長岡亮介のよもやま話222「学校教育が嘘ばかりであることの構造的根拠」

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 私は、学校教育の現状について、特に数学に関してそこに多くの数学的な虛偽があるということ。虚偽気付かず、「その虚偽に沿って教えているのは一種の詐欺である」という強い言葉で非難しているように語りましたけれど、ぜひご理解いただきたいのは、私はそれゆえに日本の数学教育は駄目であると、そういうふうに決め付けているわけではないということです。大げさに言えば、数学教育には嘘はつきもの、およそ数学でなくても教育というものには嘘はつきものという厳しい論理あるいは倫理を持っている必要があると私は考えています。

 それは、大人が成人した大人が、子供に対して教育をする。このときには水平的な関係ではあり得ないわけですね。ちょうど赤ちゃんとその赤ちゃんを産んだばかりの両親、その間にある巨大な差。これは自明だと思いますが、そのような巨大な差がある。不思議なことに、世界中の国で、私は世界中の国全部を知っているわけじゃありませんけど、多くの先進国では、親は子供に対して喋りかけるときに「赤ちゃん言葉」で喋ります。要するに一人前扱いしてないわけですね。日本は最近は子供が大人になっても、子供に対して赤ちゃん言葉で喋るような親がいる。そういう姿を目にして、私はさすがにこれはまずいのではないかというふうに感じますけれども、子供は親から見れば、すごく年下の幼稚な存在である。それは学校の生徒になっても、そういうふうについ思ってしまうわけです。小学校段階では、それはほとんどやむを得ないことなのではないかと思うんですね。そして日本の学校教育が概してうまくいっていないとはいえ、小学校教育においては、世界中で最も成功している国の一つではないかと私は感じておりますが、その最大の理由は、そのように教師が子供に対して、圧倒的に上の存在として責任を持って教育に携わるということを実践できている。中にはそのようなことができない教師も存在するという話を聞くこともありますけれども、国際的に見れば、日本の初等教育の水準はかなり高いと言っていい。その高さというのは、決してその教え方のうまさという点ですごいというわけではありません。多くの人がこの点をとっても誤解していて、教え方の上手な教育のプロ、そういう人が学校の先生になるんだと思っている方が多いのですが、私自身は私自身の小学校の経験を通じても、そんなことは決してないと思うんですね。そうではなくて、やはり子供たちが何もわかってないときに、その子供たちが一人前になるプロセスをしっかりと見つめる。子供たちが成長していく有様をしっかりと見つめて、そこに付き合うということですね。成長段階、子供たちは非常に多様な成長を遂げると思いますが、それぞれの子供たちに気配りをして、「あれができるようになったね」「これができるようになったね。」こういうふうにおだてたり、褒めそやしたりして、子供たち励ますわけですね。そういうことで、小学校の時代が送られる。そして最低限身に付けなければいけない、英語で言えば3R、Arismetic、Reading Writingっていうことですね。日本で言えばさしずめ文字を書くという習字とそろばんということになるでありましょう。そういう基礎的な勉強の訓練、これが小学校教育の大きな一部を成しているということは確かですが、本当に大切なのは、子供たちが次第次第にそれをこなしていくというプロセス、この成長のプロセスを見るということで、今流行っているような、クラス全体で何か一緒に活動するとか、そんなような馬鹿げたことが教育のプロによってなされるというのは私はおかしなことだと思います。子供たちを一斉に何かさせる、一つの目標に向かって団結させるということではなく、一人一人のことがいろんなこと違うことを考えているにもかかわらず、それを全体として同じ方向に向ける。そういう教師の腕ですね。子供たちが違っていることを受け入れたまま、それでいてそれぞれの子供たちの成長がそれによって促進される。これが素晴らしいことではないかと思うんです。

 このようなことは、中学以上では成立するはずがない。なぜかというと、子供たちの知的な成長は、中学生くらいの年齢になりますと、個人間の差、個体間の差というのも非常に大きくなってきますし、個性とか、あるいは能力、そういったものも多様になってきます。ですから、クラス中の何かアクティビティで、アメリカで言われるようなもので、これが日本の学校教育において中心を占めるのは、芸術活動とか体育祭とか、そういうところでは可能かも知れませんが、日常的な学習でそれが中心になるはずがない。こういう常識があまり共有されてないようですね。このような常識が、世間を覆ってしまっているのは、教育学部という制度の持っている悪弊だと私自身は感じております。なんか教育のプロでなくてはならないと学校の先生が思っている。確かに教育でご飯を食べているという意味では教育のプロフェッショナルかもしれません。プロフェッショナルというのはそれを職業としているということですね。でも、職業としているということは、教え方に関してプロというわけではありませんね。私はしばしばいろいろな携帯電話などのサービスで、あるいは他の電化製品なんかサービスで、いわゆるマニュアルに書いてないことを質問するときにイライラすることが多い。向こうで答えてくれている人はマニュアルを説明するプロであるはずなのですが、要するに余計なことばっかり言っていて、一番肝心なことを聞かせてくれない。結局「もうそれだったらいいよ。最初から最後までマニュアル読むから」と言って電話を切ってしまうということの方が、多いんですね。

 学校の先生は一体どうなっているんでしょうか。最近学校にもマニュアル思考っていうのが入ってきている。あるいは教育委員会や文科省の示すガイドラインが、お医者さんたちを締め付けるガイドラインと同じように、学校教育の中にも入ってきている。ますます考えない教員を増やしている。それは医師のガイドラインが医療の安全のためとはいえ、全く考えない内科医をたくさん作っている。こういうような結果として、現象化しているということと、ちょうどパラレルのことだと思います。そういうふうによかれと思ってやっていることが、実は教育においては悪い結果を生むんだという“パラドックス”。これがわかっていないために、戦後70有余年、特にこの30年ほどの文教行政の大混乱は、このようなちょっとした未来をシミュレーションするための哲学的な思索、歴史的な思索が欠けているために、非常に単純な深謀遠慮とは全く正反対の朝令暮改と言われる行政が続いてきているんだと思います。日本の行政は教育に限らず、実に深刻な問題を抱えているということはここで申すまでもありません。

