長岡亮介のよもやま話242「自分の好きな作品の大切さ」

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 「日本という国はみんな豊かになった」というふうに思っているのですが、私は、文化的には非常に貧困な国ではないかと思うんです。それはどういうことかというと、みんなが一流の演奏家の演奏に大金を払って行く。みんな一流の画家の、不幸にして亡くなった画家の貴重な作品を見るために、遠くまで出かけていって観る。こういうのは、豊かな文化というのでしょうか。私自身が、自分自身が文化的に豊かでないということを感じてこう言うわけですが、「自分が本当に良いと思ったものの前にくぎ付けされるように見る」というのが鑑賞ということで、とんちんかんな感想を述べ合いながら、そこに行ったことを他の人に自慢するためだけに混雑した展示会に行くというのは、どうなんでしょうか。

 というのも、私は、ごく最近サン=サーンスという演奏家というか作曲家、オルガニストなんといってもいいでしょうけども、作曲家というのが一番いいかもしれませんね。ごく最近のクラシック音楽と分類される人だと思いますが、その作品のあるものに触れました。そして深く感動しました。日本では、『動物の謝肉祭』、あまりカーニバルのようなものは芸術的に深いもんだとは思わないのですけど、『動物の謝肉祭』ってこれがものすごく有名なんですね。ですから、サン=サーンスっていうとすぐそれが出てくる。おそらく謝肉祭をやったならば、ものすごくお客さんは入ると思います。でも、私が聴いたその曲は、サン=サーンスの中でもあまり有名なものでなかったんだと思います。でも、それはそれは素晴らしいものでした。

 つまり、古典音楽が持っている古典の優雅さというのがあるわけではない。明らかに現代に近づいてきている。そういう人の描いた古典なんですね。ちょっと時代錯誤的なくらい古典的なんです。その古典が、いわゆる古典の音楽家が活躍した時代と、明らかにずれている。というのは、その美しさにあるからなんですが、こんなに美しいものがあるんだ。こういうことに挑戦していた近代人がいるんだということは、彼は伝記によれば、ワーグナーであるとかという新しい人たちの作曲技法をすごく勉強した学問の人であったにもかかわらず、そういう新しい潮流とは異なる潮流を自ら探求していったのだそうです。本当にそういう伝記がはっきりとわかるような曲でありました。そして、きっと日本では永遠に人気が出ない曲であろうけれども、多くの人に聞いてほしいなと思いました。

 「私達、芸術とか音楽とかというのに縁がない」という衆生、救われぬ衆生、愚かな衆生から見ていると、クラシック音楽100選とか名画100選とか明山100個とか、そういうふうに何か決まりきったものとして与えられる。これが嬉しくて、その解説を読むということが多いと思うんですが。せめて芸術に向かうときには、自らの想像性を信じて、自分の感性を信じて、評論家の怪しい言葉にあやされるのではなく、自分自身の心でもって受け止めてほしいと思うんですね。本当は数学とか物理に関しても同じで、物理100選とか数学100選と言ったら、みんなが飛びついてくれるんじゃないかと思うんですが、それは不可能なんですね。なぜならば、数学や物理は体系的な勉強が必要ですから、順番にやっていくより仕方がない。だから100個選んだから、この定理、この理論を覚えましょうとやったところで意味がない。それが、芸術の場合に可能であるというふうに思ってしまうのは、芸術が時間を超越して存在する。人間に直接訴えかけてくる力を、数学や物理なんかよりも強く持っているからに違いない、と思うんです。だったら、変な解説を聞くよりも、自分の心と耳と、あるいは目で、それを楽しむようにしたらどうだ。「自分の大好きな作家の大好きな作品はこれです」と言えるようになるのは良いことなんではないかな、と思います。

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