長岡亮介のよもやま話212「Win Winという言葉を聞いてびっくりしました!」

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 最近のニュースで、私がとてもびっくりしたのは、アメリカと中国の大統領あるいは主席という政治トップの人間の対話があったというニュースの中で、中国の習近平主席が、「地球はアメリカと中国の両大国が繁栄するのに十分な広さを持っている。したがって、互いの違いを認め合いながら、相互の良さをそれぞれ発揮して、Win Winの関係を築くことができるはずだった」という話をしたというのですけれど、私は直接中国や英語の対話を聞いたわけでありませんが、そういうわけで本当の確証はありませんけれども、もしいやしくも中国共産党を名乗る人がWin Winということを発言したとすれば、僕はそれはすごくおかしいことだなと思うんです。というのは、Win Winというのはどういうことかっていうと、両者がともに勝つということですね。しかし、戦いというのは、winの反対側にloser敗者がいるわけで、勝利というのは敗者の存在を前提にして初めて語れるわけです。みんなで仲良くするということは、決してWin Winではなくて、勝負ではない。仲良しになるということですね。勝ち負けではなくて、それにこだわるんではなくて、お互いに豊かになりましょうということです。このときに豊かさというのは、勝負に勝ったときの経済的な豊かさというのではなくて、ゆったりとした気持ちあるいは余裕のある気持ち、そういう意味での豊かさであります。そういう意味では、当然友達同士の関係で、winとloseっていうふうに勝ち負けがはっきりわかれるのではなくて、そういうものを超えた、あるいはそういうものと無関係な友情というのがあってしかるべきだったと思いますけれども。Win Winというのは、結局その当事者の間では二つとも利益を出す。そして第3のところに敗者を作ることによって初めて可能なんではないかと思うんですね。

 最近インターネットなんかで株式投資に関する講義をするとかそういう宣伝文句がいっぱいあります。こうすれば必ず儲かる。自分のお金に仕事をさせるって、そういうふうにするのが利口だというような言い方があります。戦後日本の資本主義の歴史を考えると、結局株を長く持っていた人が大きな利益を掴んでいるっていうことは事実であって、株というのは普通はゼロサムゲーム。つまり和はゼロであると。勝った人と負けた人がいて和はゼロである。これは言えますけれども、一方で長期的に考えると、よく言えば経済成長というやつですね。会社も経営が成長する。会社としての株価総額が上がる。そういうことを通じて株主が持っている株の価値が上がる。こういうことが言えて、一般に戦後のどさくさの時代から比べると、今は株価は大きく上昇しているわけです。全体として上昇していますから長く持っていた人は負けてはいない。利益を出しているっていうふうに言えると思いますが、短期的な売り買いをしている人の間では、やっぱり勝者と敗者がいるわけです。勝者と敗者がいるからこそ、株価の変動なんていうのが、なんと公共放送の番組を占めるまでになっているわけですね。そんなに株のようなものでお金を儲けることに人生の時間を使うことに意味があるのかと、私はそう思いますけれども。でも、実際にお金に困っている人は何とかしてお金を増やしたいと思う。そういう気持ちもわからなくはありません。

 しかし、そういう人の弱い心につけこんで、こうすれば絶対儲かるというような、株の、言ってみれば「購入指南」というんでしょうか。自分もその株を買う。そして皆さんも一緒に買いましょうよ。そしてみんなで儲けましょうよと、言うならわかるんですけど、自分の株を上げるために他の人に損をさせる。そういうような誘導するっていうのは、ものすごくまずいことですし、また自分たちだけ儲けるために、他の人に黙って株を操作する、というようなことをやりましょうよ。これも、最もみっともない話でありますね。Win Winという話から株価の話になったんですが、株価の話を出したのは、短期的に考えると、株価というのは決して投資家同士の間でWin Winの関係は成立するはずがない。必ずwinとlose勝者と敗者がわかれるんだっていうことです。勝者であることが続けば、それは株で勝ち続けるっていうことでありますから、すごいことですね。そういう奇跡的なことをやるために、デイトレーディングというのを精密に、言ってみれば数学的にやると、わずかずつではあるけれども利益を出すっていうことができるっていうことは、私も理解できますけれども、そのために使う時間考えると、私はあんまりそれはペイしないと思う。

