長岡亮介のよもやま話208「ふたたび科学的であるとは」

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 前にも何回も取り上げてきたテーマですが、「科学的とはどういうことか」という問題について、ちょっと新しく気づいたことがありましたので、それを付け加える形でお話をしたいと思います。しばしば科学的であるということを、自然科学のテクニカルタームを駆使して喋る、そのことをもって科学的と思っている人が少なくないような気がするんですね。例えば、「自然界の現象を、物質を構成している分子レベルの動きで説明すると科学的な説明になる」と思うような類の誤りですね。

 生物学というのは、言ってみれば命の単位である生物を対象としていますから、その生命現象の中に繰り広げられる様々な物質のやり取りの過程で、それを化学のレベルで解明するということも当然重要な課題となりますけれども、化学的な説明でもって生命現象が全て説明できるはずがない。それは、所詮化学的な分子レベルの説明というのは、物理学で対象とするような原子レベルの説明と比べれば、ひどく荒っぽいわけだからです。どのくらいの荒っぽさかというと、化学でいう元素記号とか原子番号とかって言われているもの、それがそれを構成する原子の陽子と中性子の個数であると。そういうふうに言うと、何かすごくものがわかったような気がするわけですが、物理学者がそのような認識に到達したのは、今から150年以上も前の話でありまして、それから物理学はえらく進歩している。そもそも、原子というもので、分子ができている。そして分子というもので、いろいろな物質が構成されているというような自然観。これは大雑把に見て原子論的な自然観と言っていいと思いますが、近代的な自然観の根幹をなしているものではあるけれども、それはごく啓蒙的なレベルの科学的な見方でありまして、本当の最先端の研究をしている物理学者あるいは化学者は、そのような粒子論的な、あるいは原子論的な原子像・分子像というのを持っているわけでは必ずしもありません。

 特に最近は、物理学でしきりと話題となる時空、とりわけ空間の問題。これは非常に深刻でありまして、私達は「空間とは何か」ということを、古代ギリシャの頃よりずっと話題としてきたわけでありますけれども、近代に入ってからはいわゆる“3次元のユークリッド空間”と私達が呼ぶところのもの、縦・横・奥行きで三つの互いに直交する方向に無限に伸びた、しかも場所によって偏りがない“等質等方”っていうふうにしばしば言いますけれども、そのような空間である。そのような空間に何がどこにあるかっていうことをきちっと定めるために、原点とか座標軸あるいは座標系というのを定めるといいんだ。これは近代科学の出発点となった思想であり、この近代科学の出発点となった思想が、それから3,4百年も経った今でもみんな信じているというわけではないんですね。むしろ、3,4百年前の自然科学者たちが初めて抱いた近代科学的自然像が、3,4百年を経て、一般の人々の間にも普及してきた。しかもそれも通俗的な形で普及してきた、と私はそう思うわけです。

 言い換えれば、大げさに言うと、科学的なものの見方というのを振りかざす人は、恐ろしく非科学的なのではないかということです。科学的であるということは、私達がわからないということに対して、常に誠実に向き合っていくということですね。科学的に物事を明らかにするといった人たちは、いわば自分たちの研究発見で自然の事柄が全部解明できたかのように語っている。でも、本当に研究している人たちは、自分たちがまた未開拓の未知の領域を開いた。つまり自分たちの知識によって知っている世界は増えたけれども、その知っている世界が増えたことによって、実は未知の世界がまだ豊富に残っているということを知っている。つまり科学というのは、科学的な知識の増加によって私達の知識が増えるというそのことだけ多くの人が見ているんですけど、実は知識が増えることによって、私達が全く未知である世界もまた増えている。むしろ未知の世界の増え方の方が大きいといった方がいい。17世紀くらいの科学者たちは自分たちが得た新しい知見によって、ものすごく多くのことがわかった。そういう喜びの中に生きていたと思います。

 しかし、21世紀の科学においては、私達は、多くのことを知れば知るほど、私達がどれほど多くのことについて未知であるか、それについて知らないか。そのことを自覚せざるを得ない。そういう日々を送っているわけです。科学的であるということは、究極のところ、ちょっと皆さんにはアイロニカルに聞こえるかもしれませんが、「科学的であるということは、自分たちが外界の世界、あるいは内面の世界も含めていいかもしれませんが、私達の周りの世界に対して、いかに無知であるか。いかに私達が知っていると思っていることが、そのほんの一部であるかということを知っている」ということです。それが科学的であるということであり、であるからこそ、私は若い人に自然科学を一生懸命勉強してほしい。その自然科学の勉強・研究を通じて、私達は生まれたままの自分よりも遥かに優れた知恵を持った、自分の無知について理解した存在となりうるのだから。そう考えている次第です。

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