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私はこの数回、学校教育の現状とりわけ最近の日本の数学教育の抱える深刻な問題点について軽く触れてきた。本当の姿を取り出していったらこんなもんではないんですけれど、そういう意味で、本当に軽く触れてきただけのつもりですが、誰でも納得せざるをえないくらい明らかな事実だけを指摘するにとどめてきたというわけです。実は、学校数学が虚偽だらけであるというより、本当に深刻なのは、私達の社会が虚偽に満ちているということですね。大人の社会があまりにもデタラメすぎるということです。大人の社会がでたらめだったら、その中で生きていくということがそもそも困難になるし、大人たちの姿を見ている子供たちが、せこくずるがしこくなっていく。それを止めさせることはできないですね。今、いろんなところが、学校をより良くしようっていうことで、いじめをなくそうとか、グループで何かやろうとか、いろんなことやっていますけれども、本質的な原因に迫ろうとしてないことが最大の問題だと私は常々考えています。
学校でいじめのようなことが陰湿に続く。これは本当に情けないことであります。子供がそのようになってしまう。これはいじめられた側の問題というだけではなく、いじめる側の子供たちが崩壊しているということなんですね。せっかく若い、もう何をやっても楽しい時代。その時代に人をいじめるというような、人間として最低というレベルのことを平気でやっている。そのことに恥ずかしさも、何のためらいもない。このことが異常なんですね。子供たちが向上心を持っていない。自分の姿が醜いと思っていない。自分たちの姿が標準だと、普通だと思っているということです。大人たちがそういう生活を子供たちに、自分たちの生活を通じて伝えているということですね。
大人たちの生活のどんなところにインチキがあるでしょうか。これを正確に描写しようと思うとテレビドラマを作る方がよっぽど面白いというところがありまして、最近見たくだらないPrime Videoの日本製のドラマの中に、告発されている日本社会の現状、大人たちの無責任、社会人の無責任をいやというほどは辛辣に描いているものがあって、昔はこういうテレビドラマは、例えば緊急医療であるとか、弁護士であるとかいわば非常事態の中に身を置いて危険を冒している人たちの仕事ぶりを英雄的に描くのが多かったわけでありますけれども、お医者さん物、弁護士物、刑事物、そういうところですね。しかし今やそうではない。ごく普通の世界、例えばテレビ局とか、あるいは雑誌とかそういう私達のごく身の周りにあるメディアの中で行われている最もみっともない不正、それが虚偽報道ということ、ガセネタというのをつかまされたということですが、そういうものでありますけれど、それをまさに主題としている凄まじいドラマがありまして、笑って済ませられない。でも対笑ってしまう。そのくらい現実の世界に合っているというものがありました。私はこれよりももっと面白いのは、学校現場に密着して、学校の先生が成績を作るために、あるいは成績を出すために、どんな試験問題を、どのような方針で、どのくらい時間をかけて検討しているか。これをドラマにするととっても面白いと思うんですね。いかに無責任に試験を出し、それに対してとても学理的とはいえない採点基準をしているか。ドラマになったら面白いなと私は思います。
同じことは、例えば臨床の開業医をやっている人、開業医だけじゃない、いわゆる大病院と言われるもの中で三流の病院というのはいっぱいあるんですね。その三流の病院というのは、厚労省の基準で、病院の質を上げるというために、特定加算という制度を厚労省は実施しているわけです。つまり、普通の治療をしていても、病院の体制がしっかりしているならば、それに対して手当を補充しますという制度で、それを特定加算っていうんですけど、この特定加算が行われる上で、どのような不正が行われているか。もう笑ってしまうような不正ですね。例えばある科の診療報酬、それを特定加算でやるとそれが大きく膨らむ。病院の経営に資するわけですが、そのためには、毎月の検査件数が多ければいい。その多ければいいというのは検査件数だけでありまして、検査の質というのは誰も問うていない。