長岡亮介のよもやま話230「教育に必要な二つの視点」

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 具体的な例を言わないと説得力がないと思いますので、ここではものすごいくだらない例をお話ししましょう。例えば、単項式という言葉があります。Monomialsですね。普通は $x^2 × y^3 × z^4$ というような、$x ,y, z$ と三つの文字についての積で表現されるものでありますけれども、単項式には数の係数がかかっているものもありまして、場合によっては $5x^2 × y^3 × z^4$ 、そんなふうになっているものもあるかもしれません。意地悪なものになると、数の係数に分数で表現される有理数がついたり、小数点表示がついたりする。そうすると、実は本当は訳がわからないんですね。なぜかというと、$x^2$ というのは、$x \times x$ ですからそれは意味があるでしょう。$x^2 × y^3$ と書くのは$x \times x$ それに $y \times y \times y$ をかけるということですから、$x \times x \times y \times y \times y$ だと、そういうふうに子供たちは理解するんだと思うんですね。しかし、理論的に考えると、そのように書くことができるためには、少なくとも文字の掛け算に関して“結合法則”という理論的な法則が成り立つこと、さらに子供でもわかる言葉で言えば、$x$ と $y$ という異なる文字の掛け算に関して、順番を交換することができるということ。そのような交換することができるということをきちっと仮定しないと、単項式同士の積あるいは商を計算することができないはずなんです。これは理論的にはそれなりに難しいことで、大学の数学の立場で言えば、それは入門編の入門でありますが、単項式の掛け算とか割り算とかを勉強する中学校の子供たちが、そんな理論的なことを勉強してわかっているとも思えないし、それを教えている先生たちもわかっているとは思えない。

 それがわかっていると思えないと私が確信したのは、検定教科書です。国が統制している、それが正しいということをいわば保証している検定教科書の中に、それがわかっているとは到底思えない記述を見いだしたからですね。逆に言うと、そのようなことはわかってなくても、単項式の計算がこの段階でできるようになっていればそれで十分じゃないかという、言えば教育的な配慮が入っているんだと思うんです。確かにそのような教育的配慮が全く意味がないというわけではありませんが、では、単項式の積あるいは商を計算するという場面が一体数学のどこで登場してくるのかというと、計算のための計算、例えば因数分解をするといったときに、それが全く役に立たないわけではない。しかし、そのような因数分解が、中学校、高校あるいは大学まで含めて、数学の中で本当に役に立つという場面があるのかというと、実は全くないと言った方が良い。つまり、理論的にはもっと筋が良い、一つの文字、例えば $x$ なら $x$ についての単項式、それは $x$ の多項式を作るための基本でありますし、あるいは $x$ についての $n$ 次式って言ってもいいです。それを作るための基本でありますから、必要でありますけれども、それに他の文字がついてくる。大学で言えば、多変数の関数の基本となるものでありますし、あるいは代数拡大という非常に難しい分野の基礎になるものであるかもしれませんが、大学以上に行くと、非可換数代数系、交換可能でない代数系が重要になってくるわけでありますから、そうなってくると、文字はアルファベット順に並べる」というような、可換性、交換可能性を前提にしているような中学校の最初に学ぶ文字式の記述は、有用であるどころか、むしろ害毒になるわけですね。有害であるわけです。そのような体系性を考慮しても、無意味な勉強、そのために時間を費やすということに意味があるのかというと、私に言わせると、全く意味は無い。つまり、問題のための問題になってしまっている。これは一種の教育の名を語ったいじめなんだと思うんです。人間の知性に対するいじめですね。

 他方、体系性を考えなければいけないものもいっぱいあるわけです。例えば、今最近の英語では、文法をきちっと教えないっていうことがよくあるようです。しかし、それは馬鹿げたことでありまして、正しい文章を読み書きするために文法は、私は外国人にとっては少なくとも必ず勉強しなければいけない必修であると思うのですけれど、あまり難しい文章を読み書きすることのない外国人にとっては不必要であるかもしれません。それは、外国人にとって日本語の正しい文章を読み書きするのはほんの一部分ということを考えれば、卑近な実用性っていうことを考えれば、それは理屈としてはそれなりに通っていますね。しかしながら、正しい文章を読み書きすることが必要な、ある程度知的なレベルの英語を理解するという人にとっては、文法は必修でありましょう。しかしその英文法というのを、体系を考えて教えるということになる。言語の持っている特別な性質から、緻密で例外のない論理的な体系にすることが非常に難しいわけでありますね。確かに長い歴史を持つロシア語、ラテン語であるとかギリシャ語であるとか、その文法体系っていうのは非常に長い時間をかけて鍛えられたこともあって、大変論理的になっています。その論理的に作られているがゆえに、文法体系を理解するということは、大変な努力を要するわけで、アメリカやイギリスでもエリート中学エリート高校では古典語、ラテン語・ギリシャ語の教育というのに多くの時間を割いています。子供たちにとって悩みの種というものでありましょうね。日本の少年少女にとって数学の暗記が大変だと言っているわけですけど、数学を暗記するなというのは実に馬鹿げたことであり、これについてはまた別の折にお話することがありますが、ラテン語やギリシャ語は最低の文法事項を覚えるというのが容易なことでないわけです。