 話を元に戻しますが、そのようにWin Winという関係は、どこかに敗者を作って自分たちだけは勝ち上がろうというときに使う言葉で、ビジネス用語だと思うんですね。そんな言葉を、こともあろうに中国共産党のトップが、アメリカ大統領に言ったというのは本当か嘘かわからないんですけれども、もし本当だとすれば、共産党を名乗る資格がないと私は思うんです。中国が共産主義国家でないということは、私はもう常識だと思うんですが、世界の人々は、特に日本の人々は、中国は共産党支配の国だというふうに思っていると思うんですね。共産党というのを名乗る一部の勢力が政治的な権力を独占しているというのは、間違ってないと思いますが、共産主義とは縁もゆかりもない世界というふうに私は感じています。全体主義国家であるというのは確かですけれども、資本主義的な利害打算で人間が動くということ、これが社会の基本原理となっている。それを基本原理とすることが当たり前となっている。そういう社会、これが共産主義社会であるはずがないですよね。しかるに、今の中国は本当に人々が自分のため、あるいは自分の一族のため、それであれば何をやってもいい。どんなに他の人が困ろうと構わない。そういう論理で動いているような気がしています。そして貧富の差がものすごく激しい。このことも、日本であまり知られてないことではないかと思います。

 日本の方が、よく言えばよほど社会福祉とか何かで行政の介入によって、人々の自由競争が妨げられている。典型的なのは医療でありますが、どんな医者にかかっても同じ費用を負担するだけですね。本当に立派な先生にかかろうと、その辺の本当に勉強も何もしてない、ようやく医師免許を取った、あるいは専門医試験とか一応取って、資格は持っている。しかしそんなものは厚労省の指導によって設立された学会の陰謀で、学会ビジネスでそういう専門医が取れているだけであって、本当の意味での理知的な専門家であると思っている人は、お医者さんの世界にも少ないと思います。本当にそう、昔だったら藪医者と言ったもんではありますが、そういう人たちが診るのと、本当にベテランの専門医が診るのと、同じ保険料収入になるんですね。それがちょっと異なるときがあるんです。それは「加算」という制度。病院に対してある特別な設備を備えているとか、そういう設備を使いこなせる医師をそれなりの数を集めているっていうと、「特別加算」というとんでもない制度があるんです。制度によって、お金でもって、人の心を引きつけ、そしてそれによって病院経営を近代化しようと、厚生労働省の役人はそういうふうに考えるんですけど、本当に人のためになろうとして医師になっている人、今でもガザ地区で、自分の命の危険を顧みず、子供たちの健康のために頑張っている医師、看護師、そういう人々は、そういう厚労省が考えるような特別加算のようなロジックで動いているはずがないですよね。

 人々の心を、そういう見え見えの金で釣るというような行政で、日本は動いているわけです。こんな国って、本当に資本主義なんでしょうか。私から見ると、資本主義の原理で動きながら、国家のロジックを社会の中で貫徹させるために、制度的に行政の権限を強くしている国だと、私はそういうふうに思うんです。日本のこの現状、こんなに行財政が圧迫された状況にあるのに、それにもかかわらず、経済的に困っている人のために、行政がお金を補助しましょうというようなことが言われている。そしてそれに反対する政治家が誰もいない。おかしいんじゃないでしょうか。貧しい人がいたらそれを助けること、それは当たり前です。しかし、助けるためには財源がなければなりません。ゆとりのあるところからお金を取ってきて、そのお金で弱い人を助けなければいけません。それが何もないところで、国債を発行して、それによってみんなにお金を配る。政治家がそれで自分たちの政治の力だというふうに宣伝するのかもしれませんが、ちゃんちゃらおかしいですよね。全く偽政治ですね。要するに、人気取りの大衆迎合主義の、一見社会民主主義をきどった、しかし、ただのバラマキでしかない。大衆迎合でしかない。将来にその負担を若い世代に残すこんな馬鹿な政策が、何故にこのようにまかり通るのか。まかり通るはずがない。その証拠に、日本円は今、急速に安くなっていますけれども、国際的な論調を見ても、日本の財政の悪化が世界の問題にもなっているわけですね。そういう現状を私達国民は知らされないまま、馬鹿な番組で、本当にそれによって私達の国民の生活の窮状が少しでも良くなるかのごとく言われている。そんなこと、長期的に続くはずがない。虚偽だったということを見破ることは、極めて重要ではないでしょうか。日本は、中国ほどにも、競争が徹底していない社会であると思います。そういうことにおかしいっていうふうに、若い人はずいぶん感じているんだと思いますけど。そういう若い人たちの感覚でそれを政治に反映させるために、若い人々に政治に関心を持ってもらいたいと思います。少なくとも、今の政治家が言っていることは、ずいぶん偉そうなことを言っていますが、考えてみれば小学生でもわかるような理屈に反しているという常識に立ち返ることが大切ではないでしょうか。そういうふうに思います。

 ガザとイスラエル、あるいはパレスチナとイスラエルの問題で、これは長い歴史がある問題でありますので、たった今始まった事件だけを見て、この惨状をどうしたらいいかというふうに私達もつい考えてしまいますが、長い歴史を考えるとこの問題を解決するのは本当に容易なことでないということにすぐ気がつきます。気がつくはずです。そして、そのような長い歴史観を持って解決に向かう努力をしていかなければならないのですが、短期的な展望で議論をしていくと、結局当事者間の憎しみ、憎悪が増すばかりで、悲惨さがますます大きなものになってしまう。この悲惨さを減らすために何をなすべきか、そのためにも、やはり私達はまず歴史をきちっと理解するということ。社会を理解するということ。Win Winのような流行り言葉の虚偽、それに敏感に反応する知性を持つこと。それが大切ではないかと思います。

コメント

  1. 山我一人 より:

    農家は野菜を作る。
    野菜を食べたい人がお金を払って農家から野菜を買う。

    農家はお金を得る。
    野菜を食べたい人は野菜を得る。

    これがウインウインですよね?

    • takada より:

      長岡先生はいま忙しいのできちんとお返事できないので、伺った話を元に代筆のような形でお返事します。

      %%%%%%%%%
      「もし農家が野菜を作ることが、自分自身の普段からおつき合いのある近隣の人、あるいは家族、愛する人のためであれば 、そしてそれに感謝されて自分の欲しい魚介類を受け取るとすれば、原始的な物々交換ですが、厳しい農業労働であっても大きなやりがいだと思います 。
      しかし、農家が、消費者の味覚や健康のことを考えず、窒素肥料や農薬、防虫剤をたっぷり使って米や野菜を効率的に、つまり最小の労働で最大の対価を生むように経済合理性に基いて生産し、それを農協を通して一種の公定価格で売ってお金を得て 、そのお金で、もし自分の欲しい高級な携帯電話や高級車を買う。あるいは人力を減らせる高性能の農耕機具を買うことになれば 、それは決して農家の人にとってハッピーだとは思いません。原始的な物々交換から発展した商業は、Win/Win というよりは、つねに妥協の産物で、いつも真に人間的な関係が前提とできるとは限りません。太平洋戦争の戰時中、敗戦直後、農家が急激にお金持ちになったのは、食糧を貴金属を手放しても手に入れたい都会の人がいたからではないでしょうか。近代以降の競争経済は Win/Lose の関係にある方がふつうかと思います。」
      とのことです。お役に立てば幸いです。

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