長岡亮介のよもやま話217「間違いのご指摘をいただいて」

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 気楽に聞いていただきたい「よもやま話」の趣旨を補完するお話をしたいと思います。最近ある方から、よもやま話のことを知って、いくつか話を読んだということでありました。聞かずに読むという方が能率的であると思います。私の言い間違いも修正されているものも多いかと思います。しかし、生の声もそれなりに良いという意見もありうるかと思って、みっともない話ではありますが、音声も一緒に載せている次第です。その聞いてくださった、あるいはお読みくださった方からのご指摘で、これは私の完全な誤解、間違いを指摘したものでありまして、私は間違いはよくするので全然平気なのですが、計算間違いはよくするんですが、記憶間違いというのも時々してしまいます。

 最近YouTubeなどで、無料で立派な演奏家の演奏に触れることができる、この喜びについて語った回(よもやま話118「教養を身につける」)だと思いますが、ピアニストで言えば、最近はそれより古いピアニストの演奏も接して驚きましたけれども、アルヘリッチ、私の若い頃はアルゲリッチと呼ばれていました、元々アルゼンチン出身であるので、ポルトガル語の訛りが正式な発想のようで、正しい発音というふうにすると、どうしても現地の発音にならざるを得ない。しかしながら、国際語として通用している英語読みとかフランス語読みとか、あるいはスペイン語読み、ポルトガル語読みというものと、やっぱり微妙に違うんだそうですが、まさにそのアルヘリッチというピアニストがショパンコンクールで優勝したときの逸話でありました。それは1960年のことだそうで、そのとき優勝したのは、アルヘリッチではなくて、ポリーニで、そのときの審査委員長はルービンシュタインだったそうです。私が言ったアルヘリッチが優勝したこと、ホロヴィッツという偉大なピアニストが審査委員長だったという話が、いずれにしても間違っているということですね。優勝した人も、審査委員長も違う。ちなみに年号も違うんでしょう。皆さんはこんなのは、それこそGoogleにアクセスすると、正しい情報にすぐにアクセスできると思います。でも、そのものは本当だったのかもしれません。それはその人の過ちの修正の中に入っていないからです。

 私がそのときに申し上げたのは、審査委員長は、私の記憶ではホロヴィッツっていう、これまた20世紀を代表する天才ピアニストでありますが、ホロヴィッツがアルヘリッチのピアノを聞いて、このピアニストは、テクニックで言えばこの審査員の誰よりも上だと褒めたという話ですが、アルヘリッチを激賞したホロヴィッツは、本当は「テクニックではこの子の方が上だが、音楽の解釈という点では私の方が上だ」ということを言いたかったのではないかっていう、ちょっとひがんだ見方っていうか、穿った見方を披露したわけです。アルヘリッチとホロヴィッツの関係っていうのは、ショパンコンクールのときの出会いであったのかどうかっていうことも、私は今そんなもののために時間を割くことができないので調べることができませんが、その方もお書きになっている通り、私の言いたかった趣旨は、そういう固有名詞の間違いとは無関係のことではあると書いてくださったんですが、やっぱり本当は間違えない方がいいに決まっていますよね。間違えた方がいいですか、間違いない方がいいですか。それは間違いない方がいいに決まっています。正確と不正確にどっちがいいですか。正確な方が良いに決まっています。

 でも、皆さんにわかっていただきたいのは、正確なこと、間違わないことよりも大切なことがあるということです。自分の間違いをネタにして、こういう教訓を述べるというのはずいぶん頭が高いというふうに思われるかもしれませんが、日本人の中には、特に音楽に関して、あるいは美術に関してもそういう傾向が強いと思いますが、国際的に有名になったと言うだけで、その人の演奏が全て素晴らしいと言ってしまう傾向があるんじゃないか。自分で、この演奏が素晴らしい、この演奏、この鍵盤の引き方が何とも言えないというふうに鑑賞すべきであるのに、まるで譜面通り楽譜通り弾くことが正しい演奏であるかのように、多くの人が思っているのではないかと思うと、そういうふうに考えられてしまったら、音楽家としては作曲家にはかなわないということになってしまうでしょうし、あるいは演奏家にしても、Computer演奏の機械にはかなわないということになってしまうかもしれません。

 しかし、実は正反対でありまして、作曲家が作ったのと同じくらい、あるいはその何倍も素晴らしく、楽譜を再現する。これが演奏の世界であるわけで、演奏家が作曲家と同じように、一流の芸術家であるというふうに言わなければいけないのは、楽譜という土台がありながらも、それでも創造性、クリエイティビティ、それをそれに付け加えることができるということですね。ごく最近の人で言えば、ピアノで言えばアルヘリッチ、バイオリンで言えばイツァーク・パールマン、チェロで言えばミッシャマイスキー、そういった方がYouTubeの中で共演したり、盛んに出ていらっしゃる。演奏会がないのでお金が入らないからYouTubeで寄付をしてくれ、“いいね”をしてくれという人も少なくありませんけれど、もちろんそれも大事なことかもしれませんけど、私からすれば、どんなにお金を払っても聞くことのできないような素晴らしい演奏を惜しげもなく披露してくれるアルヘリッチとか、パールマンとか、ミッシャマイスキーとか、そういう人たちの存在は、何にもまして私達人間の存在の崇高さを思い起こさせてくれる非常に良い出来事ではないかと思うんです。そういう人たちが活躍する社会の中の一隅に、共存していることができるだけでも幸せだと私は思うんですね。そのときにどんなお話をしたか、言い間違いをしたときにどんな話をしたか、よく覚えていないんですけれど、おそらく似た話だったんじゃないかと思います。自分が間違えたのを題材として、もう一度とても大切なポイントだと思うことについて、お話させていただきました。

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