 そのような体系的に組み立てられた文法をきちっと勉強するということが、欧米圏では紳士淑女のための基礎的な学問のたしなみとして今でも行われているんだと思います。有名な『今を生きる』というロビン・ウィリアムズが主演の映画がありますが、そのときにもあほなラテン語教師が出てきて、最も基本的な基本中のラテン語の文法を教えている場面がありましたけれども、私は文法を勉強するときには、体系的な勉強であることながら、やはりその場その場で必要に応じて勉強をする。ラテン語で“アドホック”っていう言葉、これ英語にもなっています。この場限りの、このためのっていうことですね。アドホックな勉強というのは、体系的な勉強に比べると、非能率のところがあります。ですから、アドホックな勉強を、体系性を考慮に入れてやるということは実践的に重要だ、というふうに考えているわけです。

 数学の勉強もまさにそうで、やはり本当にその小学校の最初の最初から現代数学の体系性を念頭に置いて教えるということは、私は本当に能率的なことであるとは思いません。今の日本の学校で行われているような教育、それはある程度許されるのではないかと思っています。海外で先進的に数学教育を実践している小学校におきまして、小学校の1年生の1学期の最初に、私達だったらばペアノの公理と言われているものを、小学校の1年生に、それを明らかに強く意識した授業が展開されているのには本当に驚きました。それは数学のエリート校であるので、教育が成立しているんだと思いますけど。結局体系的な教育が本当に能率的な、というふうには必ずしも私は思いません。教育においては、体系性を考慮に入れても、能率的にやっていくということが、とても大切なんだと思います。その際に、アドホックにやっているんだからという気楽さで、いい加減なことを教える先生は、本当に慎んでもらいたい。これをやっていることが、いつ役に立つのかということをちゃんと意識して、これはやがて役に立つのだから、そのやがてがせめて中等教育の段階、言い換えれば高校3年生までには必ず出てくるという程度のスパンで理解するようにしていただきたいと思うんですね。

 というのは、ほとんどの人は、高等学校で数学をやめる。やめるということは、「人生において、高校までの数学的な知識が、人生全体にとっての数学的知識になる」ということを意味しています。その数学的知識が現代社会を生きていく上でいかに重要であるか。社会人、ビジネスマンあるいは職人さんとして生きている人たちもみんな確信していることなんだと思います。経営者にとっては言うまでもないことだと思います。そういう社会人にとっての最後の数学教養で、これは中等教育における数学なんだと思うんです。その際に、数学で本当に使われるんだということを、中学校1年生のときからきちっと理解してやっていただきたいと思うんですね。学校数学の中には、無駄なものがいっぱいある。その上必要なものが抜けているものもいっぱいある。

 論理的に徹底して学ぶとか、暗黙に前提とされているものを追求する。こういうことは、大学の数学を勉強しないと、なかなかわかる機会がないと思うのですが、中学・高校のまでの数学の教育、自分が受けてきた教育だけを前提にして、それが教育の理想だっていうふうに思わないで欲しいと願っています。「教育は、100年の大計である」という言葉、これを重く受け止めながら、しかし忙しい現代にあって、本当に必要なことは何かということを常に反省しながら教育をすることが大切である、と私は強く感じます。

コメント

  1. Leo.橋本 より:

    こんばんわ。
    今回のお話には、私が数学の学習において疑問を抱いている内容を含んでいました。
    結合法則には疑問すら抱いた事がなかったのですが、交換法則と分配法則には悩まされていました。これを何とか証明したい、そういう思いでコピー用紙を何枚も使いましたが、大敗の連続でした。こういう理論的な事柄を、大学以降で学ぶ数学で体系的に学べる事を知り、安心しました。

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