふうに捉えている。そして「虹は七色」っていう先入観でもって、それを七つの色に分解して捉えているというだけではないかと思うんです。もしかしたら観察の鋭い人は、虹の色の分布がどちらが赤でどちらが紫であるかということを理解しているかもしれません。それは立派なものです。虹を観察しているということですね。言われたことをそのまま鵜呑みにしていないという意味で、そのような観察をする人は、いわば自然科学者の卵であるといっていいと思います。

 虹という平凡な現象を私達が見るときに、虹そのものには注意がいっていますが、その虹を挟んで空の色が違うということに気づいている人はどれだけいるでしょうか。虹は不思議なことに、「虹がかかっている」、英語ならrainbow、雨の弓、bow、フランス語でarc-en-ciel(アルカンシエル)、空のアーチ、そういうふうに言いますが、そのアーチがかかっている。あるいはbowがかかっているその上側というのでしょうか、その上側の方が暗いんですね。この現象に私が気づいたのは子供の頃でありましたが、それがどうやって説明できるのか全くわからなくて、水の屈折さえ知らない少年でありましたから、その自然の神秘に打たれたままこの年まで来てしまいました。この年まで来ると、光学に関する、Opticsに関する基本常識を動員すれば、それを説明することはできなくはないなと思いながら、虹の現象を見て、平凡な現象の中に潜んでいる、ごく当たり前に潜んでいる事実に気づくことは、やはり意外に難しいことなんではないかと思ったりします。

 「なぜ虹ができるのか」という問題に最初に取り組んだのは、17世紀の科学者、哲学者たちでありました。多くのそのような失敗の後に、アイザック・ニュートンなどが出て、光の学問、Optics、光学に関する精密な議論を組み立てるっていうことに成功するわけです。そして、光学はその後ものすごく大きな発展を遂げるんですが、残念なことに、最近の日本の理科では光学について、非常に単純な凸レンズ凹レンズによる実像虚像の作図という非常に単純化された場合を扱っているだけで、本当に光学の持つ面白さ、特に私は光学で最も面白いと思うのは、光の波動性を立証する干渉縞の模様だと思いますが、そういうことを精密に勉強するという機会が全く与えられていない。高等学校においてさえ、それがない。高等学校では、音波の干渉っていう話はありますが、それは音波の話であって、非常に不思議なのは、音の波よりも不思議な光の波なわけですね。光は直進するという粒子性、particleとしての性質を持ちながら、同時に波としての性質を持っている。粒子と波、粒子と波動の二重性、これが光りあるいは電磁波と総称されるものの大きな特徴なのですが、その本当の入門的な話題である光の干渉模様、こういうものを全く学校で扱わなくなっているのは少し残念に思います。

 そのように光学が、Opticsがあまり重視されない背景には、やはり虹についての神秘を理科の教材の中心に置かない日本文化の片々性があるんではないかと。要するに落体の実験とかっていうのはもうやたらよくやるわけですね。しかし、落体の実験なんていうのは、ある意味でもうGalileo Galileiの時代に終わっていた話でありまして、21世紀の今、わざわざ中学生がそんなことを勉強するのかと思います。21世紀の子供たちには、21世紀にふさわしい自然科学の基盤的教養を身につけてほしいと思うんです。そのためには、まず遠くを見て、虹を観察してみようよと私は言いたいのですが、いかがでしょうか。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    おはようございます。

    長岡先生は、数学で「コイツには、絶対に敵わないなあ。」と感じた事はありますか。
    おそらく、多くの数学者、多くの学生との出会いに恵まれた長岡先生であれば、その経験は3回はあると思うのです。
    そう感じた時、どんな感情を抱きましたか。
    私の隣の席に座っているY君は、とても数学ができて、同じ中学2年生なのに大学院レベルの数学と格闘しています。
    数学オリンピックでも、努力をあまりせずメダルを獲得してきます。
    僕は、10歳の時にY君と知り合い、その時は分数の計算を一緒にしていました。しかし4年後の今、彼は雲の上の存在、まさに虹のように無限の色を放つ存在となりました。
    私は、最初は、「悔しい、羨ましい、何でこんなに差があるんだろう。自分の脳ミソを恨むしかないではないか。」と醜い嫉妬心を抱いていたのですが、最近はその気持ちも少し変わって、「ここまで圧倒的に力の差を見せつけられると、気持ちが良い。とにかく気持ちがいい。もう分かったよ、俺には一生届かない世界で羽ばたいている姿を、俺は眺める事にするよ。」というような感情を抱くようになりました。
    拳には力は入らなくなったけれど、涙は流れる、というような気分です。

    長岡先生の中学、高校、大学時代における、敗北あるいは勝利にまつわる思い出話を、いつか、よもやま話でお聞かせください。

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