長岡亮介のよもやま話211「生真面目?おふざけ?」

*** コメント入力欄が文章の最後にあります。ぜひご感想を! ***

 今回は、ちょっとふざけた、しかし本当は真面目な話をいたしましょう。真面目な話を真面目にすると重くなりますよね。だから真面目な話をふざけするということは不謹慎ではありますけれど、芭蕉が言った“軽み(かろみ)”を実現するための良い方法ではないかと思うんです。というのは、私達は真面目な問題、真面目に考えなければいけない問題を普段避けているので、それを避けずに考えるために、ちょっとふざけてお話しようということです。

 皆さんは、「自分でしっかりと考えてから行動する、ということが一番大切である」と、言われるとその通りだと、納得していただけるんではないかと思うんです。しかし、本当に私達は自分自身でしっかりと考えてから、その考えがまとまってから行動を起こすことが本当にできるのか、という問題を考えてみたいわけです。結論的には、私達は誠に不思議なことに、何も考えずに行動しているかのように、行動を選んでいる。不思議なことなんですね。自分で考えていないのに、結果として自分で選んでいるかのように行動している。そういう自分がいるということに、私達は普段気がついていないということです。こう言うと、すごく真面目な話になって、哲学的に厄介な話になりそうですね。これで、おふざけの話としていたしましょう。

 朝、玄関を出るときに、皆さんは「行ってまいります」っていうふうに挨拶をして、玄関を出るとします。そのときに右足から出るか、左足から出るか。朝起きて、ご飯を食べながら考えて、よし今日は右足から出ようなどというふうに考えて、出発する人はまずいないと思うんですね。何も考えずに、どっちかの端から出る。つまり、結果としては右足か左足かどちらかで、両方の足から出るっていうことは特別な体育の競技のような動きをしなければできませんから、普通はしませんね。私達はそのどちらかを選ぶわけですけど、そのどちらを選ぶかということについて、十分熟慮した後で行動を選んでいるかというと、決してそうではない。そういう自分を発見せざるを得ないと思うんですね。つまり、私達は、「よく考えてから行動しなさい」と人に教わるわけですが、その教えをその教えの通りに守ることは、決してできないということです。

 「私達は物を考えなければいけない」と、私自身もそういうふうに若い人たちに言いますが、本当に考えて考えて考え抜いた後の結論に従って行動するわけではなく、行動しながら考える。考えながら行動するという、「ながら族」と言われるやつですね。音楽を聞きながら原稿を書くっていうのは私の一番得意の「ながら」でありますが、人間の生き方そのものが、「ながら」流というか、何々しながら、つまり、考えながら食べるとか、考えながら歩くとか、歩きながら食べるとか。だんだんだんだん行儀作法が悪くなってくるかもしれませんが、そういう「ながら」ということ、これが人間の持っている特異な流儀の一つなんだということを、私は今日お話ししたいと思いました。

 きちっと考えて、考え抜いた後でないと行動できないというタイプの真面目な人がいますが、私はそれは本当に真面目というよりは、むしろ臆病というべきであると。多くの人間は、そのようなときにいちいち考えないで、大胆不敵にも何らかの行動をとっているんだということですね。そういう「ながら」というか、結論を得ないまま、動き出す、そういう人間の本性というか、そういうものが存在するということに、私達は時には思いを寄せることが大切ではないか。そうしないと、「君の考えがまだ足りない。もう少し考えなさい」というような、何かやたら厳しい先生の指導を他人にだけして、自分自身は「ながら」で生きている。そういう人になってしまうのではないか。こういうことをお話したいと思ったのでした。本当は真面目な話をしたかったんですけど、ちょっとふざけたスタイルでアレンジしてみました。こういうのはいかがでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました