長岡亮介のよもやま話218「そんなことわからなくてもいいじゃん⁇」

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 最近ある人から、「そんなことわからなくても、生きていけるんだからいいじゃない」ということを言っている人の話を間接的に聞きました。そして、そこで感じたことをちょっとお話してみたいと思います。例えばの話でありますが、現代の宇宙論というのは大変に進歩を遂げています。進歩しているというのは、私達の知の限界、私達の知っていることの限界が、ますます宇宙の開闢以来、本当に始めてばかりのとき、いわゆるビッグバンが始まってから、0.000000….何秒っていうような、ものすごく小さな単位のところにまで、私達の知識が接近することができている。知識が接近できているというのは、そのことを説明する理論ができているということでありますけれども、もちろんそんな短い瞬間を私達は知覚することさえできないかもしれませんし、その当時138億年という気の遠くなるような時間の昔に私達が行くことができるというわけではありませんけど、その頃のことが理論的にわかるようになってきている。このことは素晴らしいことだと私は思うんです。けれど、「それは生きていることに関係ない。私達はそんなことを知らなくても立派に生きてられるから」と、そういうふうに言い切ってしまう風潮が、今、現代という世の中で一般的になっているんだとすれば、ずいぶん寂しいことであるなと思いました。

 というのは、そんな昔のことについて、例えば宇宙論の話でありますが、そのことについてその理論の詳細を知るということは、容易なことではありません。現代物理学の最先端で問題とされている数学的な方程式の振る舞いを理解するということでありますから、とんでもなく難しいことであります。しかしながら、そういうことが理解できないとしても、そういうことを理解しようとしている人が毎日努力しているという姿を知り、その人たちからちょっとでもわかったようなお話をしてもらう。それだけでもずいぶん幸せなことではないかと私は思うのですけれど、どうなんでしょうか。そんなことを聞いても本当にわかるわけではない。本当に感動できるわけではない。そういうふうに言う人はいるでしょう。場合によっては、そんなことを聞いてもお腹がいっぱいになるわけではない。そんなことを聞いても居心地が良くなるわけではない。という人もいるでしょう。しかしながら、そういうことを聞いて、心が豊かになるという気分に浸る。私達が、一瞬、私達が現在生きている命の限界というか、生命の呪縛というか、そういうものからちょっと解き放されて、私達自身がもっともっとものすごい長い寿命を持った生物であるかのように、あるいは天地万物を創造した創造主の気持ちに接近するような気分を味わうことで、私達がちょっとでも何かそういう大きなことに近づいた喜びというのを感ずることがないとしたら、それはものすごく寂しいことではないかと私は思うんです。

 確かに、私自身もそのことについて、科学的なディテールがわかっているわけでは全然ありません。そのことを知るためには、私はもっともっとそういう方面の勉強をしなければいけない。だからそのためには、私の人生をかけてももう間に合わないというくらい難しい事柄であると思いますけれど、その難しい事柄をわかりやすく説明してもらう必要はない。しかし、そういう難しい事柄について勉強している人がいて、研究している人がいて、その研究がそれなりに成果を結びつつあるということは、何か自分がその人の仲間に入れてもらったような気がして、すごく私自身は嬉しいんですね。私にはわからないかったことを研究してわかった人がいるということ。私が勉強すれば、その知に対して接近することができるということ。そのことが私をとても喜ばせてくれるわけです。

 そういう人と同じ人間であるということに対して、もちろん同じ人間といっても、頭の出来が違うとか、知識の量が違うとか、そういう違いを強調する人がいるかもしれませんが、私としては、その巨大な違いにも関わらず、同じ人間であるという枠に入れてもらっていることに対して、私はえらく光栄に思うわけですね。同じ人間であるから、その人に向かって少しでも接近したいなというふうに思うわけです。そのような私は傲慢でしょうか。確かに傲慢かもしれません。私は生涯かけても分かり得ない深い叡智というものに対して接近できると思うこと。これ自身は、ありえないほど難しいことなのですから、それを自分の身近なものとして感じるのは、傲慢そのものと言ってもいいでしょう。でも、そういうふうに傲慢になることによって、私達は大変高い高尚な存在に向かって近づいているんではないか。そんなふうに私は思うんです。そういうふうに、高尚な気持ちになる機会が与えられているということに、私は今という時代を生きていることに幸せを感ずるわけですね。そういうことを理解しようと思うことに努力が要るということで、そういう知識に接近することを拒否してしまうとすれば、そして、その拒否することを「どうせ私はちゃんと生きているんだから」と正当化してしまうんだとしたら、その方がむしろ傲慢であると私は思うんです。

 私は、現代はとても傲慢な時代であると思います。傲慢さが大手を振って、歩いている時代であると思います。私達は、本当はもっともっと高尚なものに対して謙虚に、そして、高尚なものへと自分が接近するということに対して貪欲に、あるいは傲慢になっていいんじゃないか。そんなふうに感ずるのですね。ある意味で、言葉の上では矛盾しているようでありますけれども、傲慢という言葉、arrogantという言葉が、二つの別の意味で使われているということに注目してください。つまり、自分自身の現在の状態をより良いものへと改善することができると考えることに関しては、極めて傲慢。私達は決してそんなに簡単に賢くなる動物ではない。そうであるに決まっているのですから、そういうふうに考えることは傲慢そのものでありますね。しかしながら、そういう気持ちを持って、高尚ある叡智に対して、謙虚に向かい合うということ。そのときには、私は最も低俗な意味で傲慢ではない。つまり、私達がより高い存在に向かって貪欲に努力しようとしているということである。

 私は、特に若い人々に、知の開く世界に対して、こんなに幸せな時代に生まれているということに対して、それをありがたく考え、貪欲に頑張ってほしいと心から願っています。そして最近、先ほどとはまた別のコンテキストとありますが、若い中学生のような、私から見れば孫のような世代の子供たちが、ものすごく生き生きと頑張っている。そういう姿に接して、心から嬉しく思いました。そんなこともあって、このお話をまとめることにいたしました。

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