 しかし、教育の話に戻しましょう。ともかく、学校というところは、中学になったならば子供たちの学力差があるということを考慮して、その上で何を教えるかということを考えなければならないんですが、その学力差の中でもとりわけ深刻なのは、よくできる層の人たちは先生たちもよりもよくできる。先生たちの学力が中等教育のよくできる層に追いついていってないという側面と、学力の低い層についての想像力を十分学校の先生が身につけていない。学力が低い子供が頭が悪い子供であるというふうに思っている。そのくらい学校の先生たちの想像力が貧困である。つまり、「教育」ということをきちっと教育されてない。教育を舐め腐っているんですね。「教育というのは、自分たちが中学校で知っていたこと、習ったこと、あるいは高等学校ならってこと、それを上手にプレゼンテーションすればいいんだ」というふうに考えているんではないかと、勘ぐりたくなるぐらい、学校の先生の授業の品質は落ちていると私は思います。これは私の小さな経験で何校かの授業参観をさせていただいたというだけですから、そうじゃない例がいくらでもあるんだということを、皆さんから強く、私に反省を迫るメッセージをいただけたら嬉しいと思っているくらいであります。本当は勉強ができないと言っている子供たちの中に、知性という点では、あるいは小狡さという点では素晴らしいものを持っている子供たちもいるんですね。その子供たちが、例えば学校の勉強、数学を舐め腐っている。舐められても仕方ないような教育内容であるっていうことです。

 私に言わせると、学校の中で教えられることのうちの99.9%は全く身に着ける必要のないことだと言ってもいいようなくだらない内容、とりわけ中学校の教育というのは、そのようなもので占められているように思います。その中学校の教育がだんだんだんだん高等学校に近づき、高等学校の先取り学習をするこういうのが流行ってきまして、ずいぶん知識のレベルでは進んだというふうに思われていますけれども、実は自然科学の教育なんかに関しては、高等学校レベルの自然科学というのは18世紀とか19世紀で得られた知見を、それをかいつまんで先端的な知見というふうにして教えているわけですから、先端的でも何でもない。そういう意味での知識が増えれば増えるほど人間は愚かになってくる、という学習のパラドックス。それを学校の先生が、大学の教育学を通して勉強してこなかったっていうのは、教育学の先生が教育を理解してないためではないかと思います。それはちょうど心理学の専門家が心理についてわかっていない。脳科学の専門家が思考について反省したことがない、ということに似ているのではないかと思います。

 そういう意味で、学校教育というのは、上の者が下の者に教えるという逆説から出発し、しかしその逆説が中学段階くらいでひっくり返るということのドラマティックな変化があるのに、そのドラマティックな変化に気づかないくらい鈍感な人たちによって支配されているということにあるのではないかと思うんです。そういうわけで、中学校の教科書あるいは高等学校の教科書も、昔はかなりきちっと書かれていたと思うのですが、それが今や、本当に小学校の子供たちの読む本のように書かれる。なぜそのようなふうに教科書が堕落していくのか。それは文科省が悪いからではありません。そのような教科書を必要としている現場があるからです。私はこれを現場検定と言って、文科省のやっているいわゆる教科書検定と区別しているんですが、文科省のやっている検定もくだらないといえばくだらない面もありますが、良い面もなくはない。あまりにもひどい記述がカットされるということは、とても良いことだと思っています。しかし、最近では文教行政もだいぶ自信を失っていて、私の知る限りこんなものは昔だったら検定に通るはずがないというくらいひどい記述が教科書に残っていたりします。もう検定が検定として機能しなくなってきているという側面がありますが、どっこい現場検定というのはますます力をつけているわけでありまして、市場経済Market Drivenがロジックの中で、教科書会社もマーケットに受け入れられる教科書を作らざるを得ない。そのことによって自分たちの会社が大きくなる、あるいは自分たちの給料が出る。そういう環境に追い込まれているわけですね。本当に良いものを作ればわかってくれる人がいる。そういうふうに、職人あるいは芸術家、アーティストっていうのは職人と訳すのが本当は一番いいんですが、日本ではアーティストっていうと何か特別な活動する人たちだけにその言葉を使っていますね。有名なヒポクラテスのArs longa, vita brevis、「芸術は長く、人生は短し」なんていうとんまな翻訳が付けられています。しかし、「職人芸は長く、人生は短し」、そういうふうに訳すべきなんですね、本当の意味は。

 私達が本当の意味で目指すべきもの。それを学校教育の中で、すっかり忘れている。そのために、教科書ですらどんどんどんどん低俗化している。その教科書しか勉強しない現場の先生の学力はますます低下している。ますます低下した学力の先生に教わる子供たちの学力あるいは学校生活、学校体験、それはますます惨めなものになっている。これは本当に悲惨と言うべきでありまして、私が年を取って全ての仕事から解放された後、残った人生をこの世の中の少しでもためになるように、先生方にも勉強の機会を増やしたいと思ってNPO法人を作った。その動機はこんなことだったんですね。でも私達の抱えている現状は、あまりにも深く、あまりにも広く、あまりにも深刻。対して私達の力はあまりにも小さい。このことに絶望し、気持ちとしては打ちひしがれた気分になりながらも、こうやって非常に怪しい手段ではありますが、皆さんに連帯を求めてメッセージを流し続けているわけです。

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