長岡亮介のよもやま話216「お盆に寄せて思うこと(TALK8/11)」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 前に伝統を守るということの大切さについてお話ししましたけれども、伝統という言葉を広く取ると、様々なしきたりというものがあり、このしきたりというものの多くは、そのルーツを考えるとわけがわからないというものが少なくありません。例えば日本では、夏の恒例行事のようになっているお盆でありますけれども、お盆というものが持っている宗教的な意味を真剣に考えてお盆に参加している人は、意外と少ないのではないかと思います。

 そもそも、祖先崇拝というのは、日本で一般的な仏教や神道に限らず、原始的な文化の中にも多く存在するわけで、言ってみればホモサピエンスになって以来の伝統と言っていいかもしれません。人間は動物の中で、ただ一つ、祖先を崇拝するという傾向を持った動物だと思うんです。祖先に感謝する。育ててくれた親、親を育ててくれたおじいちゃんおばあちゃん、そしておじいちゃんおばあちゃんを育ててくれたまたその親、延々といくわけですね。何代までさかのぼることができるか。一つの世代を30年として、人類の発生から今まで繰り返されてきた年数を割ってやれば、大体の世代数は簡単な計算で出てきます。それだけの世代数は、計算してみると皆さんすぐにわかると思いますが、意外に少ないんですね。それくらい少ない世代数しか私達はまだ繰り返してきていない。それを日本のように、例えば奈良時代以降とかに限定すると、もうその世代数が一気に減少します。ですから田舎なんかに行くと、みんなが知り合いだというのを見て、都会の人はびっくりしますけれども、田舎では村の人たちがみんな知り合いだということはごく当たり前でありまして、わずか数世代をさかのぼると、みんな親戚になるわけです。

 ですから、地縁共同体というのは、ほとんどは血縁共同体でもあるわけでありますね。そういう日本の村社会の中で、伝統的に脈々と受け継がれてくるしきたりの一つとして、宗教的な儀式がある。それがお盆ではないかと思うんですが、お盆の中に、本当に宗教的な意味を感じている人は、少ないのではないかと思いますね。なぜかって言うと、ご先祖様という言い方をしますが、ご先祖様というものは、そもそも宗教的にはどのようなものであるか。人間は死んだらどういうふうになるのか。人間が死んだ後は仏になるという人がいますけれども、仏教でもし仏になったとすれば、仏はこの世に現れるということは、普通に言えば幽霊みたいな話であって、ご先祖様を迎えるという謙虚な気持ちになる以前に、恐ろしい話でもありますね。

 昔の人々は、教養ない庶民に仏教の教えを説法するときに、わかりやすい例え、あるいはわかりやすい単純化されたストーリーにして、教えを語ったんだと思います。こういう傾向は、別に日本の世俗仏教に限らず、キリスト教世界でもかつてはあったことでありました。ですから、その宗教的な行事というのが、本当の意味で宗教と密接に結びついていなくても存在しうるわけでありますが、特に日本の伝統的なしきたりの中には、宗教を装いながら、特に御坊さんを呼んで、お布施を払いながら、しかし宗教心は全くないという日本人がすごく多くなっているような気がして、私はこれは伝統やしきたりを守るということと正反対ではないかと思うんですね。「お盆はどういうふうにしたらいいですか。」「お盆には何をしたらいけませんか」というようなことについて、決まり事のように誰かにその意見を聞き、それを守ってさえいればいいんだという考え方は、宗教とは縁もゆかりもない世界ではないでしょうか。要するに、村のしきたりに自分を合わせているというだけだと思うんですね。

 私達は既に、その農村的な共同体が崩壊して久しい日本の中に生きていて、もはやかつてのお盆のような行事が人々の心の世界と結びついていないということを、知っているにもかかわらず、形だけは元のままやらないと、村八分になるというような、恐ろしく田舎的な文化の中に、生きているのではないでしょうか。こういったからといって、私が先祖崇拝とか、崇拝ではないとしても、自分の亡くなった父や母のこと、あるいは祖父祖母のことを思う。そして静かに過ごすという日が1年に何日間あるということは、とても大切なことだと思っています。それこそが本当は宗教心の根源であって、何々教を信ずるとか、何々教のお布施を払うとか、あるいは何々教の様式に従った儀式を行うということが、宗教心ではないと思うんですね。みんな、自分一人で生きているのではない。自分を育ててくれた親がいて、その親を育ててくれたおじいちゃんおばあちゃんがいて、そして今の私がある。私が単に私であるだけではなく、何らかの意味で他の人々にとって意味のある存在となって生きたい。そういうふうに考えるような一日が、1年の中にたとえ10日か20日であったとしても、存在するということはとても大切ではないかと思います。

 私は、完全に形式化し、あるいは様式化してしまったしきたりの中で、私達が私達自身を取り戻す日として、それを活用することができたならば、しきたりにも意味が入ってくる、意味が生まれてくるというふうに思います。逆に、そういう気持ちのないしきたりは、単なる習慣あるいは単なる周りの目に対する虚栄心の発露であって、宗教的な要素を何を持ってないどころか、精神性すらない、と私は思うのですが、ちょっと過激でしょうかね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました