長岡亮介のよもやま話207「たまには人生の価値(8/5TALK)」

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 今日は少し真面目なタイトルを掲げてみましょう。それは、「私達は何のために生きているのか」という人生最大の問題に関して、アプローチを試みようということです。もちろん、人生の価値といった難しい問題を、短い言葉で語る、あるいは語り尽くすということは決してできないわけで、今日お話したいと思うのは、そのようなものについて考えることそのものに意味があるということです。そのようなことを全く考えない人生というのも、最近は目の当たりにすることが多いわけです。ある意味で自分の人生の意味というのを深く考えることなく、今がよければいいじゃないか、自分が良ければいいじゃないか、あるいは家族が満足しているならばいいじゃないか、あるいはどうせ死ぬのだから楽しく過ごせばいいじゃないか。こういう思想ですね、これ思想と言っていいかどうかわかりません。生き方というべきなのかもしれません。何か非常に軽く、物事を捉えている。そういうふうに軽く捉えていると、どんなしっぺ返しがあるかというと、いざ自分が病気になって、それが深刻であるということが知らされると、急にジタバタするということですね。

 私達は毎日毎日あるいは一刻一刻、死に向かって近づいている。そういう紛れもない現実を忘れて、今がよければいいじゃないか、自分が良ければいいじゃないか、自分の家族が良ければいいじゃないかというふうに考える。これは考えと言える代物ではなくて、ほとんど昆虫でもそのような原理に従って動いているのではないかとさえ思いますが、最も、昆虫学の先生たちは、「いや昆虫はもっと賢い。集団としての生存戦略を持って生きているんだ」と、難しいお話になるかもしれません。それは置いておいて、とりあえず「飛んで火に入る夏の虫」のような儚い虫の人生、虫の一生を支えている個々の虫の考えというのは、きっと種の生存戦略というような本能に刷り込まれたものとは違う非常に軽いものなのではないかと思いますが、その虫けら以下のことしか考えていない。プリゴジンの乱の首謀者というか、中心的な人物がポーランドの近くに行っているそうですが、ベラルーシの大統領に「このままモスクワに進軍したら虫けらのように殺されるぞ」と言われたということが日本で伝わっています(8月23日死亡)。それをロシア語で何と言うのか興味のあるところでありますが、虫に対して、“虫けら”という言葉が、日本語と同じようにあるのだとすればとても興味深いと私は思ったのですが、人間から見ると非常に小さな虫を殺すのは容易なことであるわけです。そして多くの場合、動物を殺すのと違った罪の意識の軽さがあるんだと思いますね。ひねり潰しても全然構わない。多くの都会の中で生活している人は虫が嫌いですから、虫がやってくると、それを間接的な方法、例えば殺虫剤をまいて殺すとか、いわば毒ガス攻撃ですね、あるいは直接ひねり潰すとか、そういう残虐な行為で虫を抹殺する。それで特別罪の意識を感じるっていうことがないではないかと思います。仏教のように「虫1匹さえも殺さない。殺生を一切禁止する」という思想を実践している人は、日本の熱心な仏教徒の間でも極めて例外的ではないかと思います。日本の場合、本当に仏教徒がいるのかというもっとより本質的な、あるいは深刻な問題があるということも事実であります。

 難しい問題は置いておいて、とりあえず私達は生き物が生きていてやがて死ぬ。虫けらのように容易に人間に殺される。そういう生命もあれば、人間のように、「人の人生、命の重さは地球よりも重い」と言った政治家の発言は綺麗事ですね。私は、そのような例え話に出てくるそもそも「地球の重さ」といったときにその政治家が地球の重さをどのようなものとして捉えているのか、ちょっと聞いてみたいと意地悪に考えたものでありますが、ともかく、人間にとって命っていうのはかけがえがない大切なものですね。そのかけがえのない大切のもの、それが無くなろうとしているときに、「自分の一生は一体何だったのか」というふうに考えてこなかった人は、大慌てするのではないかと思います。もちろん、自分の人生が何のためになるかということを考えた人、考えてきた人でも、自分の死を前にして、やはり自分の生涯を振り返って反省したり、あるいはより良い人生の可能性を改めて考えてみたりするということはいくらでもあると思います。人間はある意味で煩悩から自由になれない。そういう業(ごう)のようなものを背負っていると私は思いますが、それにしても、自分の病気が最終段階であると告げられたときに大慌てする。そんなことよりはできるだけその日に備えて生きていくというのがいいのではないかと私は思うんです。その日に備えて生きていくということは、その日のために生きていくということでもあるわけですね。そのときに自分が納得して死ぬことができるように、少しでも納得して死ぬことができるようにする。できれば感謝の気持ちを持って死ぬということができたら素晴らしいなと思います。

 そういう何らかの充実感あるいは満足感をもって死ぬ。そのために、私達はやはり今だけを考えるのではなく、「人生の意味」というのを考えるということが大切なのではないかと思います。いわば人間の生命を超えたものに対する尊敬の念、崇高な存在に対する尊敬の気持ち、そういうものを持って生きていくことが大事なんではないかと思うのですが、このように言うと皆さんは私が宗教がかっているというふうに言うかもしれません。私は別に宗教がかって、この食べ物は戒律に反するとか、この日は休暇にしなければいけないとか、そういう戒律を皆さんに押し付けるつもりもなければ、その戒律に従って生きることが重要なことであると思っていません。日本のある種の仏教界にあるようなは、言ってみれば法名とか戒名とかそういったものを販売することによって生きていく坊さんたちの生き方を尊敬しているわけでも全くありません。実に馬鹿げたことですね。最終的な霊感商法と言っても良いものだと思いますが、この霊感商法の厄介なところは、騙される側が騙す方に喜んで従っているということですね。本当に心から喜んでいるのかどうか怪しいところがありまして、世間体とか、いわば非常に世俗的な価値観に囚われてその習慣に従っているだけであると、私は感ずることが少なくありません。つまり、そのような霊感商法に引っかかるというような宗教的な場面においてさえ、人々は決して宗教的に考えているわけではないということですね。人間の存在を超えたものに対する人間の敬虔な気持ちから喜捨する、大切なお金を宗教界に寄付するという行為に及んでいるんではないんではないかと私はちょっと否定的に考えます。

 私達はもう少し本当に日常的な毎日の生き方のそれぞれの場面で、自分たちの行動を反省しながら、その反省するというのは決して良いことをするとか悪いことをするとかそういうことの反省ではなくて、私達がやがて死んでいく存在としてこのように行動していることが、自分にとって満足のいくことであるかどうかということですね。どうせ忘れてしまうんだから、どうせ死んでしまうんだからと考えているんではないかと、私は考えざるを得ないような人々の行動場面に接することがあるんですね。ずっと昔に触れた話ですが、若い美しい女性が電車の列を乱して、今出る電車に飛び込んで、自分の座席を確保してニンマリする。そして、携帯電話でゲームをやり出す。そういう姿を見ると、私はものすごく悲しくなる。それは、きっとその表面的には美しい若い女性、そんな人の内面がいかに貧弱であるか、いかに貧しいか。ということの証しをしているような気がするからです。そのような貧しさを眼前に見せつけられて、私自身も何か心が寂しくなってしまう。もっともっと人間は崇高な存在に対して憧れるということのできる特別の動物だと私は思っているんですね。そして、その崇高さっていうのが宗教的な崇高さについて語ると、どうしても世俗宗教について語らなければならなくなるので、私はあえて宗教のことを触れないんですけれど。むしろその崇高さというものについて、本当に考えたいならば、一番わかりやすいのは、大変世俗的な例ではありますが、「数学的な真理」それについて考えれば良い。私達は、真偽とか、善悪とか、美醜そういうような「真・善・美」、その反対には、「偽・悪・醜」というのがあるわけですが、その「真・善・美」というような本当の究極の価値観に対して、私達が謙虚でかつ真摯であるということが、私は人間として行使することのできる特権だと思うのですけども、多くの人がその特権を行使することを全く知らずに、しない間は、せっかくの人生を過ごしているのではないかと心配します。

 「真・善・美」っていうと、えらく高尚な気がしますが、わかりやすく言えば数学っていうのはまさに「真・善・美」の世界でありまして、数学で問題にするのは正しいか正しくないかということだけだと、思いがちなんですが、実は良い数学と悪い数学ってのがありまして、言ってみれば計算するだけの数学っていうのは、醜い悪い数学なんですね。美しい数学というのがあって、数学的な美しさっていうのは、数学の関係者が語ると、美しさのわかる人間だけが集まって、これを美しいねって言っている。それわからない人は話がちんぷんかんぷんで、ツンボ桟敷に置かれる。そういう感じがあるので私はあまり普段は数学的な美について語るということはしないわけですけれど、数学の関係者が数学的に美しい言っているものは、真理として美しい、真理として崇高である、真理として善であるということとあんまり変わらない。それが美しいという言葉でしか語り得ないのは、別の言葉でそれを置き換えることが難しいからなんですね。単に数学的に正しいってことだけであれば、良い数学でなくても数学としては正しいと言える、あるいは美しい数学でなくても、数学としては正しいといえる。でも、数学として本当に正しいものは、単に正しいだけではなくて、それは善でもあり、それは美でもあるということ。これを強調したいわけです。

 今、数学教育がすごく堕落していると思うのは、数学的な真理か偽であるか、真偽についてしか問題としていない。「これは正解ですか?正解でありませんか?」それだけを問題として、そんなことは問題じゃない。良い正解もあれば悪い正解もある。美しい正解もあれば美しくない正解もある。これが大事な点なんですね。そして、私は数学という非常に小さな例をとりましたけれども、そのような例を通じて、「真・善・美」という世界が私達の日常的な世界の周りに本当は存在し、そのことについて常に考えるということを、習慣にすることが大切ではないかということです。「真・善・美」から遠く離れた人生、それを正当化するようではいけないということですね。

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