だから大げさに言えば、でたらめの盲判をしても、専門医が判定するということであれば、それで保険会社から保険がおり、特定加算の費用を出て、病院にお金が入り、その病院の特定加算に協力した医師に、普通では入らないくらいの金額のお金が入る。こんな馬鹿みたいな仕組みが動いているってことを皆さんはご存知ないですよね。このような馬鹿な制度が動いているのは、患者が愚かであるからですね。「先生、CTもしてください。」「先生、MRI検査もしてください。」「先生、で来たらPETしてください。」こんなふうに「自分の健康を日常的に管理していると、自分が病気になる深刻な病気にかかる、そして突然なくなるというリスクが減る。長生きする。」と患者が思っている検査が実はデタラメである。その検査によって、深刻な病気を抱えていたにもかかわらず、それが見逃されている。そんなことが日常的にゴロゴロ存在しているという事実は、人々に知られていませんよね。
病院とか学校ですら、このようなひどい状況にあるわけですから、そういうひどい世界で生きている大人たちが、若い子供たちに「人間とはこのように生きるものだ。」というような模範的な後ろ姿を見せることができるはずはないと思いませんか。とりわけ学校において、いじめが減らないのは、学校の中で先生の先生に対するいじめが陰湿にあるからだと私は思います。私自身、先生方の能力の差のバラエティーを考えると、いじめがあってもおかしくない。こんな能力の低い人と、こんなに頑張っている自分とが給料が同じである。場合によってはそれが逆転している。そういうふうに思えば、何か復讐してやりたいという気持ちが起きてもおかしくないと思うのですが、極めて残念なことに、学校における教師のいじめというのは、そのような知的な水準ではなくて、もっとレベルが低い。自分たちの仲間である。自分たちの犯した不正を大目にお互いに見合うという関係である。こういう仲間内をかばう、そういう体質なんですね。大学ではしばしば大学の管理者、理事会あるいは理事、そういう人たちの不正が話題になりますけれども、これは動くお金が巨大だからしばしば問題になるだけで、本当に50年前と全く変わらない体質の大学があるということを、もう目の当たりにする思いで、その大学の卒業生たちは本当に悲しい思いをしていると思いますけれども、そのような体質もその大学の体育系の課外活動、と言ってはいけないですね、そういう大学生にとってはスポーツで活躍するということがその人のRaison d’être存在理由であり、その人たちの生きていく上での術なのですから、言ってみれば人生の設計図に沿った、則った合理的な行動なのでしょう。しかし、その彼らにとっての合理的な生き方が、社会の中で全くの非常識になっているということにすら気づかないほど無教養わけです。そのような無教養な人間に頼って大学経営をしている経営者もみっともないと思いますけど、そういうみっともない大人を見て、子供たちが立派な大人になろうと思うはずがないと私は思うのです。日本社会全体が、大人の社会がみっともない。そのことが、子供にも立派な大人になろうという気持ちを失わせているのではないかと私は思うんです。
私は、これは全く夢想する夢に過ぎませんけれども、大人たちの社会が多少なりとももう少しまともになる。立派な人を立派な人であると尊敬し、その人の業績をきちっと正しく評価する。そういうような上役のシステム、あるいは人事評価のシステムが出来上がる。そして大人たちがそれに向けて懸命に努力する。そういう社会になってほしいと願っておりますが、大人たちが、自分たちが少しでも楽をする、できたら人を出し抜いても自分の利益を大きくする。そういうような暮らしをしているときに、学校でも社会でも自分の身近な病院でも、そういう論理がまかり通っているときに、子供たちが「本当に立派な大人にならなければならない。人をいじめたりすることは、本当に恥ずべきことである」と考えるようになるとは、私は期待する方がおかしいと思うんです。教育改革ということが無責任に盛んに叫ばれますけれども、本当に改革しなければいけないのは、学校ではなくて、学校を取り巻く社会一般である。私達が良い社会を創ることが、「良い教育を創る。良い学校を創る。そしてまた良い病院を創る」ということに繋がる。考えてみれば当たり前の話を、今日は確認してみたいと思いました。
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